赤羽 祈
私なりの曇らせ物書いてみました。これを曇らせと言っていいのかわかりませんが。
最初ゆっくりと展開しますので、温かい目で見ていただければ幸いです。
赤羽 祈。
それが、私の名前だった。
初めて自分の名前を文字で書けるようになった日のことを、今でも少しだけ覚えている。
丸っこい字で、何度も何度も練習帳に書いた。
赤。
羽。
祈。
まだ漢字の意味なんて、ほとんど分かっていなかった。けれど、祈、という字だけはなんとなく特別に見えた。
手を合わせて、何かを願う字。誰かの無事を願う時。誰かが幸せでありますようにと願う時。どうか届いてほしいと、胸の奥から思う時。そこにある言葉。
それが、私の名前だった。
「祈れば、どんな人にだって真心は通じる」
小さい頃、母はそう言っていた。
もちろん、ただ願うだけで何もかも叶うという意味ではない。
黙っていれば誰かが助けてくれるとか、空から奇跡が降ってくるとか、そういうことでもない。
人を信じること。言葉を尽くすこと。相手の痛みに寄り添うこと。自分の気持ちを、諦めずに差し出すこと。
そういう心を忘れない子になってほしい。
誰かと心を通わせられる子になってほしい。
そんな願いを込めて、両親は私にこの名前をつけたらしい。
私は、その話を聞くのが好きだった。
何度聞いても、少し照れくさくて、少し嬉しかった。
名前なんて、自分で選んだものじゃない。
生まれた時に、勝手に与えられたものだ。
それでも、そこに願いが込められていると知るだけで、自分という存在が少しだけ大事なものに思えた。
赤羽 祈。
誰かと心を通わせるための名前。
誰かの痛みに手を伸ばすための名前。
私は、この名前が好きだった。
祈という響きも。
赤羽という名字も。
誰かに呼ばれるたび、胸の奥がほんの少しあたたかくなるところも。
学校で先生に名前を呼ばれた時。
友達に「祈」と呼ばれた時。
ステージの上でファンの人たちが私の名前を叫んでくれた時。
そのたびに、私は少しだけ背筋を伸ばしたくなった。
この名前に恥じない自分でいたい。
誰かを傷つけるより、誰かを助けられる人になりたい。
誰かを疑うより、まずは信じられる人でいたい。
簡単に諦めるより、ちゃんと向き合える人でありたい。
そう思っていた。
だって、信じていたから。言葉を尽くせば、いつか分かり合える。
相手が怒っていても。誤解されても。すぐには届かなくても。
ちゃんと向き合って、ちゃんと伝えれば、いつかは届く。真心を向ければ、いつかは返ってくる。世界はそこまで冷たくない。
そう信じていた。
魔法少女になったのも、たぶん同じ理由だった。
誰かを守りたかった。
泣いている人に、大丈夫だと言いたかった。怖がっている人の前に立って、私がいるからと言いたかった。
ステージの上で笑うことで、ほんの少しでも誰かの明日を明るくできるなら、それはとても素敵なことだと思った。
魔法少女は、戦うだけの存在じゃない。
歌って、踊って、笑って、手を振って。人々に希望を見せる存在。私はそれが好きだった。
華やかな衣装も。眩しいライトも。客席を埋めるペンライトの海も。名前を呼んでくれる声も。
その全部が、私にこう言ってくれている気がした。
あなたは、誰かのためになれている。あなたの祈りは、ちゃんと届いている。
だから私は笑った。怖くても笑った。疲れていても笑った。失敗して落ち込んだ日も、ステージに立てば笑った。
誰かが私を見て、少しでも安心してくれるなら。
誰かが私の名前を呼んで、少しでも元気になってくれるなら。
それだけで、私はここにいていい気がした。
私は、赤羽 祈だから。
祈ることを諦めない子でいたかった。本気で、そう思っていた。
あの事件が起きるまでは。
その日、私はライブのステージに立っていた。
会場を埋め尽くす歓声が、足元から体を震わせてくる。
客席には、色とりどりのペンライトが揺れていた。
青。
白。
桃色。
金色。
魔法少女ごとに決められたイメージカラーが、波みたいに広がっている。
天井から降り注ぐ照明は眩しくて、熱い。
ステージの床には魔法陣を模した光のラインが走り、私たちの動きに合わせて色を変えていく。
