私を殺して見せろ
結衣は、動けなかった。床に倒れたまま、指先を動かすことすらできない。
腹の奥が焼けるように痛い。
呼吸をするたび、喉の奥に鉄の味が上がってくる。
視界はぼやけ、耳の奥では警告音が遠く響いていた。
変身は解けている。魔力も、うまく練れない。
胸の奥にあるはずの力が、赤い雷に痺れて散っていく。
手を伸ばそうとしても、指が床をかすかに引っかくだけだった。
制御核から、赤い光が漏れている。
オブスキュリテが赫塵を流し込み続けている。青い結界の光が、赤く濁っていく。
止めなきゃ。
そう思うのに、体が動かない。
立たなきゃ。
そう思うのに、膝が言うことを聞かない。
意識すら、遠くなってきた。
視界の端が暗くなる。警告音が水の中の音みたいにぼやけていく。
ごめん。
結衣は、声にならない声で呟いた。
ごめん、みんな。
ミオ。
仲間たち。
奈央さん。
桐生さん。
このシティにいる人たち。
私は、止めるって言ったのに。
今度こそ後れを取らないって言ったのに。
また、間に合わない。
また、手を伸ばせない。
その時だった。
薄れていく意識の底で、遠い記憶が浮かび上がった。
「結衣。結衣ってば」
誰かに肩を揺さぶられて、結衣は目を開けた。
最初に見えたのは、訓練場の床だった。白く磨かれた床。何度も転んで、何度も手をついて、何度も膝を打ちつけた床。
そこに、夕方の光が差し込んでいる。
窓の外では、シティのビル群が橙色に染まっていた。
遠くに見える防御結界の膜も、夕焼けを受けて薄く輝いている。
どうやら、自主練の後、そのまま眠ってしまっていたらしい。
体が重い。腕も足も鉛みたいだ。
頬には、床の冷たさが残っている。
汗で髪が額に張りついていて、制服代わりの訓練着もところどころ湿っていた。
ひどい格好だ。
たぶん、全力で走り込みをして、打ち込みをして、魔力の通し方を練習して、限界まで粘ったところで力尽きたのだろう。
「こんなところで寝てたら、風邪ひくよ」
声は、呆れたようでいて優しかった。顔を上げると、祈が覗き込んでいた。
赤羽 祈。
正式な魔法少女に選ばれたばかりの頃の祈。
まだ少しだけ誇らしげで。
でも、どこか不安そうで。
それでも、結衣に向ける笑顔は優しかった。
結衣はぼんやりと瞬きをした。
「……ありがとう、祈」
ゆっくりと体を起こす。
全身が痛い。肩も、腰も、太腿も、全部が悲鳴を上げている。
「私、寝てた?」
「ぐっすり。死んでるかと思った」
「ひどくない?」
「だって、声かけても起きないんだもん」
祈は少し笑った。いつもの調子だった。からかって、笑って、何でもないみたいに言う。
けれど、すぐにその表情が曇った。
ほんの一瞬。
でも、結衣は見逃さなかった。
祈の指先が、ぎゅっと握られている。笑顔の端が、少しだけ強張っている。何かを隠そうとしている時の顔だった。
結衣は首を傾げた。
「どうしたの?」
「ううん」
祈は一度、視線を逸らした。
窓の外の夕焼けを見る。橙色の光が、祈の横顔を照らしていた。
正式な魔法少女に選ばれたばかりの少女。
結衣より先に、一歩前へ進んだ少女。
けれど、その横顔は誇らしさだけでは満たされていなかった。
不安。
恐怖。
迷い。
そういうものが、薄く浮かんでいた。
結衣は、床に手をついて姿勢を正した。
「何かあった?」
祈はしばらく黙っていた。言おうかどうか迷っているようだった。
結衣は急かさなかった。
ただ、隣にいる。それだけにした。
やがて、祈は小さな声で言った。
「怖いんだ」
結衣は目を瞬かせた。
「怖い?」
「うん」
祈は、自分の手を見た。その指先に、ほんの少しだけ赤い火花が灯る。ぱちり、と小さな音がした。
でも、それはすぐに消えた。
まるで、祈自身がその光を怖がっているみたいだった。
「正式な魔法少女に選ばれたでしょ」
「うん」
「嬉しいんだよ。嬉しいんだけど……」
祈の声が、わずかに震えた。
