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修羅と丹若  作者: ポン酢
13/16

血池肉林

 傑の横を旋風が走った。


 院瀬見だ。


 そう思った。どう考えても人間業ではないが、院瀬見は落ちる傑より先に地面に降り立ち、受け止めるつもりでいるのだ。


 その事にほっと息を吐いた傑の目に、別なものが映る。悪鬼が体の一部を尖らせ、傑に向かって一直線に向かってきていた。傑を落とすだけでなく、確実に仕留める為、刺すつもりなのだ。


 受け止めるつもりの院瀬見。

 刺し殺すつもりの悪鬼。


 傑はその2つを理解した。


 院瀬見が傑を受け止めた場合、二人とも負傷する恐れがある。この四階から地面に落ちるまでの刹那では、院瀬見であろうといくら何でも対応しきれない。傑は悪鬼を見た。憎悪に狂うその顔を見た。

 傑は手に持つ銃を構える。そして叫んた。


「院瀬見!俺を受け止めるな!!ヤツが俺を狙うその隙を狙え!!」


「傑様?!」


「確実に仕留めろ!!」


 そう叫び、地面に落ちる一瞬までの間、傑は拳銃を連射する。確実な位置に照準を定められないが、銃弾は全て悪鬼に当たっている。


 やはり避けない。


 傑の読み通りだった。蝿の性質を強く表面化させた悪鬼に、銃弾が見えていない訳がない。だが、悪鬼は傑にトドメを刺す事を優先し、銃弾を避けないのだ。憤怒に狂っているからこそ悪鬼は避けない。何があろうと確実に傑にまっすぐ向かってくる。


 これはチャンスだ。


 蝿の眼を持つコイツを倒すには今しかない。このチャンスを逃す訳にはいかない。傑はそう判断した。


「アアアアァァァァッ!!」


 悪鬼が叫んだ。その声に応えるように、地面から陰が湧いた。それは建物の影や小石の影、様々なところから湧き上がり、集まりだす。


「?!」


 傑は振り向けなかったが、院瀬見は見た。集まった陰たちは自分たちを割いた。これまでの戦いで、自分たちでは太刀打ちできない事をわかっていた事から、自らその身を割いて捧げた。


 何に?


 その答えはすぐに姿を表した。


 闇が黒々と口を開く。


 地獄の口が開いたのだ。

 裂けた陰達を飲み込んでいく。


「……チッ。」


 院瀬見は舌打ちする。まさか初陣の傑に、これを見せる事になるとは思わなかった。


 それはとても規模の小さいものだ。数十分も開いている事ができないだろう。すぐに自然に閉じてしまう、その程度のもの。


 けれど地獄である事には変わらない。


 地獄の底から無数の手がこちらに伸ばされる。手だけではない。その底のない闇の中に無数の赤い花が咲いている。


 いや、花ではない。

 口だ。


 落下し、悪鬼に刺されるであろう傑を喰うつもりなのだ。その飢えた無数の口は涎を垂らし、早く早くと蠢く。


 漆黒の闇の中に浮かび上がる濡れた真っ赤な口。それは良く言えば野苺。もしくは不気味な魚や虫の卵の密集体を思わせた。


 甘く見ていた。まさかここまでするとは思わなかった。それは認めたくはない事実を示している。


 この「呪詛」は、そこまで意志の固い「悪意」なのだと。


 初陣の傑の手に負える悪意ではない。傑の精神はそこまでまだ成長していない。


 院瀬見は判断に迫られる。


 下は飢えた地獄の魑魅魍魎。

 上からは悪鬼が針を構えて狙っている。


 傑を餌にすれば一掃できる。それは理解していた。傑本人もそうしろと言っている。

 だが傑は知らないのだ。真下に小さくとも地獄の門が開き、自分を喰らおうと魑魅魍魎たちが待ち構えている事を。


 何らかがある事は気づいているだろうが、まさか落ちた瞬間、自分が無数の餓鬼たちに押さえ込まれ、喰う為に引き千切られる事になるとは思っていないだろう。


 それでも死ぬ可能性は低い。椿の糸で作られた服を着、ブレザーには鳳凰の羽根が織り込まれているのだ。その為大きな怪我だけでなく、地獄に取り込まれる心配もない。

 ただ、無数の得体のしれない手に取り囲まれ押さえ込まれ、多少生きたまま肉を食い千切られるだけだ。そんなものは時間がたては完治する。


 けれど……。


 蠢く手。

 不快な唸り。

 侵食する絶望。


 それは体だけではなく、人の中にある闇に纏わり付く。そこから闇に侵食される。終わらない永遠の苦痛から逃れようと掴んだものは決して離さない。自分が助かる為に身代わりを切望している。否、身代わりでなくともいいのだ。同じように終わらない苦しみに落とせるのなら……。


