恐い男との夜
次の日、午後の講義が休講になった里波は昼過ぎに家に帰った。冷凍ご飯をチンして、炒飯を作っていると、赤森が帰ってきた。
「お、俺も今日、炒飯頼んだ。うめぇな、あそこ。近所にああいうパーフェクトな中華屋があるってのは、最高だな」
「あの店は最高だよ。スープもうめぇ」
「うめぇ」
赤森が同意する。里波はコンロの火を切ると、皿に炒飯を盛る。レンゲを持って、食卓に運ぶ。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
赤森が言いながら、里波の向かいの席に座った。
「烏龍茶、飲むか? 朝買ってきた」
「飲む」
赤森が立ち上がり、グラス二つに烏龍茶を注ぐと席に戻った。
「ありがとう」
「おう。秋津は?」
「ずっと家にいたら、近所に怪しまれるから、週三はちょっと遠くに出かけてる」
「へぇ。大変だな。まあ、森で暮らすよりはマシか」
赤森は鼻を鳴らす。里波は咀嚼した炒飯が無くなると言ってみた。
「赤森さんもうちで暮らす?」
「悪いが、ごめんだ」
赤森は遠慮のためらいを挟まなかった。奥野のことだろうな、と里波は勘付く。
「私はね、松崎が心底憎いんだ」
里波は手を止める。サングラスで赤森の目元は分からない。けれど唇は冷たく、真っ直ぐだった。
「あいつは面で人を切る。さらに、生き馬の目を抜き、煙幕を張るのが異常に上手い。だから、松崎には悪事千里を走るが通用しない。松崎万里を走るだ。裏通りの万里だがな」
赤森は烏龍茶をあおる。
「憎くてしかたねぇがな、私がすぐにやれる仕返しはねぇ。だから、無茶はしない。当たらず障らずだ。里波ちゃんも、秋津に深入りするな。お前みたいなやつじゃ、トラウマになるだけだ。秋津に同情するな。頭の上の蝿を追え」
「赤森さんは優しいね」
「脈ナシのヤツはみーんな、私に優しいって言う」
赤森はヤジる。
「優しいのに長生きするの大変そうだなって」
里波は言った。炒飯を食べる。赤森はしばし、黙って里波を見つめた。そして、唇を持ち上げるような笑顔になる。
「光陰矢の如し。長すぎた日は一度もない」
赤森は嘘を吐いた。里波は黙って炒飯を食べる。
里波が食べ終えると、赤森は駅前の広場にクレープのワゴン販売が来ている話をした。奢るからと、赤森は里波を連れ出した。
「はい、どうぞ。落としちゃダメよ」
先客の母親が息子にクレープを差し出す。息子はほっぺが落ちそうなほど、嬉しそうにする。
「お母さん、好きぃ」
息子は母親の足に抱き付く。
「現金ね、あんた」
母親は呆れ半分で笑う。息子はクレープを受け取る。親子は手を繋ぎ、帰ってゆく。
里波と赤森はバナナクレープを頼んだ。赤森のスマホが鳴る。電話だった。赤森は明るい声で出たが、ちらちらと里波を気にする。里波は首を傾げる。赤森はスマホを肩に押し付けると小声で言った。
「ちょっと、めんどい電話してくるから、クレープ受け取っておいて」
「あ、はい」
赤森は里波に声が届かないぐらい離れた木陰の下で、話した。里波はクレープを受け取る。辺りを見回すと、ワゴンの死角にベンチがあった。里波は赤森の方を向く。赤森が気付く。里波はおおきな口パクで「ベ・ン・チ」とワゴンの裏を指差した。赤森はオーケーサイン高く上げた。里波はベンチに座り、クレープを齧る。
「すみません」
里波はふり返る。クレープが地面に落ちる。
寒い。里波は目を覚ます前に、そう思った。里波は目を開ける。知らない場所の夜だった。カーテンのない窓が開いていた。里波はしばらく動かない。それから、冷たいコンクリートから逃れたいと肘を使って、起き上がる。スニーカーは履いたままだった。足は自由だったが、手首は縛られていた。壁を頼りに、立ち上がると里波は窓の外を見た。「森」ではないようだったが、山奥に近い場所だった。木々がざわざわと音を立てる。暗い夜風に、里波の前髪がなびく。窓の下を見る。大きな木があった。里波がいるのは三階で、飛び降りるには無理があった。
