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狐拾異物語   作者: 墺兎
15/15

拾弐、三条殿、朝風に耳を澄ますこと

やっと京に戻れます。

匠が熊野から帰るのを忠遠は待ちわびていたようです。

 八咫烏にいとまを告げて山を降りてゆくと、ひる前に牛車に辿り着いた。黒い牛は牛車を離れた時と同じように口を動かしていた。牛車の上には烏が一羽留まっており、ずっとこの牛車を見張ってくれていたらしかった。

「紅玉……か?ずっとここにいてくれたのか?」

 烏は小首を傾げると翼を大きく広げてふわりと匠の前に降りてきた。着地と同時に緋袴に黒の袿唐衣の女房の姿に変わる。

わたくし、紅玉配下の翡翠と申します。紅玉に代わり昨晩は黄玉が、本日は翡翠が牛車の番をさせていただいておりました。おや、暖海さま、三条少将にご同道されるのですか?」

「暖海法師?」

 匠達が驚いて振り返ると、手には菩薩錫杖ぼさつしゃくじょう、頭に頭巾ときん、八目の草鞋 に脚半、背なには箱笈を負い、肩には大きな法螺貝、白い篠懸すずかけ結袈裟ゆいげさ装束に最多角念珠をかけ、腰には毛皮の引敷、斑蓋(はんがい)を片手に抱えた法螺貝の化身、暖海法師がたった今匠達が降りてきた山道から現れたのだ。

「今最も身軽なのは我故な、お守り代わりに頭に山を降ろされたのさ。うちの大将は手出ししないと決め込んでしまったものだから、二進にっち三進さっちも行かなくなってしまってああでもないこうでもないと逡巡が煩いのでな。付喪(つくも)の我の方が鴉達より外聞が良かろう?」

 外聞が良いかは判らないが、暖海が同行することに匠が異論を挟むことは特に無い。幸い牛車には余裕もある。暖海が大きな体躯を牛車に押し込めるように入れると、自分の牛車なのに匠は遠慮をしているかのように申し訳なく乗り込んでやっと牛車は京に向けて出発したのだった。

                         §

 暖海がいるのだからあれこれ聞き出したいことは山程あった筈なのに、山を降りる疲労が牛車の揺れと掛け合わされてあっという間に匠は眠りに落ちてしまった。

                         §

 揺すられて匠が目を覚ましたのは寝待ちの月が南から西へ少し傾いた頃合いの四条の忠遠の屋敷だった。

 気の早い轡虫が余り上手とはいえない音を途切れ途切れに奏でていて、初夏の未明の冷え込みとない交ぜになって匠は思わずひと夏丸々眠り過ごしてしまったような錯覚を起こしてしまった。

「一番鶏が鳴くまで屋敷に床を用意するから牛車から降りろ」

「忠遠?ああ、京に着いたのか。いや、いいよ。八咫烏から伝言みたいなものを預かってきたよ」

 忠遠はしまった、という風に舌打ちした。

「早くもう一つ駒を起こせというのだろう」

「なぁんだ、知ってるの。熊や菫みたいにしておくれってさ」

「簡単に言ってくれるな、烏の総領も……。俺にそんなに子守ばかりさせたいのか、あの御仁は……俺は熊と菫で手一杯だってのに」

「それはそうと、法螺貝の法師がおったろう?」

 共に牛車で来た暖海の姿がない。きょろきょろと辺りを見回すと忙しく立ち働く熊と菫は見つけたが、白い僧衣は見当たらなかった。

「あの貝の付喪神なら宝ヶ池の媛が連れていった。八卦を踏んで朝から京を一巡りしてくるそうだ」

「あの法螺貝の法師は面白いぞ。何せ照れるのだ」

「熊野で何をやらかしてきたのだね、匠」

 何もしておらぬ、と言いかけて匠は思い直し、明快に言い直した。

「蹴鞠をしてきただけさ」

「鴉共は結構上手だったろう?」

 やっと忠遠の表情から渋いものが抜けたようだった。そういえば四不像の姿が見当たらない。匠はその辺りのことに気付かないふりをして明快に答えた。

「鴉の蹴鞠は騒がしいな!蹴鞠の精が『ももさま』とか呼ばれているんだぜ?」

「『ももさま』?あぁ、秋桃園公のことか。あの御方は常にうきうきなさっていて、そういう楽しい気持ちの中へ誰でも入って来れるよう常に手を差し伸べていらっしゃるからな」