身にまとった衣装は、魔法で編まれたステージ用のものだった。
薄く、軽く、けれど少しの動きにも光を返す。
スカートの裾が跳ねるたび、星屑みたいな粒子が散る。
胸元のリボンには小さな魔石が埋め込まれていて、歌声に反応して淡く光る。
普通のアイドル衣装とは違う。
これは、私たちが魔法少女である証でもあった。
魔法少女は、人を守るだけの存在じゃない。
異形と戦い、街を守る。災害現場に駆けつけ、逃げ遅れた人を助ける。
それが一番大切な役目なのは間違いない。
でも、それだけじゃなかった。
歌って、踊って、笑顔を届ける。
怖いことばかりの世界で、それでも大丈夫だと伝える。
子どもたちに夢を見せて、明日も頑張ろうと思ってもらう。
そうして人々に希望を見せるのも、私たちの仕事だった。
だからステージの上では、どれだけ息が苦しくても笑う。
足が震えても、振り付けを間違えない。汗が頬を伝っても、顔は上げる。観客の前では、怖い顔なんて見せない。
魔法少女は、希望だから。
その中心に立っていたのが、四条 瑠香先輩だった。
今日のセンター。
現役トップクラスの人気と実力を持つ、誰もが認めるエース。
ステージ名を呼ぶ歓声だけで、会場の空気が変わる人。
先輩が一歩前に出るだけで、照明がそこに吸い寄せられるように見えた。
指先を伸ばせば、客席のペンライトが波打つ。
笑えば歓声が一段高くなる。
歌えば、ざわめきすら溶けていく。
歌えて、踊れて、戦える。
言葉にすると簡単だけど、その全部を高い次元で成り立たせるのは、きっと想像もできないほど大変なことだ。
けれど先輩は、それを当然のようにやってのける。
どんなに激しい振り付けのあとでも、息を乱さずに笑う。
カメラが向けば、完璧な角度で視線を返す。
後輩が立ち位置を間違えれば、さりげなく自分の動きでフォローする。
そして戦えば、どんな異形も迷いなく斬り伏せる。
私は、そんな先輩に憧れていた。
かっこいいと思った。綺麗だと思った。あんなふうになりたいと思った。
もちろん、今日の私はまだ脇の方だ。
センターからは遠い。ステージの端に近い位置。メインカメラに抜かれる回数も少ない。
スポットライトの熱も、歓声の中心も、まだ私のものじゃない。
それでもよかった。焦らなくていい。
今はまだ、精いっぱいやれることをやるだけでいい。
いつか、絶対にセンターに立つ。
結衣と一緒に。ほんの少し前、そう誓い合ったばかりだった。
白瀬 結衣。
私の親友。
魔法少女候補生の中でも、才能がある方ではなかった。
魔力量は少なくて、魔法も身体強化だけ。
本人もそれを分かっていて、それでも誰よりも努力していた。
私は、そんな結衣が好きだった。
倒れても立つところ。悔しくても笑おうとするところ。
弱い自分をちゃんと分かった上で、それでも諦めないところ。
私の魔法は、扱いづらいものだった。だから連携訓練では嫌がられることも多かった。
でも結衣は、私を怖がらなかった。だから私たちは、すぐに仲良くなった。
いつか二人でセンターに立とう。周りを見返してやろう。私たちだって、ちゃんと魔法少女になれるんだって証明しよう。
そう言って、何度も一緒に練習した。
今日、結衣は客席ではなく関係者席にいる。
正式な出演メンバーではないけれど、候補生として見学に来ているはずだった。
見てくれているかな。そう思うと、胸の奥が少し熱くなった。
激しい振り付けに、息が上がる。けれど、笑顔は崩さない。
息を吸うタイミングも、足を運ぶ位置も、指先の角度も、全部決められている。
一つ間違えれば、隣の魔法少女とぶつかる。
隊列が崩れれば、ステージ全体の美しさが壊れる。
だから、私は集中した。
視界の端で先輩の動きを追いながら、決められた位置へ移動する。
ステージの床に走る光のラインを踏み越え、ターン。スカートの裾がふわりと広がる。
客席から歓声が上がる。
嬉しかった。
私を見てくれている人がいる。私の名前を呼んでくれる人がいる。
まだ端っこでも、私はちゃんと魔法少女としてここに立っている。そう思えた。
次は、先輩のソロパートだった。曲の中でも一番盛り上がる場所。
瑠香先輩が一人でステージ中央へ進み、私たち後輩組は少し下がって、彼女を引き立てる立ち位置につく。
