表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
トマト  作者: ヒルマ・デネタ
Chapter 4
9/17

寄り添うまぶた





 十二月になった。里波は毎夜、八時にはベッドに入った。そして零時までは深い眠りにつけるようになったが、零時になれば目覚めてしまう。けれど、不安は前より薄くなった。里波は目覚めるとすぐにウサギのぬいぐるみに顔を埋め、抱きしめる。それだけで、しばらく安心する。このことは恥ずかしくて、須永にも言えない。秋津だけが知っている秘密だった。

「けど、二度寝? って言うのは微妙だけど、深夜に目が覚めても、少し寝れてる感じがする」

 朝食後のヨーグルトを食べながら、里波は言った。

「でも少しだろ? 感じがするっていうのも。ぐっすり寝れるようにならないと」

 秋津は食後のお茶を飲んでいる。相変わらず、ノンカフェインのブレンド茶だった。テレビから天気予報が流れている。今日一日、晴れだった。

「俺、図書館行ってくる。秋津さんが返してくれた本、途中だったから読み直すわ」

 秋津は微笑み頷いた。本を読む気力が戻ってきたのは良い傾向だった。

「じゃあ、ウサギを天日干しにしたら?」

「ええぇ……」

 里波は渋る。

「買ってから一度も、干してないだろ。消臭スプレーしてるか?」

「布団にはしてる」

 先週、秋津の布団と一緒に縁側に干した。

「図書館に行く間だけ、干せばいい。物干し台、スペース空けとくから。俺も今日は、出かける。帰りは夕方になる。準備ができたら、一緒に出よう」

 秋津が飲み干した湯呑みを台所に持って行きながら、てきぱき言った。

「はーい」

 里波は庭の物干し竿の上に、ウサギを寝かして秋津と家を出た。

 里波は、久しぶりの図書館で雑誌を何冊かめくったが、前ほど興味が持てなかった。結局、秋津が返してくれた一冊だけ借りて、バックパックにしまう。昼は、家で食べようと考えると、タオルハンカチで顔を拭くおじさんとすれ違う。おじさんは鞄から出した本が濡れていないのにほっとし、返却カウンターの司書に話しかける。

「急に雨が降ってきまして。すんごい雨で」

「あらぁ。今日雨でした?」

 司書は傘がないことを頭の隅で考える。

「季節外れの通り雨ですかねぇ」

 里波は図書館の入り口まで急ぐ。外は土砂降りだった。


 夕方、帰ってきた秋津は水を張った浴槽に沈められた白いウサギを見下ろす。そしておずおずと、夕食の支度をする里波の元へいく。里波は白菜の間に豚バラをはさむ。今夜の献立は、白菜と豚バラのミルフィーユ鍋だった。

「悪い、里波。俺が干せって言ったから」

 秋津は柄になく落ち込んだ。里波はその様子に笑った。

「別に秋津さんに八つ当たりしないよ。天気予報は晴れだったし。通り雨があるなんて予想もできなかったからね。しょうがない。今日、風呂は俺が洗うよ」

 里波の穏やかな言葉を聞いても、秋津は気掛かりだった。ウサギのぬいぐるみは里波にとっての睡眠の大黒柱だった。

「ご飯食べたら、コインランドリーに行こう。ほら、図書館行く途中に二十四時間やってる所あっただろう?」

 里波は気が進まなかった。

「形変わったら嫌だし。ちぎれて綿出たらもっと嫌だし。自然乾燥させる」

 秋津はスマホで一週間の天気予報を確かめる。明日から冷え込み、気温は上がらない。

「でも、これから天気悪いよ?」

「うーん、とりあえずご飯食べる」

 里波はそう言って、豚バラを挟んだ白菜を切る。これ以上言えば、ストレスになるだろうと、秋津は黙った。

 八時過ぎに、里波は風呂から上がった。秋津にボディクリームを塗られた里波は、ベッドに潜る。癖でウサギのぬいぐるみを抱きしめようとするが、ウサギは絞られ、居間で、シートの上に重ねた新聞紙のまた上に干されている。里波は毛布を引き寄せて、顔を埋めた。