 秋桃園の気さくな性分からは思いもつかないほど高貴な存在であるらしい。そもそも八咫烏は神武東征の際熊野から大和へを案内したと記されている存在なのである。余程貴重な体験をしたものだと思う反面、あの楽しい蹴鞠が要となる重みを担っていたと今更思い知らされて、匠は横から頭を殴られたような気分になってしまった。

「なぁに、お陰でいい方向に風が吹いてきたよ。それどころか法螺貝の化生まで連れてきた」

「あの法師?あれが法螺貝だと太郎が見抜いたが、そういえば太郎は忠遠に尻尾(しっぽ)が見えるとか言っておったな」

 ぬぅ、それはいかんと呟く忠遠に匠は重ねて言った。

「あの法螺貝の法師が何を?」

「匠には今回八卦を踏んで熊野詣と、その熊野で蹴鞠しゅうきくの奉納をしてもらったのだが、獣の俺にせよ匠にせよ地を這うものとしての術しか使えぬ。八咫烏には空の上から、獺の媛には水の流れから術を張っていただいたが、法螺貝は地と空の間、空気そのものに術を張れる」

「空気に術を張る……?如何様いかように」

 方法を問おうとした匠を押し留めるように忠遠立てた人差し指を口許に当てると、熊と菫を呼んで屋敷の雨戸を開けさせた。西の空こそ未だ暗いが、東の空には石楠花しゃくなげ色の雲がたなびき、気の早い烏が林の向こうで今日の予定を確かめ合っている。始まるぞ、と忠遠が呟くとそんな烏の遣り取りも声を潜めたように止み、一瞬の静寂ののち、低い、抑えた音が響いてきた。

 法螺貝の音だった。

 その響きは当初どの方角から響いてくるのか知れなかったが、その音に追従するように卯と酉の方向から、次いでひつじさるうしとらの方向から、いぬいたつみから、と追って響き始めた。

 その音は人々や山林の夜明けの静寂を破らないぎりぎりで響き、卯、坤、乾は同じ調子で音階を変えて和を持ち、酉、艮、巽はまた違った調子で互いの音階で和を持ち、互いの和が律を作り出していた。

「卯と酉に頂点を持つ六芒星を法螺貝の音で作ったようだな」

 暫くすると法螺貝の調和の取れた旋律はぴんと何かが通ったような感覚に変わった。

「六芒星が縦になったのさ」

 朝の風を利用して音の流れを平面水平だった六芒星から垂直に変えたのだという。日が沈むまで風の流れに任せて音の六芒星はくるくると回転し続けるのだという。

「心地好いな」

 匠は回る大きな音の六芒星を想像しながら、その音の強弱の変化がまるで六芒星の辺が身を過っていくような感覚に捉われた。それはびゅんと唸りをあげる速さをもっていることもあれば、ゆっくり牛が歩むのにも似た余裕で遷移しもする。音は一律に同じ方向から一定の調子が響くよりも絶えず変化し続ける方が心が休まるようだ。

「それは『ゆらぎ』という」

「ゆらぎ?」

「何もかもが杓子定規にぴっちり間違いなく納まっていると、逆に疲れてしまうものだ。雲の形のように、木の根のように、ある程度の法則性はある上で決まり切ったのとは違ういい加減さからくる幅をもたせてやると、(かたち)の有る無し問わず心持ちにゆとりを与える」

 そういうものなのかな、と納得しかけていると、忠遠は残念そうに溜息を吐いた。

「不景気な太息だな」

「景気は関係ない。一寸惜しいなと思っただけだ」

「惜しいとは」

「地表の八卦、水脈、空からの術、音の六芒星とこれだけしっかり固めたのに、地の中が疎かなまま終わってしまうとそこから脆くなってしまうなと、そう思っただけだ。こればかりは俺は引く術を識らぬしな」