「殺しはしないから、生き急ぐな」
背後の声に里波は、ばっとふり向く。声の主は野球帽を前後、逆にかぶり、目から下を白い布で隠していた。唯一見える目を見ても、里波の知らない男だった。
「誰?」
里波の声は強張る。男は手のひらを下にして、上下に動かす。
「とにかく座れ。大人しくしといてくれ。自分達は無駄に人を殺さない。言うことを聞け」
歯向かうには、里波の立場は危なすぎる。里波は素直に従った。尻から冷気が染み込む。ドアの開いた部屋の外にも数人の気配がした。
「自分達は赤森に用がある」
里波は戸惑う。
「お前の家に、赤森が潜伏しているのは知っている」
「潜伏……」
赤森を滞在させているだけで、匿っているつもりなど里波はまったくなかった。
「いや、そういうつもりじゃ、なかったんですけど……。お金がなさそうだから、居候させているだけでして、はい」
里波は弁解する。男は鼻で笑う。
「あの男に金がないわけがないだろうが。こちらがお前を連れ去ったのも、金で揉めたからだ。情や義理でプライド保っている男だからな、赤森は。お前を見捨てないだろう。これは穏便な交渉だ。安心しな」
安心できるかよ。里波は心の底からそう思った。外から音が聞こえる。里波はすぐに車だと分かった。立ち上がり、窓の外を覗こうとすると、首根っこを掴まれた。
「ぐえっ」
「来たか」
男の声音に余裕がにじむ。男はドアの外に向かって叫んだ。
「おい。こいつを屋上に連れていけ。交渉は屋上でやる」
部屋に顔を隠した新しい男が現れた。
「立て」
里波の二の腕を引っ張り上げて、立たせる。
「しっかり歩けよ」
「あ、はい」
里波は身震いする。恐怖よりも寒さが勝った。早く家に帰りたいと願った。
屋上は当たり前だが、部屋よりずっと寒かった。風は強く、里波は身を縮める。頭の中は寒いでいっぱいだった。恐怖を感じるには、目の前の現実に理解は追いついていなかった。屋上はフェンスもなく、どこからが空中か分からなかった。木々が風に擦れる音が夜の中に途切れ、途切れ鳴る。里波の近くには、三人いた。屋上のドアは開いている。
「明かりを準備しろ。最低限でいい」
屋上にいた男達は懐中電灯を灯した。その明かりが屋上の入り口に立っていた松崎を夜闇から浮かび上がらせる。里波は息を飲んだ。
「なんであんたが来た? 赤森と仲が悪いだろう」
見えにくい誰かが問いかけた。木々はざわざわと鳴り続ける。
「休戦中だ。僕は赤森の代理だ」
嘘だ。根拠はない。けれど里波は瞬時にそう判断した。
(私はね、松崎が心底憎いんだ)
昼間の赤森を思い返す。当たらず障らず、と口にしながら赤森の瞳孔は鋭かった。里波から見ても、赤森が松崎に対する黒い感情を押し殺していると察せた。虎視眈々。そういうのを里波はひんやりと感じていた。
「彼の手首の縄、切ってあげて」
靄がかかったように松崎の声が聞こえるのに、里波の耳の奥で強く震えた。ここで松崎について行けば、どうなる? 赤森の弱味になるんじゃないか。違う。秋津の弱味にもなる。ここで松崎に恩を売ってはいけない。里波の脳みそにやっと恐怖が届く。縄が落ちる。里波は縄を切った男を突き飛ばすと、走る。そして飛んだ。やべ、死んだら元も子もなくない? 里波が冷静になった時、身体は空中だった。ざわざわと意識は沈んで、落ちた。
「目立つから出歩くな。そう言った」
病院の廊下で立ったまま秋津が言った。横の椅子に座る赤森が顔を険しくする。
「すまん」
秋津は言葉を返さない。ふたりの前をふたりを気にしない人が行き交う。
「森に行く前、お前の噂をよく聞いた。金、集めていただろう? 松崎に張り合うつもりだったんだろう」
赤森は無言を返す。
「十年経っても許せないか。猫だろう」
「花が咲いてない、常盤色のてめぇに私の愛惜に口出す資格はねぇよ」
「この状況でよく言い返せるな」
「それとこれは、話が別だ」
赤森は拳を握り、言い返す。