「私が、みんなに迷惑をかけるんじゃないかって」
「祈が?」
結衣は思わず聞き返した。
祈は才能がある。
魔力量も多い。
魔法の発動も速い。
候補生の中でも、上の方にいた。
少なくとも、結衣から見ればそうだった。
結衣が何度も何度も練習して、ようやくできることを、祈はずっと早く身につけていた。
だから、祈が自分を怖がっているなんて、少し意外だった。
「私の魔法、味方の魔力まで乱しちゃうから」
祈は言った。
赤い火花が、また指先に灯りかける。彼女はそれを握り潰すように手を閉じた。
「訓練でも、何回かあったでしょ。近くにいた子の魔法陣、崩しちゃったこと。結界を不安定にしちゃったこと」
「でも、それは訓練中の話で――」
「本番だったら?」
祈が言った。結衣は言葉を止める。
祈の声は静かだった。
でも、静かすぎるくらいだった。
ずっと一人で考えていたことを、ようやく口に出している声だった。
「戦いの最中だったら? 誰かが防御魔法を張ろうとしてる時に、私の雷で乱れたら? 誰かが飛ぼうとしてる時に、足元の魔力を痺れさせたら? そのせいで、誰かが怪我したら?」
祈は笑おうとしていた。大丈夫だよ、と言いたげに。いつものように明るく振る舞おうとしていた。
でも、笑えていなかった。
「私、みんなを守るために魔法少女になったのに」
祈の目が、少しだけ伏せられる。
「私の魔法で、みんなを危なくするかもしれない」
「祈……」
「結衣にだから言うけど」
祈は、少しだけ声を落とした。
訓練場には、二人しかいない。
それでも、誰かに聞かれたくない秘密を打ち明けるみたいに、祈は小さく言った。
「私の魔法、たまに暴走するの」
結衣の胸が、ぎゅっと縮んだ。
「暴走……?」
「うん」
祈は頷く。
その顔は、泣きそうではなかった。
泣きそうにならないように、必死で堪えている顔だった。
「自分でも抑えきれなくて。気持ちが乱れると、赤い雷が広がりすぎる時がある。訓練場だから止めてもらえたけど、本番でそうなったら……」
祈の指先が震えていた。
その指は、誰かを傷つけるために震えているのではない。
誰かを傷つけてしまうかもしれないことを怖がって、震えていた。
「もし、戦いの最中にそうなったら……私、どうすればいいんだろう」
結衣は、祈を見つめた。
才能があって。
先に正式な魔法少女になって。
自分よりずっと前を歩いているように見えた祈。
周囲から疎まれても、笑って受け流していた祈。
大丈夫、気にしてないよ、と明るく言っていた祈。
でも、本当は違った。
祈も怖かったのだ。
一人で、自分の力を怖がっていたのだ。
味方を傷つけるかもしれない魔法。
守りたい相手を危険に晒すかもしれない力。
それを抱えて、正式な魔法少女になることが、怖くてたまらなかったのだ。
結衣は、ゆっくりと息を吸った。何を言えばいいのか、少し考えた。
大丈夫だよ。
祈ならできるよ。
そんな言葉だけでは、きっと足りない。祈の不安は、そんなに軽いものではない。
だから、結衣は別の言葉を選んだ。
「それなら」
祈が顔を上げる。
「その時は、私が止めるよ」
「結衣が?」
「うん」
結衣は笑った。自信満々に見えるように。不安を隠すように。
まだ正式な魔法少女にもなれていない。
魔力も少ない。身体強化しかできない。
白兵戦でしか祈に勝てない。
それでも、結衣は言った。
「祈の魔法が暴走したら、私が止める」
「でも」
「近づけばいいんでしょ」
結衣は、自分の拳を握って見せた。
小さな拳。特別な武器でもない。強大な魔法でもない。
でも、何度も床に叩きつけられ、何度も立ち上がってきた拳だった。
「私は遠距離攻撃とかできないし、結界も張れないし、魔力量も少ないけど、その分、祈の雷にちょっとは耐えられる」
「それ、耐えられる理由になってる?」
「なってるよ。たぶん」
「たぶんなんだ」
「細かいことはいいの」
