第135話 魔法の力
カイム・ディオエは今、ちょっとここ数年覚えがないくらいの大きな感情の揺らぎ――どころではすまない濁流を、どう御していいのかわからずに困惑している。
歳を取ると別に木石になるというわけではないが、すべての角が取れて丸くなってくるものだなあなどと、若い頃の強がりや悟ったふりではなく実感できてきていたのにこの様である。
要は歳を重ねればあらゆる体験がこれまでの経験に紐付けられ、心がそれを新鮮と感じなくなるだけにすぎないらしい。
辛く悲しい記憶であっても、それを幾度も反芻していれば慣れからは逃れられないのとどこか似ている。
それだけがすべてで、人生とはそういうものさと嘯けてしまえば、人の晩年とはつまらないということになりそうなものだ。
だが意外とそういうものでもないらしい。
見たことのないものを目の当たりにすれば、人はその年齢にかかわりなく驚愕し、動揺する。
積み重ねてきた経験が役に立たないばかりか、積み上げたがゆえに我知らず強固に出来上がっていた自分なりの常識を叩き壊される分だけ、若い者よりその衝撃は大きいのかもしれない。
事実、カイムは自身が希少職である魔法剣士として魔法も扱えるだけに、先刻のような規格外を目の当たりにした際の驚愕は大きい。
なまじ「魔法」というものをわかったつもりでいたからこそ、自分が駆使する魔法と根を同じくするものだと俄かには信じられないのだ。
自身の強化や防御、ちょっとした飛び道具としての各属性の魔法弾。
カイムはそれどころか初級とはいえ回復魔法も身につけており、単独冒険者としては個人ですべてが完結しているともいえる。
過去アーガス島で一党を組んでいた頃には前衛、後衛を問わずフレキシブルに動ける存在として、多くの冒険者たちから頼りにされ、重宝されていたものだ。
それだけでも充分に魔法は偉大であり、使える者と使えない者の戦闘能力の差は、武器を持った者と無手の者と同じくらいのものとなる。
カイムにしてみれば「ちょっとした」という認識の属性弾であっても、直撃すれば普通の人であれば死に至るし、魔物であっても一撃死は無いまでも少なくとも動きは止められる。
魔法とは確かに、人の戦闘能力を飛躍的に向上させる能力なのだ。
過去、一、二度目にしたことのある上位魔法と呼ばれる火炎球は、カイムも使える火炎弾などとは比べモノにならないくらい強烈な一撃であった。直撃を受けた強大な魔物が一撃で消し飛ぶ様子を見て、魔法というのは自分も行使するものでありながらも恐ろしいと畏怖したことを今でもよく覚えている。
爆裂や水流瀑などの、他の上位魔法も一度でいいから見てみたいものだと思ったものだ。
とはいえ先刻カイムが目にしたアレは、そういう域をはるかに超越している。
強さがどうのこうの、数がどうのこうのではなく、その射線上に重なった魔物をすべて例外なく消し飛ばすなど、ながく冒険者として一線級を務めてきたカイムであっても終ぞ目にしたことなどなかった。
あれこそが魔法だというのであれば、世間で特別視されている自身を含んだ魔法使いが自慢げに行使しているのは、魔法っぽいナニカ――少なくとも今カイムの眼前をすたすたと特に緊張感もなく歩いている、本物の魔法使いにとっては児戯ですらないだろう。
いっそ魔法に対する余計な理解がないほうが、「魔法はすごいなあ」で納得できてしまうのかもしれない。
さっき救われた若手有望の一党メンバーたちも、救ってくれた存在がすごいということは理解できていても、その行使した魔法が世に言われる魔法とは桁が違うのだということには思い至れていなかったようだし。
自分たちの攻略、冒険者暮らしに魔法が関わっていなければ順当ともいえるのだろうが。
カイムとしては救い損ね、死に損ねた先の一件からまだいくらも時間は経過していない。
少々の慢心もあったとはいえ、迷宮の理不尽、ある日すべてをお仕舞いにする不運に見舞われた者たちに、自分たちだけで地上に戻れというのは少々酷かなと思わなくもなかった。
特になにもなければ、カイムは地上まで付き合っただろう。
いや特になにもなければカイムはあそこで死に、少々酷どころかそこからの魔物の追跡――魔物列車から彼女らが逃げ切れるかどうかも運次第、というのが普通だ。
その普通でないことが起こったからこそ、カイムを含めてみなは助かったのだ。
だからこそカイムはこの奇跡のような出逢いを後にして、不幸に見舞われた一党とともに地上へ戻ってやることはできなかった。
――それに彼女らは、誰一人欠けることなく、全員が助かったじゃないか。
反射的に、そうも思ってしまった。
自分の命を捨ててでも救おうとした者たちが、全員無事で助かったのだから本来であれば文句などあろうはずもない。
少々ばつが悪かろうが、自分も含めて全員生き残れたのであれば最上の結果のはずだ。
あの一党の頭首であろう綺麗な娘は、魔物をなぎ払った謎の冒険者よりも先に、最初に包囲を切り裂いたカイムのもとへ駆けつけて、本気の感謝の表情を浮かべてくれてもいた。
だがその心からの感謝と、安堵の表情を見てカイムは思ってしまったのだ。
――なんで俺たちの時には、こんな奇跡が起きなかったんだろうなあ……
と。
自分が命を捨てて、彼女らが助かったのであればまあアリだと思えた。
自分が力尽きた後、やっぱり魔物たちの追跡、敵意共有した複数の魔物から逃れ切れなくて命を落としたとしてもそこまでは知らん。