 しばらくして、風呂から上がった秋津の気配を里波はガラス戸の向こうに感じた。里波が自室に入ると、居間は常夜灯に変わる。秋津は自分より遅く寝ているだろう、部屋で何をしているのだろうと里波は眠れない日々の中で、考えるようになった。常夜灯の居間から秋津の気配が遠ざかる。里波は無意識にベッドから抜け出し、ガラス戸を開けた。居間を出ようとした秋津はふり返る。里波はガラス戸の横に立ったまま、俯いた。

「何か、飲むか?」

 秋津が聞く。里波は小さな声で言った。

「秋津さん、一緒に寝ない?」

 消えそうなその声は、静かな夜の部屋を通して、秋津の耳に届く。秋津は里波を見つめる。里波は我に返り、顔を熱くした。

「あ、すいません。間違えました」

 里波はガラス戸を閉めようとする。

「いやいやいや、ちょっと待って」

 秋津が慌てて里波の元へ行き、閉まろうとする戸を手で制止する。

「ごめん、今日はもう帰って」

 里波が顔を背ける。

「ごめん、ここが俺の帰るところなんだけど」

 笑いをこらえながら、秋津が言った。観念した里波が、秋津に向き直る。

「ごめん、どうかしてた」

「ウサギがいないからしょうがないよ」

 秋津は里波を部屋に押し込みながら、背後の戸を閉めた。そして、里波をベッドに力づくで座らせ、肩を押し倒す。

「しなくていい! いい! いい!」

 里波は焦る。

「いいから」

 秋津が囁くように宥めた。里波は唇を閉じた。秋津はベッドに入ると、里波の肩まで布団をかける。里波の鼻先が、秋津の鎖骨に触れる。ラベンダーの香りがした。

「ボディクリーム塗った?」

 里波が聞いた。秋津は笑みを零す。

「俺が先に風呂に入った時、里波が塗ってくれるだろう? なんか、俺も、塗らないと落ち着かなくなった」

「へぇ、ふふっ」

 里波はにやけると、まぶたを閉じる。

「俺、寝むれない時間に秋津さんのこと結構考えてた」

 里波が密かなにおいを漂わせて、呟いた。秋津は里波を包むように、腕をまわした。

「へぇ、どんなこと?」

 夜船を漕ぐような揺らぎがある声で、秋津は聞いた。

「俺のまばたきが、秋津さんの眠りなんだろうなって」

「そんなことないよ」

 秋津は柔らかく否定した。

「里波と俺は、生きてきた時間の長さは全然、違うよ。でも、一日のまばたきをする時間も、眠る時間もだいたい同じだ。だから、俺と同じ時間、里波にはちゃんと寝て欲しいよ」

 秋津は里波のこめかみのにおいを嗅ぐ。鼻に抜ける愛しさが肺に満ちる。

「そっかぁ」

「そうだよ」

 吐息の壁。囁きの相槌。ふたりはまぶたの裏に縋り合い、寄り添い合う。その夜、長い時間、目覚めたままふたりは寝そべった。けれど気がつかないうちに里波は久しぶりに、零時を眠りで通り過ぎた。




 通り雨に汚れたぬいぐるみのウサギを秋津は、シグレと呼ぶようになった。里波もその名前が気に入った。シグレは、手が空いた時に里波と秋津がドライヤーで乾かしたおかげか、三日ぐらいでなんとか乾いた。手触りは少し変わってしまったが、愛着が染み込んでいたので、里波にはたいしたことではなかった。シグレが復活し、ふたりはまた別々に眠るようになった。そして、里波は零時に目覚めなくなっていた。

