証しなき善意
それから2日ほど、ミルティシアはあの宿の世話になった。女将もすっかり打ち解けており、彼女へ頼み事をするのにもためらいがなくなっていった。
流石に夜の時間は他の給仕もいたこともあって手伝わせてくれなかったが、朝や昼といった宿の準備に関わることだけは、しっかりと任せてくれた。
そうして今日もまた、ミルティシアは女将の"メモ"とバスケットを両手に市場へ向かう。
宿から出た瞬間だった。
なにかが、違う。
「……あれ、本当だったのか」
「やっぱり、あそこにいたんだ……」
ミルティシアの姿を見た瞬間、声をひそめる人たちを、彼女は間違いなく見た。
だが、彼女には鼓膜がない。側頭部の角に伝わる空気の振動だけが、彼女に音として伝わる。これは、竜人の特徴の一つ。
ゆえに。彼女には声を潜める陰口が聞こえなかった。活気のある街の中で、わずかに見える冷ややかさ。それを目と肌で感じることしかできなかった。
「おい。……"鉄の侍女"ってのは、お前だな?」
昼下がりだった。市場から帰る途中の道。巡回していた衛兵たちに呼び止められた。
「はい。確かに、私はミルティシアと申します」
「お前に傷害の疑いがかかっている。詰所まで同行願いたい」
なんの心当たりもなかった。いや、一つだけあったが、それならもっと早くに声がかかるはずだ。
「一体、どういった内容でしょうか。教えていただけますか」
本能が警鐘を鳴らす。このままついていってはいけない、そんな気がして彼女は留まることを選択した。
「朝方だったか。人気のない路地で"竜人のメイド"に怪我をさせられた、という話を聞いた」
「この街で竜人といえばお前だけだろう。被害者もいる。同行願いたい」
その時、ようやく腑に落ちた。明らかに、違う。
彼女が知るはずのない一件。明確な、冤罪。
「いいえ。その件でしたら私ではありません」
「だが被害者はそう言っている」
「いいから来るんだ」
衛兵たちの語気が強まる。このまま自分の言葉で納得してもらうにはどうするか。
「ちょっとあんた達! その子は買い物に出るまで、あたしの水汲みに付き合ってくれてたよ!」
老婆が割って入ってきた。
しかし、朝の水汲みを手伝ったのは昨日のこと。そう言葉にしようとした瞬間、老婆が「黙ってな」と、目で訴えかけてくる。
「そうは言うが、お前一人の証言でこの女の潔白を」
「だったらなんであんた達は、その被害者一人の言うことをまるっと信じてるんだい?」
「それは、被害が明らかに」
「それならあたしだって明らかにこの子と一緒だったよ。文句があるなら、この子と一緒に詰所まで行ってやるよ。なんだったらその被害者とやらを連れてくるんだね」
老婆の言葉に二人の衛兵が目配せをする。面倒なやつらが揃ってしまった、と。
ミルティシアにも、明らかにそう受け取れた。
「だいたいあんた達、ちょっと前に騒ぎになった屋敷の連中だったろう。あたしゃしっかり覚えてるよ」
「わかった。わかった。今回はその言葉に免じて、一度被害者の証言を精査しよう」
「もし問題があったらまた声をかける」
衛兵たちが不満そうに退いていく。そこには事実を追い、裁く者としてはあまりにも不誠実な音が混じっていた。
「ありがとうございます、御婦人。ご迷惑をおかけしまして、申し訳ありません」
「いいのいいの。あんたは何もなしに人を傷つけるような子じゃないでしょ。あたしゃわかってるよ」
それよりも、と老婆は言葉を続ける。
「どうやらあんたについて書いた文言があってね。あたしはそりゃもう感動したんだけどねえ」
老婆が、わずかに目を伏せた。
「ここまで"良い人"なのには、なにか後ろめたいことがあるんじゃないかって、そう言い始めた奴がいるらしくてねえ……」
「それは……そのようなことは」
「いやいや。あんたのやってきたことは全部正しいよ。だけどね」
人間の住む街というものを、老婆はミルティシアよりも遥かに長く見てきた。だからこそ、老婆にはわかってしまったのだ。
「あんたが良い人だ、って。心から信じられない、そういう後ろめたいやつもいるんだよ……」
「では……私は……」
「違う。違うんだよ。これは、あんたの行いの話じゃない。あんたの行いを見てきた人の話だよ」
「……それは、どういう」
ミルティシアにはわからなかった。自身の行動を、そのまま受け取れない人がいるということを。
「あたしはね、あんたに水汲みを手伝ってもらった。それにほら、宿の手伝いもしてるだろう?」
老婆は言葉を続ける。ゆっくりと、諭すように。
「でもね。あんたのその行いを、受けていない人がいる。受けられていない人がいる。そういう人たちには、伝わりづらいんだよ」
「でしたら」
「ダメだよ。そんなことしたら、あんたの身体は一つじゃ足りなくなる」
ぴしゃりと、老婆は彼女の衝動を止めた。
「……ほんとはねえ。あたしだって、信じたいんだよ」
「誰を、ですか」
「この街だよ。あんたの事を、ちゃんと受け入れてくれるって……そう、信じたかったんだけどねえ」
老婆のその言葉に、ミルティシアは答えることができなかった。
お読みいただきありがとうございます。
静かな在り方は、時に受け入れられないことがあります。
それでも。彼女は刃を抜かずに、ただ立っていました。
もし、この街に対して言葉にできない感情が残ったとしたら――
その胸のざらつきごと、大切にしていただければと思います。