 ふぅん、と匠は相づちを打ちながら思い付いたまま言ってみた。

「地の中におるものに頼めばいいのではないか?」

「土の中?」

「樹の根や蚓やら蝉の幼虫やらの虫だとか。いしころの王様はおらぬのか」

 匠としては鉱物のことを指し礫と言ったらしい。忠遠が持てる限りの知識を総て稼働させ、あれとこれとと取捨選択を始めたとき、庭の一角から風が吹き、霏が冷たい空気に乗って流れてきた。

「何だ何だ」

 菫と熊が二人を庇うように前に回り込む。が、その二人を霏の中の人影を確認した忠遠が二人をやんわり押止めた。

「……陸奥へ帰ったのではなかったのか」

「みちのく?」

 陸奥と聞いて匠は何か自分と関わりのあるものか思いを巡らした。

「龍鯉の寒霏だよ。あの優柔不断で中途半端な青二才のへっぽこ銀鯉」

 寒霏は項垂れた。

「……陰陽師殿、そこまで仰らなくても未熟であることは自覚しておりますから」

 匠は龍鯉をやっと思い出した。

「どうしたの、修行は済んだのか?」

「いえ、それはまだ……本日は師よりお使いを承りまして参上致しました」

「師?」

越州こしのくにの九頭龍様に従い、最近は渟足柵ぬたりのきの跡地におります。金毛九尾の狐の御前様を頼って四不像殿が渡って来られたと聞き及び、京は浮き足立っているに違いないと九頭龍様が越路より打てる策を考慮した結果、まだ打てる手があると、それを奏上しに己を陰陽師殿へ遣わされたのです」

 相変わらず回りくどいな、と呟きながら忠遠は寒霏に円座を勧めた。若い龍鯉は身を低くして釣殿に上がり込む。腰が低くなったものだと忠遠は心中目を見張る。余程九頭龍が厳しいのだろうか。

「で?龍鯉の師匠はどんなお知恵をくれたんだい」

「九頭龍様は砂鉄に依るお方です。地中の方々にも縁が深く……」

「結論としては、もしかしなくても俺達が今懸案の土の中に八卦のような術を引ける方がおわすという話だな?」

 龍鯉は誠実と冗長が同居しているらしい。流石の匠も痺れを切らし、一足飛びに話の仕舞いへと切り込んでしまった。

「どなただ、龍鯉。九頭龍殿ではないのか」

「九頭龍様は地中と縁が深いとはいえ龍の属、水のかたです。土の中には土の竜がいらっしゃいます」

「土の竜?……真逆」

「真逆って何だよ。そんなに難しいのか?」

「いいや、そうじゃない。土の竜と書いて土竜、もぐら。宇古呂毛知うころもちだ」

「龍鯉にかかわるとみんな駄洒落だな!」

 匠に悪気はない。しかし龍鯉は赤面した。匠は無頓着である。

「して、土中の竜殿にはどのように頼めば良いのだ?」

 残念なことに龍鯉も九頭龍も土竜の王との接点がないらしく、黙ってかぶりを振った。無神経に落胆を隠さない匠に龍鯉は早口で言った。

「土竜は根の国のもの、根に近しいものにお知り合いは?」

「根に近しいもの?根って何だ?」

 忠遠は腕組みをしたまま唸っている。

「根は根ですよ。木の根、草の根、芋や球根……」

 忠遠は瞑っていた目を開きじっと龍鯉を直視した。視線に龍鯉がたじろぐ寸前、忠遠の目は釣殿の新しい天井を睨む。そしてやおら懐紙を取り出し、ふっと息を吹き掛ける。紙は息に煽られ立ち上がると、勝手に折り紙のようにたたみ始めた。

「あっ、おっ、蝉。昔よう折ってくれたな、忠遠」

「今日は油蝉が良かろう。盛大に騒いで必ず連れてこい」

 忠遠がそう言うや、紙の蝉はじじじっと鳴いて飛び立ち、釣殿の中を一周し、空へと飛び立って行った。

「誰を呼びに行かせたの?」

「今時分まだ夢の中におるやもなぁ」

 忠遠は熊を呼び、瓢箪に酒を詰めさせた。

「こんなに京が大騒ぎになっとるのに、おちおち寝ておれるか」

 匠の隣に亥の入道が腰を下ろした円座が現れていた。

「しかし狐の、頼むから蝉はやめてくれ」

「蛍では気付くまい」

 亥の入道は小さく丸めた紙屑を忠遠にぶつけるように放った。紙屑は放物線を描きながらくしゃくしゃに丸められていたものが折り目なく広がり蝉のかたちを取り戻した。曲線の頂点でじじじっと一鳴きした後、更に紙は開き、折り目が取れて真っ更な懐紙に戻った。そして忠遠の懐へ吸い込まれるように納まった。