「永久不変でいるつもりなら、なんでお前は森を出た? 寄らば大樹の影だ。そう考えても、里波ちゃんじゃ、頼りない」
「別に、永久不変でいるつもりはない。出たいから、出ただけさ。里波がちょうどよかった」
「松崎はとんびに油揚げをさらわれて、癇癪を起している。お前は人の機微に勘が鋭い。松崎がちょっかい出すことぐらい分かっていただろうが」
「じゃあ、なんでお前はうちに来た?」
「お前が心配だったからだよ」
静かな言い合いが立ち止まる。秋津は大きなため息をわざとらしく、長く吐いて、仕方がないように赤森の隣に座った。赤森は言った。
「逃げたいなら、逃がしてやろうと思った。昔なじみのよしみだ。私は恨みをたくさん買っているが、その代償で得たツテがある。松崎から海外へ逃がしてやれる」
「松崎から逃げても、自由になれるわけではない。不自由なのは、この血だ」
秋津は自分の手を見つめて、零した。
「俺の自由はきっと死だ。俺の葬式出してくれよ。これで、里波に怖い目に遭わせたのは、俺からは許してやる」
赤森は鼻で笑い、目を伏せる。
「青柿が熟柿弔う。私達はどっこいどっこいだ」
「老い木に花でも咲かせろ、バーカ」
「ちょっとそれは意味が違くないか?」
「秋津」
奥野が声をかける。秋津は立ち上がった。
「里波君が目を覚ました。医者が診てくれて、三日ほどで退院できそうだ」
「そうか」
秋津は安堵する。
「目、覚ましたならすぐに呼んでやれよ」
つっけんどんに赤森は言った。奥野と目は合わせない。
「ごもっとも」
奥野は赤森を見て、言った。
「これからもっと、嫌なことを言う。里波君は、退院してもしばらくは秋津の所に帰らない」
「は?」
秋津は低い声を出す。奥野は右手を上げた。
「松崎さんが手首の捻挫。全治一か月。その間、里波君は松崎の世話をする」
「うちには使用人が沢山いてね。皆、両親と同じぐらい僕を可愛がってくれた」
里波は松崎の手首の包帯を見つめる。その日、松崎が上下黒の服を着ているせいか、包帯は嫌に目立った。
「使用人のほとんどが、住み込みだった。幼い男の子がいる使用人がいてね。その子は甘えん坊だった。母親にすぐに抱き付いていた。そしてよく、お母さん大好きと言っていた。母親も、私も好きよと、抱きしめ返していた。あの風景が人生でいちばん幸せな風景だったと思う」
松崎は煙草に火を付けた。顔をしかめる。
「僕、煙草は好きじゃない。でも好きなふりをした方が、やりやすい場面もある。だからこうやって、時々練習するんだ」
松崎は黙々と煙草を吸って、たいして短くならないうちに灰皿に押し付けた。窓の外には海が見える。
「僕は沢山、両親に愛されたよ。しょっちゅう抱きしめられた。それでも、あの、人生でいちばん幸せな風景には足元にも及ばなかった。それがなんでか、ずっーと胸のしこりになってる」
煙草を挟んだ話の続きを、里波はぼんやりと耳に通す。早くこの日々が過ぎればいいと、ひたすらに願う。
「けど、秋津の存在がそのしこりを柔らかくする。だからこれは、秋津への嫌がらせだ。それに、僕の恩を捨てるには、君は頭が足りないよ」
カチンと来たが、里波は唇を結んだまま、耐えた。
「世話なんて求めてない。旅行気分でいい。留学気分の方がいいか。まあ、のんびりしてよ。ここはいい場所だ」
松崎は部屋を出て行く。煙草の残り香が、里波を縛り付ける。
表向きには、里波は一か月の入院になっていた。それを理由に、大学も休むことになった。里波は須永に連絡し、赤森とドライブ中に事故をしたと嘘の説明をした。遠くの病院に入院しているから、見舞いには来るなと念を押した。須永は釈然としていなかったが、深く追求しなかった。戻って来たら電話することだけは、強く里波と約束させた。
里波は二階に与えられた部屋から、海を眺める。ここがどこの海かは知らない。日本の、里波が秋津と暮らしているところよりまだ夏が残っている、どこか。里波はベランダに出た。