「だいぶん、よくなったよ」

 里波が大学に行っている間、秋津は関本に電話をした。

「よかった。思ったより、随分と早かったな。けど、油断しないでよ。気をつけといてあげなよ」

「分かってる」

 秋津は里波の部屋にいた。ベッドに腰掛け、シグレの頬をつまむ。里波と一緒に眠り、それが終わってから秋津は、里波のいない時間に部屋に忍び込むようになってしまった。

「でも、まあ、今年はいいとして。年明けたら、色々覚悟しなね」

「どういうことだ?」

 秋津がシグレから指を離す。

「昨日、奥野が森に来た。今年中に大きい仕事片しているそうよ。あくまで、秋津は見逃されている立場だ。誰も松崎には勝てない」

 秋津が沈黙する。

「いつかまた、あんたらに姿を見せるだろう。酷なことを言うが、秋津に里波は守れない」

 だからとっとと、里波に惚れろ。関本はその言葉を飲み込んだ。できるだけ早く、秋津が松崎の理想から落ちて欲しいと関本は願っていた。秋津は里波のベッドに寝そべる。

「長生きするもんじゃないな」

「あんたが言うと五臓六腑に染み渡るね」

 関本がケラケラ笑った。



「今日、どこか一緒に出かけないか?」

 大学が休みの朝、洗い物をする里波に秋津が遠慮がちに誘った。里波はちょっと考える。返却期限が明日の本を今日中に読み終える予定だった。けれど、秋津が目的がない外出に誘って来るのは初めてだった。

「いいよ。どこ行くの?」

「そうだな、ちょっと遠くまで」

 ガスの元栓を切って、戸締りをしっかり確認してふたりは家を出た。そして、電車に乗る。家から駅まで行くのに鼻は真っ赤になった。

「マフラーしてきてよかった。秋津さん、寒くね?」

 里波はダウンにダークグリーンのマフラーを巻いていた。

「首が長いセーターだから、大丈夫」

 秋津はネイビーのタートルネックのセーターに黒のコートをはおっていた。電車は空いていて、ゆったりと座れた。秋津はスマホの画面を里波に見せる。

「エビドリアのおいしい店だって」

「めっちゃいいじゃん。どこ?」

 里波は喜ぶ。

「三つ先の駅だな。駅から近い。徒歩で行ける」

「そこに行きたかったん?」

「今決めた」

 里波は不思議そうに隣の秋津を見る。秋津は微笑むだけだった。

「ふーん。いいね」

 里波は秋津のスマホでドリアの写真を眺めた。

 ドリアを食べ終えると、次に秋津は二駅先のカフェに行こうと誘った。

「それも今決めた?」

 里波が聞く。

「今決めた」

 秋津が言った。

「ちょっと、遠くに行きたい気分なんだ」

 秋津が切符を買いながら呟いた。

「それはいい気分だね」

 里波は適当なことを言った。今、この楽しい時間につまらない理屈で水を差したくなかった。

 カフェは川の近くにあった。秋津と里波は誰もいないテラス席を選んだ。里波はマフラーだけはずした。午後になると風はやみ、日差しも出て、冬のテラスでも心地がよかった。里波はロイヤルミルクティーを火傷しないように、すする。秋津は川を眺めながら、コーヒーを飲む。