「貧乏性め」

「再利用は大切だ」懐紙が納まっている辺りを摩りながら忠遠はにやりと笑う。「その貧乏性にのこのこ呼び出されたのは、これが見えたからだろう?」

 瓢箪をずいと押し出した。

遠江とおとうみの酒だ。新しい酒ではないが、旨いんだ」

 亥の入道は瓢箪を掴みながら上目で忠遠を見る。

「何故吾に?」

「根の国の縁者だからというだけではないのだ」

「鬼野老なんざ喰わせやがって」

 忠遠は鬼野老のところだけ聞こえないふりをした。

「猪は土竜にとって天敵だ。それだけで優位で話が進め易い。それと入道が亥であるからだ」

「亥?」

「亥。亥すは『とざす』だ。今回のことはこれでお終いにしたい。ここまで言わせて酒を手にしたからには断るとは言わせん」

 入道は瓢箪の栓をとり、酒の香りを確かめる。満足げな表情を浮かべながら言う。

「誰が断ると言った?未だまだなにも起ってはいないが起こさず終えなければならぬ非常事態だろうが」きっちり栓を戻し懐に押し込む。「但し」

 忠遠は眉根を寄せ、警戒する。

「三条少将を借りてゆくぞ。吾では宇古呂毛知たちは散るように逃げてしまう」

 亥の入道は忠遠の諒を得る前に匠の腕を掴むと庭に降り、手にした錫杖で円を描く。そして東西南北を正確に記し、それに沿って円を十二分割した。頂点を結び、円を正十二角形にする。

「十二支方合か?」

「いや十二支三合会局で木局を開く。会局は成立すれば吉だしな」

 やけに慎重に取り扱うのだなと手を掴まれたまま匠は感想をもった。匠にしてみれば四不像という不思議な動物に出会っただけで、その後のことは忠遠に言われるまま熊野に鞠を持って行き、請われるまま蹴鞠をしてきただけである。

 入道は手を留めることなく線を引き続ける。南に当たる午の位置から寅と戌へ正三角を、次いで酉の位置から巳と丑へ正三角、子から申・辰に同じく正三角、そして最後に卯・未・亥を繋いで正三角を描くとそれぞれの三角がうっすら光り始めた。それぞれ午の三角は朱く、酉の三角は白く、子の三角は黒く――黒く光るなどとはおかしな話だが、それは確かに黒く光っていた――、卯の三角は青く光って緩やかに全ての三角が回り始めた。回転は速度を増し、光の色が混ざり合って色が判らなくなった頃回転の速度が落ちてきてやがて気付くと色は青みを増し、三角は一つになっていた。そして元の位置、卯・未・亥を頂点に止まる。皆がその三角を注視する中、三角の中心の土が少し動いた。

 入道は匠を自分の前に立たせ、耳打ちした。

「土が盛り上がったら『ヒミズノオウニツタエタイ』と言え」

 意味を糺そうとしたが、その前に土が盛り上がった。

「ひ……ヒミズノオウニツ……タエタイ」

 土山の中央に赤みの差した肌色の、小さな鼻が見えた。

「……参られよ」

 声がするや、ぐにゃりと空間が歪んだのか、入道が描いた僅か二尺程の円が一間程に広がった。不安を憶えて忠遠を見ると忠遠と匠の距離は変わっていない。円を挟んで向かいにいる龍鯉の寒霏とも距離感は変わっていない。ただ円だけが広がったように思えた。盛り上がった土が炭の粉をまぶしたようにだんだんと黒くなり、光を反射しないからか漆黒の闇を口を開けていた。

 亥の入道が匠の手を引く。

「ここに入るのか?」

 底なしに見える暗闇の穴には足どころか指先さえ差し込むのすら躊躇われる。そんな気持ちを見透かしたのか考えなしなのか、容赦なくその穴の中に引き摺り込まれた。否、背中を突き落とされたのか。前から引かれたのか後から押されたのか解らないまま前につんのめった体勢を立て直そうとしたところで底なし穴に落ちたのではなく暗いが足のつく場所にいることに気が付いた。