あの夜、飛ぶんじゃなかった。里波は自分の馬鹿な行動を後悔していた。里波が屋上から飛んだあと、松崎も続けて飛び、里波をかばうように木の上に落ちた。奇跡的に里波は無傷で、かばった松崎は手首の捻挫で済んだ。里波は最初からこうなるように松崎が裏で操ったのではないかと疑ったが、そうだとしてもどうしようもないとすぐに諦めた。日々は必ず過ぎる。一か月が終わればいい。それは絶対に叶う。里波は気持ちを引き締めた。
海辺のこの家には家政婦が二人いた。家事はすべて家政婦達がしてくれた。里波は与えられたタブレットでひたすらにネット小説を読んで、疲れたら寝た。食事はいつも、松崎と一緒だった。松崎は黒のサルエルパンツに白のタンクトップを着て、それに黒いカーディガンを時々はおっていた。松崎はナスの煮浸しを口に運ぶ。里波は根菜の味噌汁を飲む。ここの食事はとてもおいしかった。里波がここに住みはじめて、一週間が経った。
「俊吾君さ、暇じゃない? 毎日することないでしょ?」
松崎が目線は食事に向けたまま、興味なさそうに聞いた。
「じゃあ何かすることあります?」
意識せずとも里波は挑発的な口調になってしまった。松崎は笑う。
「ないね」
松崎はくすくすと笑い続ける。里波は正直、ひとりで食事をしたかった。けれど、それは許されなかった。それでも、食事はまだマシだった。里波にとってここでの何よりのストレスは、夜だった。
することがないため、里波は早めに風呂に入り自室にこもった。「森」でのアルバイトの日々を里波は思い出したが、それは初日だけだった。夜八時には、電気を消してベッドに入っていた。松崎が来るのはいつも零時だった。里波はいつも悪寒で目を覚ます。暗闇の中、ベッドのふちに松崎は腰をかけ、里波の顔を見下ろしている。そして言う。
「好き」
里波は嫌な顔をする。
「噓だろ」
「噓だよ」
松崎はすぐに認めた。
「でも、こんな風に一か月、俊吾君の顔を見ながら言い続けたら、本当に俊吾君が好きになる暗示にかかるかもしれない」
「なんでそんなことするんだよ」
「俊吾君には分からないよ」
松崎は毎日こう言って、この繰り返された会話を終わらせた。そして、そのまま里波に添い寝する。
「ここで寝るのやめて欲しい。お願いだから」
里波は懇願した。
「ベッド大きいから大丈夫だよ」
松崎は見当違いなことを言う。里波は一週間、我慢していたことを吐き出した。
「あんたが横にいると俺は寝れないんだ」
「知ってるよ」
松崎はそう言って、まぶたを閉じた。
「僕は寝れる」
「いや、自分の部屋に帰れよっ」
里波は懸命に怒る。けれど、松崎は無視して、そのうち寝息をたてた。里波はよけておいた毛布を持って、部屋を出ると廊下の隅でくるまって寝た。
しだいに里波は、昼寝をするようになった。昼間、松崎は仕事で自室から出て来なかった。夜の睡眠を取り戻すように、貪るように眠った。里波のことを好きでもないのに好きと言う。それはじわじわと心を蝕む。小説を読む気力はもうなくなっていた。松崎と顔を合わせて食事をするのもしんどく、食欲は落ちた。昼夜逆転。ストレス。体調不良。このままではいけないと、里波は家政婦にお願いをした。
「好き」
夜のベランダで寝袋に包まる里波に、松崎は言った。松崎は毛布を上着代わりに頭からかぶっていた。里波は無視をして絶対にまぶたを開けなかった。
「そんなに僕と夜寝るの、嫌?」
里波は眉間に絶対に瞼を開けないと力を入れた。松崎は楽しそうな表情を浮かべ、海を背にして里波の前に座る。
「俊吾君がここに来て、はじめての日に使用人の親子の話をしただろう。人生でいちばん幸せな風景。なんで僕がそう思ったと思う?」
里波は耳を塞ぎたかった。それを我慢するのに、服を握りしめた。
「そういう価値観を持つように周りに教えられたからだ。授業みたいに教えられたんじゃない。それこそ、当たり前の風景のように。けどある時、我慢できなくなった。その使用人の息子は、いつもドロップを持っていた。だから一粒くれないかと言った。いい子だからね。レモンのドロップをくれた。僕はそれを地面に落として、踏み潰した。あの時のトマトみたいに」