しょせんは自己満足と、過去の経験から頭で考えるより先に躰が勝手に動いてしまったに過ぎない。恩に着せる気もなければ、責任を持つつもりも義理もない。
物好きの犠牲の上に生き延びられたという、少々の後ろめたさと気まずさくらいは抱えて生きていってもらおうという、そんな程度の意地悪しか持ち合わせてはいなかった。
だがなんでお前らだけが、と呪詛にも似た想いを一瞬とはいえ抱いてしまった。
そんな自分に心からの感謝を向けてくれた彼女にどんな顔をしていいかわからずに、おそらくは間抜け面をさらしていただろうと思うカイムである。
それでもそんな情けない思いも、魔法の深奥の一端を目の当たりにした驚愕も、すべてをねじ伏せて目の前の大魔法使いについていくことこそが今のカイムにとっては重要だった。
アレから人生のすべてをかけて追い求めた奇跡が、こんな終わり間近になって目の前に現われてくれたのだから。
少々の危険など取るに足りない。
そもそも先刻、自分はくだらない理由で命を投げ出そうとまでしていたのだ。
ここで彼――おそらくは彼であろう大魔法使いについていくことは絶対だ。
とはいえ此処――ガルレージュ迷宮の最下層程度であれば、カイムが本気を出せば単独でも充分にたどり着ける。それこそさっきのような異常事態に見舞われればその限りではないが、単独冒険者であればこそそういった危機回避には細心の注意を払う。
そのうえ、どう見ても大魔法に特化したとしか思えない強大な魔法使いとともにであれば、雑魚をカイムが始末し、万一の大型や難敵は任せてしまえばまず間違いはあるまいと判断したのだ。
常のカイムであれば、よほどの理由がなければ単独や二人組で迷宮の最深部まで潜るような危険を冒すことは無い。だがよほど以上のことが起こっているからには、基本的な行動指針には応用を適用するしかない。
ついていってもいいだろうか? というカイムの問いに対して、自分の身を自分で護れるのであれば、迷宮でどこへ行こうがその人の自由ですよ、と言われて今カイムは謎の仮面を被った大魔法使いに付いて、迷宮の深部へと向かっている。
だがその道中がまたとんでもない。
大魔法特化の魔法使いと見做した仮面の冒険者はそうではなかったらしく、カイムが雑魚を始末する必要などまったくないのだ。
というかカイムが行使可能なあらゆる技、魔法を駆使しても獲物の取り合いすら成立しないだろう。
魔法の詠唱どころか、一切の予備動作すらなく。
彼の視界に魔物が入れば、ノータイムで魔物が消し飛ぶ。
人としては熟練の魔法剣士であるはずのカイムの目を以ってしても、どんな魔法が行使されているのかですら、まったくわからない。
そもそもカイムにとっての魔法とは、詠唱とその行使対象ないしは位置を、剣や杖といった魔法触媒で指し示すというセットは必須のはずなのだ。
今目の前で起きているような一方的な蹂躙など、カイムの冒険者人生の中には絶対に存在しなかった。
たとえ第一階層の雑魚が相手だとしても、魔物との戦闘とは基本的に命のやり取りであったはずだ。
だが、見たことはなくとも、聞いたことはある。
そう、今はもう伝説と見做されている、今に連なる大魔導時代、大迷宮時代の幕を切って落としたとされる、とある偉大なる魔法使いの冒険者にして、ラ・ナ大陸すべてを治める王の逸話としてであれば。
「……御名前をお聞きしても?」
もう時の彼方に去ってしまったはずの奇跡の具現者、不可能など無いとまで謳われる稀代の魔法使い。少なくともそれに比肩するかもしれない存在に対して、カイムの感情は逆巻き、乱れている。
それは縋るような期待。
もしもそれが叶えられるというのであれば、叶えてくれるというのであれば。
今己が持つすべて、魂から爪の先まで捧げてもかまわないと断言できる。
そんな想いを見透かしたわけではないのだろうが、先をすたすたと歩く仮面の冒険者がカイムに名を問うてきた。
「あ、ああ、すまない。俺はカイム。カイム・ディオエという。貴方とは比べモノにならないが、一応魔法剣士だ」
御互い名を告げてもいないことに、聞かれて初めて思い至るなど、自分はどれだけ我を忘れていたのかをカイムは思い知る。
無駄に歳だけ食った、常識知らずのおっさんだと思われていても反論の余地はないなと思いながら、自分の名と職をあらためて名乗った。
「希少職ですね」
「……貴方の名前を聞いても?」
わりと素で驚いたような仮面の声に、苦笑いするカイムである。
希少という点であれば、今その言葉を口にした貴方こそが間違いなくそうだろうにと思ったのだ。
先に名乗ったからには許されるだろうと、期待を込めてカイムも大魔法使いの名を問う。
「人に名を聞くのであれば、先に名乗るのが礼儀だろうと言われ損ねましたね。こちらこそすみません……」
似たようなことを考えていたらしい仮面の魔法使いが、愉快そうな色を声に浮かべて答えてくれた。
「……僕の名前は、ヒイロといいます」
その名を耳にした瞬間、カイムの心臓がひとつ大きく跳ねて思考が一瞬真っ白になる。
ヒイロ・シィ。
死すらを自在にしたという、魔法使いの頂点、光の遣い手にして人界に君臨した絶対的な王。
そして人という存在をはるかに超越した、天空城を率いた主。
その名がそれだ。
その名がカイムから言葉を失わせた。
生涯をかけて求めた存在に、もしかしたら逢えたのかも知れないという期待のために。
次話 近日投稿予定です。