「あの法螺貝を鴉の山から下ろしてきたのは三条少将、お主だとか」

 全くの暗闇でだが、何故かこの場所の(しつら)いが素晴らしいことが判る。香が焚かれているのだが、香りが主張し過ぎず心地よい空気に美しい色合いをさしているようだ。声の主は正面にいるようだがそう高い位置にいるようではないなと、匠の頭は視覚以外の情報を忙しなく集めては分析していた。

「暖海法師か?朝の空気によう響いておったろう」

 何者かが匠のぞんざいな口調を窘めようとしたようだった。だが諌言は発せられなかった。正面の(あるじ)が止めたらしい。一体どのようなものがこの場の主なのだろうかと考えるにあたり、土竜に会いにきたのだったなと、そして果て土竜とは如何様なかたちの動物だっただろうかと連鎖的に考えが浮かぶ。視界が鎖されているからだろうか、想像や思考が疾る。

「あれは心地の良い音だった。土中にしみる音が少ないのが残念なことだ」

 この声の主が土竜の王なのか。土竜というと黒褐色の毛皮にずんぐりした胴体、鼠のようだが足はもっと亀のように短く爪が長かった気がする。

「九頭龍殿が音の響かぬ土中にも守りをかけられるのは日不見の王しかおらぬと使いを寄越してな」

 亥の入道の声に周囲が少しざわついた。言葉の意味に動揺したというより、声の主が亥の入道であることに危惧したからのようだ。そういえば土竜達との緩衝材代りに連れて来られたことを思い出した。暗闇で全く視界が利かなくても、人は音がすると思しき方向へ顔を向けてしまう習性があるようだ。つい右に左にと首を振っていると、この場の主がそれを汲み取ったように言った。

「これ、三条少将に明かりを。」

 間髪入れない是の応えに、ほんの僅かの間を置いてぽわ、と蝋燭が一つだけ灯された。

「我らは明かりが不得手での。これくらいで堪忍しておくれ」

 この場の主の姿がその小さな明かりに浮かび上がった。縁を黒漆で艶やかに塗り上げた壇上には飾り気はないものの上質な黒漆の玉座があった。座を占めていたものは黒い毛皮の寛衣を羽織り、紫の絹で目隠ししている。硬くこわそうな毛皮だ、と匠が考えていると、こんなことを言われた。

日不見ひみずの王と呼ばれている。墳持うごろもちを束ねておる。土を穿ぐって持ち上げるもの、それが土竜だ。九頭龍殿の意図は大体解った。そして三条少将はどうするのかな」

 どうするのか。

 何を問われているのか刹那では理解できず玉座の主を凝視していたら、亥の入道が聞こえるか聞こえないかぎりぎりの囁き声で言った。

「駄賃だよ駄賃」

 腰に忠遠が用意した瓢箪をぶら下げているくせに、亥の入道はいけしゃぁしゃぁと言った。匠は酒など持ち歩く趣味はないし、忠遠から何も託されていない。亥の入道の目が面白そうにこの局面を見守っている。入道が酒を差し出す気はさらさら無いようだ。確かに忠遠の遠江の酒は日不見の王に引き合わせる為に亥の入道に支払ったものである。日不見の王の許へやって来たのは匠自身である。四不像にであって此の方、表立って動いたのは結果的に匠である。

 もぞもぞ身を探るのもこの場に相応しくないような気がして、今身につけているものを匠は必死で頭の中に列挙してみた。扇や笛は確かに持ち合わせているが飛び抜けて素晴らしいものではないし、この素晴らしい玉座に比肩できるものでもない。懐に入れていたものを論っていたとき、匠は飴のことを思い出した。秋桃園達に飴を渡したのち、残った分を小さな巾着に詰めて懐へ収めたのだ。巾着は経錦たてにしき御軾天平唐花紋錦ぎょしきてんぴょうからはなもんにしきという美しい裂地きれを使っていた筈だ。ただ、色の鮮やかな飴は皆鴉どもに分けてしまったので残っているのは地味な色合いのものや不透明な色のものしか無かったようだが……熊の作るものに味の保証できないものはあるまいよ、と匠は腹を決めて巾着を取り出した。