結衣は胸を張った。
「白兵戦なら、私の方が強いし」
「そこ、自分で言うんだ」
「事実だし」
「むう」
祈は頬を膨らませた。その顔が少しだけ昔の調子に戻って、結衣は安心した。
けれど、祈の目から不安が完全に消えたわけではない。
だから、結衣はもう一度言った。
「だから安心して」
夕方の光が、二人の間に落ちている。
訓練場の床に座ったまま、結衣はまっすぐ祈を見た。
「もしもの時は、私が止める」
言葉にすると、不思議と胸の奥が熱くなった。
「絶対に」
祈は、しばらく結衣を見つめていた。
その瞳が、少しだけ揺れる。
「本当に?」
「本当」
「私が暴走しても?」
「うん」
「私が、誰かを傷つけそうになっても?」
「その前に止める」
「私が、結衣に怒っても?」
「それでも止める」
「私が、止めないでって言っても?」
結衣は一瞬だけ黙った。
けれど、すぐに頷いた。
「絶対に止める」
祈の目が、大きく揺れた。その言葉を聞いて、怖がったようにも見えた。安心したようにも見えた。
結衣には、どちらか分からなかった。
でも、祈はやがて、くすりと笑った。
「それなら、もしもの時はお願いね」
夕方の光の中で、祈は言った。
「こんなこと頼めるの、結衣しかいないから」
結衣の胸が、少し熱くなった。
祈に頼られた。
先に正式な魔法少女になった祈に。
才能があって、強くて、遠くに見えた祈に。
自分しかいないと言われた。
それが、嬉しかった。
同時に、重かった。でも、その重さを嫌だとは思わなかった。
「うん。任せておいて」
結衣は力強く頷いた。
「私が止める」
「でも」
祈が、意地悪そうに目を細める。
「その前に、結衣は正式な魔法少女にならないとね」
「あ、ひどい。私が気にしてたやつ」
「だって本当のことだし」
「そこは励ましてよ」
「結衣ならできるよ」
「今さら言っても遅い」
「じゃあ、もう一回言う。結衣ならできる」
「急に真面目に言わないでよ。照れるじゃん」
「照れればいいじゃん」
「祈、正式になったからって調子乗ってない?」
「乗ってるかも」
「むかつくー」
二人で笑った。
訓練場の床に座り込んで。夕方の光を浴びながら。
体は疲れきっているのに、不思議と心は軽かった。
祈が笑っている。
結衣も笑っている。
明日もまた訓練して。
また負けたり勝ったりして。
また高台へ行って、シティの明かりを見て。
いつか二人でエースになろうと、無謀な夢を語る。
そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
まだ何も壊れていなかった頃。
まだ、人を信じていた頃。
まだ、祈が祈で、結衣が結衣だった頃。
結衣は、確かに約束した。
祈がもし暴走したら。自分が止めると。
祈が自分の力で誰かを傷つけそうになったら。
祈自身が、自分を許せなくなる前に。
戻れないところまで行ってしまう前に。
自分が、止めると。
意識が、戻る。制御室の警告音が、耳に飛び込んできた。
赤い雷が、青い制御核を侵している。オブスキュリテが、結界を壊そうとしている。
結衣は、床に倒れたまま目を開いた。
そうだ。
約束した。
祈が暴走したら、止めるのは私だ。
祈は、その記憶を忘れているかもしれない。
あるいは、もう忌まわしいものだと思っているかもしれない。
それでも。
結衣は床に指を立てた。
もう二度と、違えない。
あの日、返事はできなかった。
あの日、会いに行けなかった。
あの日、手を伸ばせなかった。
でも、この約束だけは。この約束だけは、今度こそ守る。
魔法少女のみんなに言った。
オブスキュリテは私が止めると。
局に宣言した。
自分一人で大丈夫だと。
奈央に告げた。
友にこれ以上、罪を重ねさせないと。
ミオたちが戦っている。
奈央さんが声を張っている。
桐生さんが局で指揮を取っている。
シティ中の人たちが、今も逃げている。
みんなが、信じてくれている。