ここで、ようやく一息つける。そう思った。
その瞬間だった。
観客席の上空で、空間が歪んだ。
最初は、光の演出かと思った。ステージではよくあることだ。
魔法陣を投影したり、空中に花火みたいな光を咲かせたり、異世界の扉が開くような演出をしたり。
実際、観客の何人かは歓声を上げた。
「すごい!」
「新演出?」
「やば、かっこいい!」
そんな声が、音楽の合間にかすかに聞こえた気がした。
でも、私はすぐに違和感を覚えた。
演出用の魔法なら、ステージ側の魔法陣が反応する。照明班の合図も入る。
防御機構との同期を示す青いラインが、天井付近に走るはずだった。
それがない。
なのに、空間だけが歪んでいる。水面に黒い墨を落としたみたいに、景色がぐにゃりと曲がっていた。
次の瞬間、先輩の顔色が変わった。
それまで観客へ向けていた完璧な笑顔が、一瞬で消える。
瞳が鋭くなる。顎がわずかに引かれ、重心が落ちる。
ステージの上にいたアイドルではなく、戦場に立つ魔法少女の顔だった。
先輩の体を、光が包む。迷いのない変身だった。
ステージ衣装がほどけ、戦闘用の魔法衣装へ切り替わる。
腰に剣が現れ、先輩の手がそれを抜く。
すべてが一瞬だった。
歪んだ空間から、異形が落ちてくる。
灰色の皮膚。長すぎる腕。裂けた口。人の形に似ているのに、人ではないもの。
それが観客席へ落ちるよりも早く、先輩が跳んだ。
空中で刃が閃く。異形の胴体が、一閃された。
黒い体液が散る前に、魔力の光がそれを焼き消す。異形の残骸は観客に届くことなく、粒子になって消えた。
一拍遅れて、悲鳴が上がった。それまで歓声だったものが、恐怖の声に変わっていく。
会場全体がざわめき出した。
立ち上がる人。何が起きたのか分からず周囲を見る人。スマホを向ける人。子どもを抱き寄せる親。
演出ではない。本物だ。ようやく、みんながそれを理解し始めた。
先輩は観客席とステージの間に着地すると、マイクを通さずに声を張った。
「安全上の観点から、本日のライブはここで中止します。皆さん、係員の指示に従って――」
その声は落ち着いていた。焦りも、恐怖も、ほとんど感じさせない。
だからこそ、観客のざわめきが一瞬だけ収まりかける。
さすがだ、と思った。
こんな状況でも、先輩は人々を安心させられる。魔法少女として、何をすべきか一瞬で判断できる。
私も動かなきゃ。そう思った。
でも、体が遅れた。何が起きたのか。他にも敵がいるのか。
観客を避難させるべきか、ステージを守るべきか。
いくつもの考えが頭の中でぶつかって、足が一瞬止まった。
その一瞬だった。空間が、いくつも裂けた。一つじゃない。二つでもない。
観客席の上。
ステージ脇。
天井付近。
非常口のそば。
機材ブースの近く。
関係者席の横。
黒い亀裂が、次々と開いていく。まるで会場そのものが内側から割れていくみたいだった。
無数のゲートが、同時に開いていく。そこから異形たちが現れた。
大きいもの。小さいもの。四つ足で這うもの。鳥みたいに翼を広げるもの。人の腕だけを何本もつけたようなもの。
悲鳴が爆発した。観客が一斉に動き出す。
逃げようとする人の流れがぶつかり、転びそうになる子どもが見えた。
非常口の誘導灯が点滅する。
けれど、そこにもゲートが開いている。防御機構は、まだ作動しない。
どうして。どうして動かないの。
そんな疑問が浮かぶより早く、先輩の声が響いた。
「みんな!」
鋭い声だった。その一言で、私たちはようやく我に返った。
私は息を呑む。
隣にいた魔法少女も、後方に下がっていた後輩たちも、一瞬遅れて先輩を見る。
先輩は剣を構えたまま、観客席を背にして立っていた。その背中は大きかった。
大丈夫。私たちは魔法少女だ。ここで動かなきゃ、誰が動くの。
そう言われた気がした。
私は震える指を握りしめた。恐怖はあった。
でも、それ以上に、動かなければならないと思った。
私たちは魔法少女なのだから。
光が弾けた。
ステージ衣装が、戦闘用の魔法衣装へと変わっていく。
薄く光を返していたフリルがほどけ、魔力で編まれた防護布へ組み替わる。
胸元のリボンが小さく脈打ち、手首と足首に魔法陣が走った。