 そして飢えている。

 希望に。

 救済に。

 温かな血肉に。


 地獄の責苦に感情は粉々に破壊され、最後は本能だけがそこに残る。強く救いを求めるその狂気は「食欲」へと形を変える。だから喰う。温かな血肉を見つければ、狂喜乱舞してそれを貪り、喰い殺す。そんな事をしても救われる事はないというのに、もう、それを理解する知能すら残っていないのだ。


 それが地獄。

 これはその入り口。


 纏わり付く無数の手。

 重い空気。

 耳障りな低い唸り。

 内なる闇から侵食されていく精神。


 群がる餓鬼たち。

 生者を見つければそれを貪り喰う。

 彼らにはもう思考など残っていない。


 国によって宗教観が違うが、何故か地獄はいつでも同じように見える。それぞれの場所にそれぞれの宗教がある。だがどんな神のどんな救いがあろうと、落ちる場所は同じなのかもしれない。


 それはどんなに藻掻いても纏わり付き、侵食していく漆黒の絶望。意識の残ったまま、肉体を少しずつ切り裂かれる耐え難い苦痛。


 そこに落ちれば、僅かな時間とはいえそれを体験する事になる。初陣の傑が、その地獄を垣間見た精神的なショックから立ち直れるかはわからない。


 戦人は単に戦う能力が高ければいいというものではない。そういうものから精神的に這い上がれる強さが必須となる。


 今までも、どれだけ強くとも、そう言った部分から戦人でいられなくなった人間を数多く見てきた。生き残っても、もう戦う事ができないのだ。


 物に溢れた現代社会でぬくぬくと育ってきた傑。いくら戦う技術を叩き込んでも、その部分は本人の意志の強さであり、生きる事への執着なのだ。

 醜いほど生に執着できるほど傑は強くない。それは側で見てきた院瀬見が一番良くわかっていた。


 傑か、悪鬼か。


 院瀬見は判断した。数秒先に降り立った院瀬見に闇が群がる。



「椿!!いるな?!傑様を連れて行け!!」



 無数の手に囚われながら、冷静に院瀬見は叫ぶ。その瞬間、シュッと糸が飛んできて、魑魅魍魎が掴もうとした傑の体が引っ張られた。


「え?!院瀬見?!」


 突然引っ張られ、傑は混乱した。ガシッと椿に捉えられ、すぐに状況を理解しようとする。


 椿は味方ではない。その証拠に、院瀬見が声をかけるまで二人を傍観していた。


 その椿が手を出すのは、バックアップとして仕事をする時だけ。



『連れて行け』



 院瀬見は椿にそう命じた。つまり、傑の撤退を命じたのだ。


 何で?

 どうして?


 戦うのに俺が邪魔だから??


「院瀬見!!」


 傑は叫んだ。


 そして見た。

 悪鬼よりも恐ろしい光景を。


 院瀬見の体は半分ほど闇の中に沈み、その体には無数の手が絡みつき、小さな餓鬼たちが群がってほとんどその姿が見えない。


 血の匂い。


 おそらく喰われている。それらは生きたまま院瀬見を喰おうとしている。その狂気を目の当たりにした。


「……嘘だろ。」


 院瀬見がその程度でやられるとは思わない。だが目の前で、無数の餓鬼が生きた人間に群がって貪り喰おうとしている事にショックを受けた。


 それは地獄だった。


 地獄絵の光景が目の前にあった。知識としてそういう事は知っていたが、目の当たりにすると言葉にならなかった。


 狂気の宴。


 そんな言葉が頭に浮かんだ。彼らは自分の身体が引き千切られようとも院瀬見に手を伸ばし、死に物狂いで纏わり付く。理性なく本能のまま口を開け、院瀬見に齧り付き喰らおうとする。