エースを。
白瀬 結衣を。
そして、私は。
赤羽 祈の親友だ。
腕に力は入らない。足は震えている。頭はぐらぐらに揺れて、吐き気もひどい。
このまま寝ていたほうが。気を失ったほうが楽だろう。
それでも。もう二度と、楽なほうへと逃げないと決めたんだ。
結衣の目に、光が宿った。
こんなところで、寝ている暇なんかない。
「もう少し」
オブスキュリテは、制御核へ赫塵を流し込みながら笑った。
青い光が、赤く濁っていく。中枢制御核の内部で回転していた魔法式が、ひとつ、またひとつと乱れていく。
床に刻まれた結界制御の魔法陣が明滅し、外縁部から順に光を失っていく。
天井から垂れる魔力ケーブルの中を、赤い雷が逆流するように走った。
制御室全体が震えている。警告音は鳴り止まない。
『結界出力、危険域』
『第五防衛層、維持不能』
『中枢制御核、侵食率上昇』
無機質な警告が、勝利を告げる鐘のように聞こえた。
オブスキュリテは、掌へさらに魔力を込める。
傷ついた体が悲鳴を上げた。
脇腹が痛む。側頭部が熱い。
口の中には血の味が残っている。
脚も、腕も、結衣に叩き込まれた衝撃で重い。
それでも止まらない。
止まるわけにはいかない。
ここまで来た。
白瀬 結衣を倒した。シティの心臓に手をかけた。
あとは、この青い光を赤く染めきるだけだ。
「もう少しで、この忌まわしいシティを――」
その言葉は、背後からの衝撃で途切れた。
「っ!?」
オブスキュリテの体が前へ揺れる。
掌が制御核からわずかにずれた。赫塵の流れが一瞬だけ乱れる。
青い制御核が、苦しげに光を強めた。
何が起きた。
オブスキュリテは振り向く。そこにいたのは、結衣だった。
変身していない。
白い魔法衣装ではない。
手甲も、魔石も、強化術式もない。
ただの少女の姿のまま。
頬は腫れ、口元には血が滲み、腹部を押さえる腕も震えている。
それでも、結衣は床を蹴って飛びかかり、オブスキュリテの背に体ごとぶつかってきたのだ。
ただの体当たり。
魔法少女の技でもない。魔力を込めた一撃でもない。
けれど、それは確かにオブスキュリテの赫塵を一瞬止めた。
オブスキュリテの目が見開かれる。
「あなた……!」
結衣は歯を食いしばっていた。
呼吸は荒い。立っているだけでも苦しいはずだった。
腹を殴られ、壁に叩きつけられ、変身も解かれた。
赫塵で魔力回路を乱され、まともに魔力も練れないはずだった。
それでも、結衣はしがみついている。
オブスキュリテの体に腕を回し、制御核から引き剥がそうとしている。
震える腕で。力の入らない指で。
それでも、必死に。
「この……!」
オブスキュリテは身をひねった。赤い雷をまとった腕で、結衣を振り払う。
「もう眠っていなさい!」
結衣の体が突き飛ばされた。
床を転がる。受け身も取れない。
一度、肩を打つ。
二度、背中が床に跳ねる。
三度、青い魔法陣の上を滑る。
小さなうめき声が漏れた。
普通なら、それで終わりだった。立てる状態ではない。動ける状態ではない。戦場に戻っていい体ではない。
それでも。結衣は、また立ち上がった。
生身のまま。
膝が震えている。
口元には血が滲んでいる。
顔色は悪い。
立つというより、倒れないように体を支えているだけに近い。
それでも、立っている。
オブスキュリテの表情が歪んだ。
「しつこいわね」
声には、苛立ちが滲んでいた。
だが、それだけではなかった。
困惑。
怒り。
焦り。
そして、恐怖に似た何か。
「いい加減にしなさい」
オブスキュリテの声が低くなる。
「次は怪我じゃ済まないわよ」
結衣は荒い息を吐いた。
胸が上下する。腹の奥が焼けるように痛む。息をするたび、喉に鉄の味が上がってくる。
それでも、かすかに笑った。
「何を、怖がっているの」
オブスキュリテの目が細くなる。
「何ですって?」
「このシティをめちゃくちゃにするんでしょ」