スカートの裾から舞っていた星屑のような粒子は、今は防御術式の光になって私の体を包んでいる。
さっきまで会場を満たしていた歓声は、もうどこにもなかった。
悲鳴。怒号。走る足音。
倒れる椅子の音。係員の誘導する声。泣き叫ぶ子どもの声。
ペンライトの海は、逃げ惑う人の波へ変わっていた。
つい数秒前まで、ここはステージだった。歌って、踊って、笑顔を届ける場所だった。
でも今は違う。戦場だ。
「誰の被害も出さないわよ!」
瑠香先輩が叫んだ。
その声は、悲鳴だらけの会場でもはっきり届いた。
強くて、迷いがなくて、聞いた人の背筋を伸ばさせる声。
この人がいるなら大丈夫だと、そう思わせる声だった。
先輩が駆ける。
ステージを蹴り、観客席の方へ跳ぶ。その動きに無駄はなかった。
異形の位置、逃げる観客の流れ、開いたゲートの場所、その全部を一瞬で見ているみたいだった。
先輩の刃が振るわれるたび、異形が粒子になって消えていく。
私たちも、慌ててそれに続いた。
でも、私は少しだけみんなから距離を取った。
怖かったわけじゃない。いや、怖くなかったと言えば嘘になる。
でもそれ以上に、私は自分の魔法がどういうものか分かっていた。
私の魔法は、連携向きじゃない。
下手に味方の近くで使えば、味方の魔力まで乱してしまう。
防御結界を揺らすかもしれない。
誰かの魔法陣を崩してしまうかもしれない。
訓練でも、何度もそうなった。だから私は、一人で戦う。いつも通り。
少し離れた場所で。誰の邪魔にもならない位置で。私にできるやり方で。赤い火花が、指先に集まる。
呼吸を整える。狙いを絞る。観客に近づこうとする異形へ、魔力を流す。
私の雷は、肉体を焼くものじゃない。
扱いづらい。でも、使い方さえ間違えなければ、きっと誰かを守れる。
そう信じていた。
その時だった。
「防御機構が作動しない!」
誰かが叫んだ。耳を疑った。
防御機構が、作動しない? そんなはずがない。
この会場は、魔法少女ライブ用に作られた大型施設だ。
観客を守るための結界。異形の侵入を感知する警報。
避難経路へ人を誘導する魔法灯。逃げ遅れた人を安全圏へ運ぶ転移補助。
魔法少女の戦闘を支援するための足場生成術式。
全部、備わっているはずだった。
万が一の襲撃に備えて、何重にも安全対策が施されている。
だからライブができる。だから観客を入れられる。だから私たちは、ステージの上で笑っていられる。
それなのに。何も動いていない。
天井に走るはずの防御結界の青い光はない。
非常口へ伸びる誘導ラインも点かない。
観客席を包む安全膜も展開されない。
悲鳴だけが大きくなる。
なんで。どうして。
誰かが止めたの?
機械トラブル?
魔法障害?
敵の妨害?
疑問が、頭の中を一瞬だけ埋め尽くした。その一瞬が、致命的だった。
背後の空間が裂ける音に、反応が遅れた。
死角から現れた異形の腕が、私の体をまともに打ち抜いた。
衝撃。
何かが折れる音が、自分の体の内側から聞こえた気がした。
「祈!」
誰かが叫んだ。それすら分からなかった。
返事なんてできなかった。
視界が跳ねる。床と天井がぐちゃぐちゃに入れ替わる。
照明の白い光と、客席の赤い非常灯と、逃げる人影が滲んで混ざる。
体がステージを転がった。
肩を打つ。腰を打つ。背中を何か硬いものに叩きつけられる。息が、できない。
喉がひゅっと鳴った。吸おうとしても、空気が入ってこない。
頭がぐらぐら揺れている。
額から流れた血が、片目に入った。視界の半分が赤く染まる。口の中は鉄の味でいっぱいだった。
立たなきゃ。そう思った。立たなきゃ。動かなきゃ。観客がいる。
先輩が戦っている。みんなが戦っている。私だけ倒れているわけにはいかない。
そう思うのに、体が動かない。
指先に力を入れようとしても、震えるだけだった。
膝を立てようとしても、足が自分のものじゃないみたいだった。
魔法を使おうとする。赤い雷を集めようとする。
けれど、意識がまとまらない。
魔力が指先まで流れない。集めたはずの力が、霧みたいにほどけていく。
駄目。こんなところで。こんなところで、倒れている場合じゃない。
その間にも、異形は近づいてきた。さっき私を吹き飛ばした個体だった。
