リングトムの訪問
「ふう…」
エリスは新聞を開き、目的の記事がないか探したが、今日も載っていなかった。 アイナ襲撃未遂事件から十日経つが、犯人は捕まっていない。
カーラに頼んで遊月公園の様子を見てもらった。公園には一応不審者注意の貼り紙が申し訳程度にあったという。
匿名での投書でも貼り紙をしてくれたのは、むしろ有難いことなのかもしれない。(投書に貴族や富裕層が使う上質な白羊紙、封の蝋にはこれまた高価な金蝶蝋を使ったので、公園の管理人が気を使ったのだろう)
心地良い晴れの日が三日続き、皆が雨期ももう終わったと思ったら、それ以降は小雨が続いた。
その日エリスの元へは午前中刺繍の教師が来ていた。
刺繍は身分問わずバロテア女性が身につけるべき教養である。実際、服飾関連の産業はバロテア経済を支える大きな柱のひとつであり、また女性が社会進出できる数少ない分野でもあった。貴族の令嬢たちは個人教授を雇い、庶民階級の娘たちは学校の学科や塾で学んでいる。
実はエリスはあまり刺繍は得意ではない。
刺繍を教える老婦人の棘のある小言に耐えた。授業が終わると(礼儀として)玄関ホールまで老婦人をお見送りする。
老婦人を乗せた小型の馬車が去るのを見て、全身から力が脱けるのが分かる。
そうして昼食もとうに終えた頃、メイドが思いもしない来客の訪問を伝えた。
図書室で読書をしていたエリスは驚いた。
半年ぶりに婚約者のリングトムと顔を会わせることになったのである。
エリスは慌てて応接室へと向かった。その後をカーラがついてくる。
間の悪いことに両親はそれぞれの用事で不在であった。
屋敷の一階にある応接室の扉のノブを掴んだ瞬間、エリスは一瞬深呼吸をした。重たい気持ちを振り払うようにして、扉を開ける。
応接室では聖士隊の制服を着たリングトムが椅子に座っている。
家令とメイド長がお茶を入れ、対応していた。
応接室にはエリスが予想していた以上の張り詰めた空気が流れていた。
エリスは噂前のように明るい笑顔で、リングトムに挨拶した。
「まあリングトム、お久しぶり」
リングトムは椅子に座ったまま「ああ新年の茶会以来だな」と言った。
金茶色の髪は短く刈られており、男らしい四角い額が見えている。宝石を思わせる緑色の瞳がエリスの方へと向いていた。
以前のエリスだったならば、その瞳で自分の方を見られていただけで顔が赤くなったことだろう。
だが今は表面上ににこやかな笑顔を見せながら、一方でリングトムを冷静に見られるまでになった。
リングトムの様子から好ましい理由でシトワ家に来た訳ではないことは確かである。
エリスはリングトムの前に置いてある椅子に座った。メイド長がエリスの分の茶を淹れる。
「聖士隊のお勤めは御多忙と思っておりましたが、どのような御用件でこちらへ?」
さほど往来のない者が使者も出さず訪問してくるとは理由があるのだろうーそう察したエリスは無駄な前置き無しに用件を聞いた。
その台詞は聞いた者によっては大層な嫌味とも取られかねず、家令とメイド長、カーラは表情は崩さずとも顔色を青くした。
不機嫌そうに鼻をフンとひとつ鳴らしたリングトムは言った。
「遊月公園の続きだ」
エリスはその台詞を聞いたのち、ようやく自分のカップを手に取り、お茶を飲んだ。胸の内に起きたさざ波を消すためである。
お茶には果物の蜜煮も砂糖も何も入っていなかった。そのため、お茶の苦味がエリスの中にあるカンバヤシの意識をいつも以上に強く引き出してきた。
家令とメイド長に「ここはもう良いから」と応接室から退出させる。カーラは残らせた。
「アイナさんから聞いたのですか?」
「ああ…。実は今日こんな事があった…」
聖士隊の任務が午後からであった。
小雨続きの天気、アイナの気分が落ち込んでいないか気になったリングトムはご機嫌伺いにアイナが下宿しているワモド氏の館へ行った。
いつものようにアイナが好きな焼き菓子を持参し、これまたいつも通される談話室へと通された。
メイドが淹れてくれたお茶を飲みながら、アイナと話していたところ、突然談話室の窓硝子が割れ、ぼろ布に包まれた物体が入ってきた。
メイドが悲鳴を上げる。気丈なアイナは驚きはしたが、悲鳴は上げず、メイドを慰める。リングトムが窓硝子を割った物体を確かめる。
それはぼろ布に包まれたドブ鼠の死体だった。
慌てて投げ込まれた窓硝子の方を見ると、雨用のマントを被った黒髪の女が走り去るところだった。
それを見ていた恐慌状態に陥ったメイドが「こんな恐ろしいことできる黒髪の女なんてシトワ伯爵の令嬢くらいですよ!」と口走る。
いつもの温厚さを捨て、アイナがメイドを一喝した。
「エリス様はそんな恐ろしいことをするような方ではありません!」
リングトムはその言葉を聞き、思わず尋問した。
「エリスと会ったことがあるのか」
最初のうちは何とか誤魔化そうとしていたが、リングトムの追及に勝てず、遊月公園での一件を話した。
その話を聞き終えたリングトムがこうしてシトワ家に来てるという。
エリスの傍で話の一部始終を聞き終えたカーラは、身体の底からこみ上げてくる怒りを何とか押さえようと下唇を噛みしめていた。
エリスは冷静であった。二杯目のお茶(これも何も入っていない)を飲む。
「それで私を犯人扱いしたメイドさんの口止めは勿論されたんでしょうね」
「アイナと私がした。元々思い込みが強いヒステリックな性分らしい」
「そう。私は今日の午前中は刺繍の稽古をしていたから、そんなことできませんもの。調べて頂いたらすぐにお分かりになると思いますが」
エリスはカップをテーブルに置く。一方リングトムは全くカップには手をつけていなかった。
両者の間にしばし重たい沈黙が支配する。
やがてリングトムが我慢できないといった様子で話出した。
「アイナは汚れの知らない『一角獣の乙女』だ。田舎から出てきて、年もまだ十六だ。聡明な頭脳を持っていてもまだこの世の表しか見えていないところがある」
突然何を言いだすのか。
エリスはリングトムの考えが読めず、仕方なく次の言葉を待った。
「エリス、お前が自分と同じ黒髪の女を雇ってアイナに嫌がらせをしているんじゃないか。遊月公園で助けたふりをして、自分から疑いの目を逸らせようとしているんではないかと」
この考えを聞いたとき、エリスは思わず「ほう」と感嘆の溜息をついた。
(そのようにも考えられるのか)
だがリングトムはエリスの感嘆の溜息に馬鹿にされたと思ったらしく、椅子から立ち上がり、
「失敬する」
と言った。
リングトムが応接室から出て行く。
エリスとカーラも(礼儀として)見送りのため行った。
玄関ホールでは男性使用人たちがリングトムに上着と帽子を渡していた。
エリスは疑問に思っていたことを尋ねた。
「聖士隊のお勤めをお休みされてまで来られたの?」
リングトムは鋭い眼光をエリスへ向け、ぶすっと言った。
「今日は元々訓練日だ。隊長が何か用事ができたと仰られ、それも無くなった」
小雨の中、待たせていたナーター家の馬車に乗り込み、去って行った。
溜飲をすっかりと下げたカーラは午後の用事に勤しんだ。
エリスは、自室のカウチに寛ぎながら、歴史書を読んだ。