「それ、ガテラマだっけ」

「ガテ、マラ」

 秋津が訂正する。目尻には優しい皺ができている。

「ガテマラ。それ、好きだよね。秋津さん」

「よく選ぶかな。言われたら、百年前からよく飲むね」

「出た。不老ジョーク」

「ジョークではないだろう?」

 秋津は変わらず、好きを肯定しない。それでもゆっくりと、秋津の中で留まっていたものが明るい方へ流れ出していた。

「年末年始、里波の親は帰ってくるのか?」

 ミルクティーを飲んでいた里波は首を横に振った。

「飛行機取り損ねたらしい。だから、春に帰って来るって。暖かい季節の方が逆によかったかも。まあ、俺が行けたらいいんだけど」

「里波はなんで飛行機がダメなんだ?」

 秋津が聞いた。

「一回乗った時にさ、なんかダメだったんだよねぇ」

 里波は曖昧に答えた。

「空、飛んでるのはいいんだよ。狭い空間がダメなのかも。それか、沢山人がいるから。人が一か所に集まってるのが嫌い。なんか不安」

「じゃあ、満員電車もダメか」

「好きじゃないかも。まあ、それはみんな好きじゃないよね」

 里波は笑って、例え話をしてみた。

「秋津さんが隣にいたらいいかも。一緒にフィンランド行ってみる?」

 パスポートの事情など知らずに、里波は言ってみた。けれど、困った表情の秋津を見て、言わなければよかったと後悔した。

「フィンランドは遠すぎるね」

 慰めるように秋津は言った。里波はなんてことないように返した。

「電車で行けないもんねー」

 ふたりは笑い合って、沈黙する。川の流れる音は静かすぎて、ふたりの耳には届かない。

「俺は、自分の話をあまりできない。さぐりさぐりになる」

 秋津が沈黙にこぼした。里波は頷いた。

「でも、里波の話は聞きたい。いいか?」

「いいよ」

 里波は満面の笑みで答えた。何が聞きたい、と促す。

「里波は、トマトクリームパスタが好きなのか? イタリアンの店に行くとよく頼んでる」

「うん、好き。ペペロンチーノも好きだけどね」

「里波の両親はなんで、フィンランドに?」

「うちの両親さ、フィンランドのツアー旅行で出会ったんだって。そんで、フィンランドが舞台の映画にハマって。日本人がフィンランドで食堂開くやつ。俺が大学生になったからさ、夢叶えに行った。俺は普通に嬉しい。なんとか、なってるみたいだし、ずっとなんとかなればいいけどね」

 いつか行ってみたいと言うのを里波は言わなかった。さっきの飛行機の会話を掘り返すようで、嫌だった。秋津は絶え間なく、里波に色々聞いた。里波は何でも答えた。冷たい空の下、ふたりは冷めた飲み物をおいしく飲んだ。

 帰りに、駅前の弁当屋で夕食を買って帰った。ふたりともカキフライにした。その日は先に、秋津が風呂に入った。里波は本を読む。読んでいる間に、昼間の秋津との時間が頭に流れる。里波は本を伏せる。今日の秋津は、らしくなかった。里波から見て、浮かれているように見えた。赤森に見せる、幼さとは違う、けれど親しい何か。まさか、を考える。

「いや、ないな」

 里波はすぐに払拭した。再び本を読む。一ページを読み進めることなく、秋津が里波に声をかけた。里波は栞を挟む。風呂上りに読めば、明日に返せそうだった。里波は本をベッドの上に置いた。

 風呂から上がると、秋津が待っていた。日課となったボディクリームを里波は秋津に塗ってもらう。

「秋津さんも、腕貸して」

 里波は秋津からボディクリームを受け取ると、秋津の右腕に垂らす。秋津の手は綺麗だった。

「秋津さんって、手荒れとかしたことある?乾燥もしないよね」

「気にしたことないから、ないんだろうね」

 秋津は自分の身体が人ごとのようだった。

「じゃあ、ボディクリーム意味ないね」

 里波は笑いながら、クリームを延ばした。

「そんな寂しいこと言わないで」

 本当に寂しそうな響きの声に、里波は思わず顔を上げた。そして、見つけた。秋津の左耳の上に、白髪があった。里波は目が離せなかった。秋津は里波の視線の先が分かっていた。分かって、甘く微笑んだ。里波は、息をこぼす。そして、目を伏せて秋津の左腕にもボディクリームを塗った。

「はい、おしまい」

 里波はわざと明るい大きい声で言った。ボディクリームを棚に戻す。

「俺、トイレ行く。居間の照明、暗くしておいて大丈夫だから」

「分かった」

 里波は逃げるように、トイレに行った。そして、洗面所で手を洗う。秋津が部屋に戻る足音が聞こえた。戸が閉まる音が聞こえて、里波は蛇口を閉めた。洗面所の電気を消す。台所の向こうの居間に常夜灯がおぼろのオレンジ色に灯っている。

「里波」

 驚いた里波の肩が跳ねた。すぐ後ろに、秋津がいた。

「びっくりさせんなよ! マジで心臓止まった!」

 里波は半分怒った。秋津は黙って、里波の胸に手を置いた。里波はなぜか、動けなかった。

「動いてるよ」

 秋津は里波の鼓動を確かめた。里波は、暗がりに溶けそうな秋津に心細くなる。

「秋津さん?」

 里波の鼓動を確かめた手は、里波のおでこを包んだ。

「さっきの手は温かったのに、もう冷たいね」

 優しく息が震えたのが聞こえた。秋津の手は滑るように里波の後頭部を包むと、胸に引き寄せた。ラベンダーの香りがする。秋津は里波の耳元に唇を近づける。

「里波は、時雨にならないで」

 震える小さい声だった。里波は戸惑いながら、しっかりと秋津にしがみ付いた。

「うん」

 しっかりと、里波は頷いた。秋津は里波の手を繋ぐと、自分の部屋に連れて行った。本の栞は朝まで、動かなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