長い腕。裂けた口。何本もの指。人間を人間として見ていない、濁った目。
その巨大な腕が、ゆっくりと振り上げられる。
避けなきゃ。でも、体が動かない。
防がなきゃ。でも、魔法がまとまらない。
誰かを呼ばなきゃ。でも、声が出ない。
ああ。死ぬ。そう思った。
不思議と、その瞬間だけは静かだった。悲鳴も、異形の咆哮も、ステージの崩れる音も、遠くなった。
私、ここで死ぬんだ。そう思った。
結衣と一緒にセンターに立つ約束も。先輩みたいな魔法少女になる夢も。誰かと心を通わせたいという名前の願いも。
全部、ここで終わるんだ。そう思った。
けれど、その一撃は私には届かなかった。誰かが、私の前に立っていた。
瑠香先輩だった。
異形の腕が、先輩の体を貫いていた。
「……せん、ぱい?」
声にならない声が、喉から漏れた。先輩の背中が見える。
さっきまでステージ中央で光を浴びていた背中。
誰よりも綺麗で、誰よりも強くて、誰もが憧れた魔法少女の背中。
その胸元から、異形の腕が突き出していた。血が落ちる。
魔法衣装の光が、かすかに揺れる。
見るからに致命傷だった。
助からない。そんなこと、考えたくないのに分かってしまった。
それなのに、先輩は膝をつかなかった。
笑いもしなかった。泣きもしなかった。弱音も吐かなかった。
ただ、いつものように強く、まっすぐ立っていた。
観客を背に。私を背に。異形の前に。
「私の後輩に」
先輩の声が聞こえた。低く、静かで、それでもはっきりと響く声だった。
先輩の刃が、赤く濡れたまま光を帯びる。
手が震えているはずなのに。体はもう限界のはずなのに。その剣筋に迷いはなかった。
「手出しはさせない」
次の瞬間、光が走った。異形の体が、縦に斬り裂かれる。黒い残骸が崩れ、粒子になって散っていく。
先輩は、それを最後まで見届けた。
そして、ほんの少しだけこちらを振り向いた気がした。その顔は、よく見えなかった。
血で視界が滲んでいたから。
涙なのか、額の血なのかも分からないもので、片目が塞がっていたから。
でも、先輩の口元が少しだけ動いた。何かを言ったのかもしれない。
大丈夫。
立って。
生きて。
何だったのか、分からない。
分からないまま、私の意識は闇に沈んだ。
次に目を覚ました時、私は病院のベッドにいた。白い天井。消毒液の匂い。体中に巻かれた包帯。点滴の針。動かない右腕。痛みでうまく吸えない呼吸。
最初に思ったのは、生きている、だった。
次に思ったのは、先輩は、だった。
声を出そうとした。でも喉が渇いていて、うまく言葉にならなかった。
そばにいた職員が、目を伏せた。その表情だけで、分かってしまった。
瑠香先輩は、もういなかった。
観客にも、魔法少女にも、大勢の犠牲が出ていた。
防御機構は最後まで正常に作動しなかったらしい。避難誘導は遅れた。
ゲートの発生数は想定を大きく超えていた。会場は半壊し、ライブは史上最悪の惨事として報道された。
それでも、私は生き残った。瑠香先輩に庇われて。先輩の命と引き換えに。
私は生き残ってしまった。
そして。生き残った私に向けられたのは、心配でも、慰めでも、労りでもなかった。
最初は、小さな声だった。病室の外で、誰かが言っていた。
――あの子が隙を見せたんでしょう?
次に、ニュースが言った。
――四条 瑠香さんは、後輩魔法少女を庇い殉職。
ネットが言った。
――あいつがいなければ、瑠香は死ななかった。
学校が言った。
――人殺し。
街が言った。
――どうしてお前が生きている。
それは、たぶん誰か一人の声ではなかった。
いろんな人の声が混ざって、膨らんで、濁って、やがて一つの巨大な声になった。
どうしてお前が生きている。その声だった。
あの日、私は命を失わなかった。
瑠香先輩が守ってくれたから。瑠香先輩が、私の前に立ってくれたから。私は、生き残った。
でも。いっそ失うのが命だったなら、まだよかったのかもしれない。
だって、生き残った私を待っていたのは、救いではなかった。
祈れば届くと信じていた心が。
誰かと分かり合えると信じていた名前が。
魔法少女として守りたかった世界が。
全部、私を責め始めた。生き残ってから、私の地獄は始まった。