 院瀬見はそれらを振り払う。けれど闇の中から払っても払ってもそれは湧いてくる。


 何かで生きたまま蟹に喰われる話を読んだ。目の前の光景は、まさにそういうものだった。それに言葉を失う。


 傑を取られた悪鬼がこちらに顔を向ける。


 椿は呆然とする傑に脚を絡め、ニッと悪鬼を笑った。

 それは傑の知っている椿の顔ではなかった。妖魔としての椿の顔。


 目眩がした。


 自分の知っている世界じゃない。真っ暗な夜闇の中に存在する世界のもう一つの顔。それを傑は目の当たりにした。


 悪鬼は椿を一瞥すると悔しげに顔を顰め、ターゲットを院瀬見に変えた。蝿の性質を強く出した今の悪鬼には、椿はあまり関わりたくない相手に映ったのだろう。


 院瀬見が闇の中から、餓鬼を踏み台にして飛び上がった。その体は血塗れ、白かったシャツは赤くなっている。


「院瀬見!!」


 傑は悲鳴のように叫んだ。手を伸ばすが椿に遮られる。


 抜け出したばかりの院瀬見を、待ち構えていた悪鬼が突き落とす。院瀬見はまた、闇と餓鬼の群れの中に落ちる。


 傑は反射的に手にしていた銃で悪鬼を射撃する。しかし院瀬見でも当てるのに苦労していた相手に傑が太刀打ちできるはずもない。


「わっ?!」


 発煙弾はもうない。どうするかと傑が考え始めた時、椿が動いた。傑を抱え、撤退を始める。


「離せ!!椿!!」


 自分が行ってどうなる訳ではない。だがこのまま院瀬見を残して自分だけ逃げる事を意識が強く拒んだ。


「院瀬見!!」


 院瀬見は振り向かない。


 聞こえていない訳じゃない。

 あえて振り向かないのだ。


 傑に向けられた背中はそう語っていた。







 あぁ……今日は嫌な日だ……。


 皮膚を噛みちぎる餓鬼を払いながら院瀬見は思った。こんなもの別に大した事ではない。怪我などいずれ治る。地獄に片足を突っ込んでいるなどいつもの事。別に何とも思わない。


 だが……。



「院瀬見!!」



 あぁ、今日は嫌な日だ……。


 この光景の中、まだ少し幼い声が必死に自分を呼ぶ。その事が院瀬見にとっては辛かった。


 あぁ、アイツらは、この中に落ちたのか……。俺の名を必死に呼びながら……。


 生きたまま、地獄に落ちたのか……。


 この絶望に纏わり付かれ、逃れる事もできずに闇に心が侵食され、そして生きたまま餓鬼に喰われた。その声が聞こえるようだった。


 何とか意識を保とうとするが、地獄の気が院瀬見の心暗さを増幅させる。ゴオオオオォォという地の底から響く唸りの中、自分を呼ぶ声がする。そんな気がした。


 ああ、わかってる。

 いつか俺もそこに行く。


 でも悪いがそれは今日じゃない。


 今日じゃないんだ……。


 そう思ってそこから這い出る。どんな手を使ってでも、まだ死ぬ訳にはいかない。


 何かが院瀬見を繋ぎ止めていた。


 諦めたヤツが死ぬ。

 それがこの世界の鉄則。


 しかし這い出た院瀬見はすぐ様、そこに叩き落とされる。チッと苛立ちながら、また藻掻く。


 ああ、今日は嫌な日だ……。昔を思い出させる……。


「……地獄など、もう見飽きた。」


 何度も何度もこの光景を見た。あまりに見過ぎて、またこれかと思うほどだった。


 面倒くさい……。


 そう思いながら這い上がる。それを邪魔する蝿がうるさい。


 蝿?


 蝿がいるなら、俺はもう死んだのか?なら、別にもう、這い出なくとも良いのか??


 過去の記憶が今を歪める。


 ああ、面倒だ……。

 もう面倒だ……。


 確かあの蝿を殺せば良かったんだよな?そうしたら、もう休んでも良いんだよな?


 いや……何か、他にもあった気はするが……。何だっただろう?


 まあいい。あの蝿さえ倒せばいい。


 そしたらもう、目覚めなくてもいい。

 ここに落ちてもいい。


 皆が待っている……。


 地獄の瘴気に当てられた院瀬見は、そんな事を考えていた。

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