「甘いものはお好きかな」

 黒褐色の苧麻からむしを被った従者がすっと進み出て受け取り、玉座へと運んだ。日不見の王は受け取って巾着の紐を解くと、しげしげと飴を見ている様子である。目隠しをしているのに見えるのだろうかと下世話な心配を始めた頃、日不見の王は言った。

茴香ういきょう蒔蘿じら肉荳蒄にくずく山薄荷やまはっか肉桂にっけい麝香草じゃこうそう丁字ちょうじ姫茴香ひめういきょう、ほほう、蕃紅花ばんこうか……おお、これは胡廬巴ころは……小荳蒄しょうずくとは面白い。迷迭香まんねんろう?ほっほっほ、これは口に含むと如何なものだろう……三香子さんきょうし、おや、鬱金うこんかと思いきや莪朮がじゅつ胡荽こえんどろ、橙、蜜柑、金柑……まるで試されているようではないか?紫蘇に生姜、胡麻も白と黒。のう、三条少将、これらはお主の薬ではないのかな」

 熊がこの飴を練ったとき、朱乃が龍鯉のことで気鬱に塞がっていた頃である。香りや色づけの為とはいえ、少しでもよくなって欲しいと熊なりに必死に忠遠からこれらの香辛料を分けてもらったに違いない。全く、薬を飴でくるむとは、甘やかしなのか、必殺の手段か。

「……健康になれそうじゃろ」

 何も気付かないふりをしてにこにこしてることに決めた。またこの飴を熊に作ってもらおうとも、匠は心に決めていた。口に含めば匠の舌を満足させ、鴉に与えれば色が美しいと取り合いになり、土竜に渡せば香りが彩であると喜ぶ。持っているだけで匠には嬉しいことばかりだ。

 ……鬱金と莪朮を日不見の王は一瞬間違えた。

 匠はこの鋭く香りを嗅ぎ分けている玉座の主が与えた違和感の元がそこにあると気が付いた。茴香と蒔蘿を嗅ぎ分けた。胡荽と他の柑橘類も嗅ぎ分けた。胡麻も癖のある黒胡麻と癖の少ない白胡麻を嗅ぎ分けた……なのに何故、莪朮を当初鬱金と間違えた?

 鬱金の飴は黄金色、莪朮はくすんだ紫なのだから、匠ですら見分けがつく。それを間違えたということは、紫の絹で目隠しは本当に全く見えていない目を隠すものだったという訳だ。よく見回せば、日不見の王の従者達は目隠しこそしていないが、皆顔半分を覆い隠すように薄衣や苧麻を頭から被っている。

「土竜だからな」

 亥の入道がぼそっと言った。土竜達は目が酷く退化してしまっているのを言ったらしい。よくよく亥の入道は人の心を読んだような言葉を吐く。視界が塞がった彼らに大役を任せようとしているということに匠は今頃になって不安のようなものがむくむく湧いてきた。

「三条少将、この飴は有り難く受け取った。地中に結界を張ってやろう」

 日不見の王の文節は短い。

「地にどう結界を張るのだ?」

龍鯉と九頭龍のことはまた別の機会に。

渟足柵は現在新潟市中央区に沼垂という地名で残っています。遺跡はないそうですが。

*香辛料は横文字の方が解り易いですよね。

茴香 フェンネル

蒔蘿 ディル

肉荳蒄 ナツメグ

山薄荷 レモンバーム

肉桂 シナモン

麝香草 タイム

丁字 クローヴ

姫茴香 キャラウェイ

茴芹 アニス

蕃紅花 サフラン

胡廬巴 フェヌグリーク

小荳蒄 カルダモン

迷迭香 ローズマリー

三香子オールスパイス

鬱金 ターメリック

莪朮 ガジュツ

胡荽 コリアンダー


《土竜》について…江戸時代まで土竜と書いて蚯蚓のことを本当は指していたそうです。流石に蚯蚓では絵的になんだかちょっと残念な感じなので敢えて土竜でもぐら、にさせていただきました。時代考証はすっとばしています。日不見ひみずは日本のモグラの中で最も浅いところに棲む種類です。

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