潰れたトマトに汚れた下駄が里波の記憶に蘇る。目に力をいれるほど、その記憶は鮮明になる。
「その子は泣かなかった。茫然として、僕の顔を見ると怯えるようになった。僕は夢を見るようになった。あの子に貰ったドロップを舐める。あの子の頭を撫でる。一緒に遊ぶ。夢の僕はあの子がかわいくてたまらない。好きでたまらない。けど目が覚めれば、それは全部夢。最悪な目覚めだ」
松崎は里波のまぶたに触れる。
「ほら、起きな」
眼球が潰される。触れているだけの弱い指に、里波は危機を持った。ゆっくりと、瞼を上げる。松崎の指は離れる。
「秋津には血という絶対的な理由があるのに、僕には理由はない。僕には篁家の血が流れていなかった。でも、この世に僕みたいな感情を持つ人間がいることは、僕のこの感情が僕だけではない理由ができる。僕から理由を奪うな。俊吾君の感情の理由なら、この世に吐いて捨てるほどあるだろう」
松崎は無理矢理寝袋のジッパーを下した。里波を包んでいた温もりが消える。
「俺がなんであんたを怖いのか、分かんねぇのか?」
里波の声は小さかったが、海の音に消えなかった。
「分かんないよ。でも怖がらせようとワザとしてる」
「俺が秋津さんと離れれば、あんたは満足なのか?」
「そういう訳じゃないけどね。猫を殺すようなことはもうしたくないんだ」
松崎は悲しそうにした。里波は赤森の顔が浮かび、目を見開いた。
「死んだら、この世からいなくなれば、また止まると思ったけど。そうじゃないんだね。赤森の顔を見てダメだと分かったよ。あいつ、めっちゃ老けたよね」
松崎の言葉に里波の憶測が、事実だと叩きつけられる。松崎は立ち上がるとドアを開けた。
「さあ。中に戻ろう」
里波は声が出ない。
「さあ」
松崎の笑みは消えない。波音は続く。里波は寝袋から抜け出すと、立ち上がる。松崎は手を伸ばし、里波の手を握り部屋へ連れてゆく。ドアは閉まる。松崎がいるこの家で、里波は夜も昼も眠れなくなってしまった。
「目のクマがすごいね」
松崎の手首から包帯が消えた。松崎と里波は車に乗っていた。松崎は楽しそうに里波のクマを撫でる。里波はその手を払うこともせず、されるがまま、ぼんやりとした。
「俊吾君が飛行機は嫌いだっていうから、長いドライブだったよ。ま、嫌いなものはしょうがない」
やっと帰れる。そう思うのに、里波はずっと不安が拭えなかった。この不安は秋津と離れれば消えるのか考えたけれど、それが正解になるのはすこぶる嫌だった。
「俊吾君、こっち向いて」
里波は松崎に逆らわない。
「口、開けて」
里波は言うことを聞く。口の中に松崎はドロップを入れた。
「レモン味だよ」
松崎は笑う。里波はドロップすぐに噛んで、飲み込んだ。
「駅で降ろしてください」
里波が運転手に頼む。
「家まで送るよ」
「嫌です」
里波が、松崎の声にかぶせる。松崎は言った。
「この子の言う通りにしてあげて。最後の願いくらい叶えてあげる」
里波はとにかく早く、眠りたかった。
駅に着くと、里波は小さい声で運転手に礼を言って車を降りた。家の方に歩いていく、里波を松崎は車内から見送る。
「松崎さん」
運転手が声をかける。
「外に」
運転手の言葉に松崎は窓の外を見る。すぐ傍に知っている男が立っていた。松崎は窓を少し、開ける。赤森はけして、腰を曲げたりして車内に顔を見せなかった。松崎も前を向いたままだった。
「もう、お前と話なんかしたくないが、言っといてやる。世の中は、色々な人間で成り立っている。マジョリティーマイノリティーあるが、そういう話じゃない。感情も境遇もそれぞれだ。かごに乗る人、担ぐ人、そのまたわらじを作る人。昔からそうだ。それは覚えとけ、松崎のぼっちゃん」
「僕、かご乗ったことないし。この先も乗らないよ」
窓が閉まる。松崎が乗った車は走り去る。赤森は濁りきった感情を全部、舌打ちにした。空は曇っていた。