その刃は抜かずとも
景色に大きな変化は見られなかった。ミルティシアの足音は、葉のざわめきにかき消されていく。
森に足を踏み入れてから数分。背後にあったはずの陽の光は既に遠く、代わりにわずかに降り注ぐ木漏れ日だけ。
それでも、周りが見えないわけではなかった。かすかに音も聞こえてくる。万が一があっても、彼女は即応できる。
「……しばらく、とは仰っていましたが」
一体どれほど奥まで行けばよいのか、ここまで来ると彼女には見当もつかなかった。
村の若い男が、食料確保のために入ったのが始まりだったはずだ。そう深くまで足を踏み入れてるとは思いづらい。
わずかな思案とともに、遅くなることもないまま歩を進める。
やがて、右側から水の音が彼女の角に届き始める。
同時に空気の重さが変わったのを、肌で感じた。
「これ、は……」
藪をかき分けて水の方向へ進むと、そこには赤黒い体表の、牛の頭をした巨大な人型の生物。
それが、左足首を抱えながらうずくまっていた。
「ダレ、ダ……!!」
ミルティシアの足音に気づいたのか、瞬時に顔を上げて立ち上がろうとする。
「落ち着いてください。私の言葉が、わかりますか」
両手を顔の横に上げながら、牛頭の生物に声を掛ける。
「ワレ、ワ……ワレハ、コロシ、テ……イナイ!」
満足に立ち上がれぬまま、言葉を続ける。まだ彼女の言葉を理解しているか、確証は持てていない。
「すみません。少し、近くへ寄らせていただきます」
ゆっくりと、両手を上げたまま牛頭の生物へと近寄っていく。相手に緊張が走っているのを、彼女は理解していた。
だからなおのこと、その歩は慎重を極めた。時折完全に足を止めながら、目と目を合わせながら、わずかに感じ取れる"許し"を得ながら。
彼女が彼の横へたどり着き、かがみ込むまでには相当の時間を要した。
「少し、染みます。ですがこれは、貴方様へ向ける敵意ではありません」
持ってきていた消毒液を垂らし、薬草の包帯を左足へと巻き付けていく。彼はわずかに呻き、その痛みを受け入れた。
「オマエ、ナゼ……」
「私は貴方と話をするために、近くの村から来ました。貴方が木を投げたその時のことを、教えて下さいませんか」
人語を解する魔物、というのは実はそう珍しくはない……とは聞いていた。だが、その多くは通じる相手を騙し、裏をかくために使われる場合がほとんど。
おそらく彼は、特殊な例なのだとミルティシアは思っていた。
「ワレハ……コノ、アシヲ……」
拙い言葉でありながら、必死に彼女へ伝えようとしていた。彼女もそれに寄り添い、可能な限り意図を拾い上げた。
そうしてわかってきたのは、彼は被害者であったということだ。左足の傷がそれを物語っており、しかし避けられるものでもなかった。
そもそもこの森には、それなりに野生動物も多いらしく食料調達の場としても優れていたそうだ。
それは人間にとっても、魔物にとっても変わらないことで。つまるところ、狩り場としての領域が重なってしまっていたのだ。
「村の方たちが仕掛けた罠で足に怪我を負ってしまい、そこを村の別の方が通りがかり、思わず木を投げてしまったのですね」
「アテルツモリ、ハ、アッタ。ソレガ……タダシイ、ト、オモッタ」
つまるところ、これは単なる不幸な事故であった、ということだろう。だが避けるためには、お互いのひと手間が足りていなかった。
とはいえこの足りないひと手間は、事前にわかるものではなかった。お互いがお互いを敵視して当然の立場。
そこへ"事前の対話"などという選択を取れる人間は、まずいない。
「……おおよその事情は、私も把握しました。ですが、貴方様のしたことも、結果として褒められるようなことではないのも事実です」
「ナニヲ、スルキダ……!」
牛頭の魔物に、僅かな殺気が立つ。だが、それをミルティシアは制した。
「謝りましょう。その村の方に」
「アヤ、マル……?」
「貴方様がたの生活、ひいてはその文化に"謝罪"というものがあるかはわかりませんが……」
彼女は人間社会における謝罪というものを、彼に教えた。相手が怒りそうなとき、怒ってしまったとき。そこへ差し出す、誠意の言葉。
「事情を説明すれば、村の方々も理解してくれるはずです。もしそうでなければ、ここを離れたほうが良いでしょう」
「ダガ、ワレ、ハ……」
彼の視線が、包帯へと落ちる。
「ご安心を。私がまず、村の方々に貴方様の事情をお伝えします。貴方様の謝罪の言葉も、私の口を通してお伝えします」
そう告げた彼女の目は、少し近い過去を見ていた。
お読みいただきありがとうございます。
一度逃した機会が、また目の前に転がり込んできたら。
彼女にもそういう一面があるのだと、感じ取っていただければ幸いです。