結衣は、一歩踏み出した。足が震える。それでも前へ。
「みんなに復讐するんでしょ」
さらに一歩。
青い魔法陣の上に、血の混じった足跡が残る。
「なら、私一人くらいで、がたがた言うな!」
制御室に、結衣の声が響いた。
警告音を裂き、赤い雷の音を押し返すように。
オブスキュリテの赤い雷が、激しく弾ける。
「あなた……」
「私は、あなたを止める! 手が上がらなくても。足が動かなくても。魔力が痺れたって。必ず!」
結衣は叫んだ。
胸の奥で、痺れた魔力を無理やりかき集める。
まだ痛む。まだ震える。
赫塵の残滓が、魔力の流れを邪魔している。
光を集めようとすれば、途中で散る。
変身の術式を組もうとすれば、赤い痺れが割り込んでくる。
それでも、かき集める。
不安定でもいい。
弱くてもいい。
今、この瞬間だけ動ければいい。
ここで立てなければ、また同じだ。
二年前と同じ。
祈が助けを求めていたのに、動けなかった自分。
祈が壊れていくのを、遠くから見ていた自分。
祈が消えてから、努力に逃げた自分。
そんな自分に戻るくらいなら。
「それを止めたいなら──」
結衣の体を、淡い光が包み始める。
白い粒子が、肩に、腕に、胸元に集まる。変身術式が、ぎこちなく形を取り戻す。
けれど、その光は弱い。今にも消えそうだった。
それでも、結衣は前を見た。
「私を殺してみせろ!」
光が弾けた。ぼろぼろの体に、白い魔法衣装が再び形成されていく。
だが、それは不安定だった。
裾は粒子になって揺らいでいる。腕の術式は途切れかけている。
肩の装飾も、形を保てずに明滅している。
胸元の魔石も、光ったり消えたりを繰り返していた。
誰が見ても分かる。
今の結衣の変身は、長く保たない。戦える状態ではない。
次に赫塵を受ければ、今度こそ完全に落ちる。
それでも、彼女は立っていた。
拳を握って。
オブスキュリテの前に。
中枢制御核と、オブスキュリテの間に。
「世界を壊すというなら! そのくらい覚悟して見せろ!」
結衣は叫んだ。声が震えていた。
怒りで。
痛みで。
恐怖で。
それでも、逃げなかった。
「赤羽 祈!」
その名を、結衣は叫んだ。
制御室の空気が凍った。
オブスキュリテの表情が止まる。
赤い雷が、制御室中に走った。床の青い魔法陣が、赤く照らされる。
天井のケーブルが震える。
中枢制御核が、青と赤の光を交互に放つ。
赤羽 祈。
その名前。好きだった名前。
祈れば真心は通じると願われた名前。
世界に踏みにじられた名前。
もう捨てたはずの名前。
オブスキュリテという黒い名の下に、葬ったはずの名前。
それを、結衣が叫んだ。
今、この場所で。殺してみせろ、と言いながら。
それでも祈と呼んだ。
「……そう」
オブスキュリテは、ゆっくりと結衣へ向き直る。
その目は、怒りに濡れていた。けれど、その奥に一瞬だけ何かが揺れた。
痛みか。
迷いか。
それとも、遠い訓練場の記憶か。
夕焼けの床。結衣の笑顔。
私が止めるよ、と言った声。
もしもの時はお願いね、と笑った自分。
こんなこと頼めるの、結衣しかいないから。
ほんの一瞬。
その記憶が、赤い雷の奥で揺れた。
オブスキュリテは、それを塗り潰すように笑った。
血に濡れた口元を歪める。赤い雷を、さらに強く全身にまとわせる。
「なら、お望み通り殺してあげるわ」
彼女もまた、構えた。
血を流し、傷つき、限界に近い体で。それでも、赤い雷をまとって。
結衣を見据える。
「結衣」
その呼び方だけは、昔と同じだった。
けれど、その響きは冷たく、痛く、壊れかけていた。
二人の間で、青い光と赤い雷がぶつかる。
シティの結界は、まだ崩れ続けている。
外では魔法少女たちが戦っている。
管制室では大人たちが祈っている。
奈央は叫び続けている。
ミオたちは、震えながらも前線を守っている。
そしてこの最奥で。
赤羽 祈だった少女と、白瀬 結衣は、最後の一歩を踏み出そうとしていた。




