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トマト  作者: ヒルマ・デネタ
Chapter 1
3/17

今までの保護、これからの保護



 


 チューブの先を左目の目頭にあてる。そのまま、もたつかないように目尻までジェルを流れるように塗る。感覚的には塗るというより、滑らすという感じだった。まつ毛がとらわれているようだと里波は思う。右目のまつ毛もとらえると、里波は秋津から離れ、長い息を吐く。

「上手になったね。明日からひとりでもう大丈夫ね」

「え、明日まで来て欲しいです」

「弱気ねぇ」

 里波は蓋をしたチューブを関本に渡す。秋津は里波の方に顔を向けた。

「髪切ったの?」

 え? と里波は聞き返す。秋津は頬に指を滑らす。

「髪が触れなかった」

「私がカチューシャあげたのよ。この子、おでこ出てる方がイケてるの。じゃ、私行くね」

 関本が部屋を出て行く。秋津は手を里波に向けた。この病室みたいな部屋に似合わない、筋張った逞しい手がブルーのシャツから伸びている。

「どしたんですか?」

 里波は不思議そうに秋津のゴツゴツした手を見つめた。

「触らして」

「何を?」

「おでこ」

「へ?」

 里波は戸惑いをこぼす。それでも秋津の手は空から動かない。里波は秋津の顔を伺う。笑みを浮かべているというよりは、耳を澄ましているような表情だった。見えない分、自分を感触から知ろうとしているのかもしれないと里波は考えた。無下にするのはよくないと、秋津の手に触れる。そして里波はベッドのふちに座ると、秋津の指の腹に、おでこをくっつけた。

「これ、俺のおでこ」

 里波は自分で説明しながら、照れくさくて笑ってしまった。秋津は手のひらで、里波のおでこを温めるように包んだ。

「秋津さん、体温高いね」

「里波は低いな。冷たくて気持ちいい」

 そう言っている間に、里波のおでこから冷たさが消える。秋津はそのまま指を髪の方に滑らした。

「これがカチューシャか。想像したのと違った」

 波打つカチューシャを秋津は指で漕ぐように辿る。

「里波の髪は何色?」

「赤色に染めてる。友達の兄ちゃんが美容師で、染めてくれた」

「へぇ。よく似合いそうだ。里波は大学生ぐらい?」

 秋津には名前以外教えないこと。それが関本との約束だった。秋津は犬を撫でるように、里波の髪を触り続ける。

「なんかうっかり色々喋ってしまいそうだから、やめて」

 里波は秋津の手をつかまえると、頭から離し、ベッドから立ち上がる。メモ帳に「髪が赤色だと教える」と里波は書く。あとで関本に怒られるかもしれない。秋津は里波に触れていた手を柔らかく握った。

「里波は俺のことを何も聞かないね」

 秋津の素性は聞かないこと。これも関本との約束だった。

「聞いちゃダメだからね。聞いていいのは、身体の調子と今して欲しいこととか、そういうのだから」

「じゃあ、髪切って欲しいな。関本に準備を頼んでよ」

 秋津はベッドから抜け出すと、窓辺の椅子に座る。レースのカーテンは開いていて、外の森がよく見えた。

「わかった。失敗しないようにイメトレしとく」

「真っ直ぐ切ってくれればいいから」

「それが難しんだよ」

 秋津は窓の外に顔を向けた。

「今日もいい天気だよ。秋津さん、何か飲む?」

「ウーロン茶」

 里波は部屋の冷蔵庫からウーロン茶を出すと、グラスに注ぎ、ストローをさす。秋津のところに戻ると、秋津は迷いなく里波の手からグラスを取った。

「ありがとう」

「すごいよね。見えてるみたい」

「百年以上も生きてるからね。感覚が敏感なんだ」

 秋津はウーロン茶を飲む。里波は秋津の言葉を反芻する。

「めっちゃ長生きじゃん」

 里波はジョークだと思って笑う。

「百何歳なの?」

「だいたい百二十歳ぐらいかな」

「あははっ! 超スゴ」

 里波は笑いながら、秋津のベッドを整える。

「ここからどんな風景が見える?」

 秋津が聞く。

「森だよ。一面緑色」

「それは残念だな」

 秋津は言った。

「緑は苦手だ。飲み込まれそうになる」

 竹やぶで秋津は倒れていた。関本との約束がなくとも、そのことには触れてはいけない気が里波にはした。

「秋津さん、今日のお昼なにが食べたいですか?」

「里波は?」

 うーんと考えながら、里波は秋津の向かいの椅子に座った。

「炒飯かな」

「俺もそう思ったよ」

 嘘だと里波は分かった。けれど、ありがとうで終わらせた。

 炒飯を食べたあとすぐ、秋津が昼寝をはじめたので里波は外に出た。施設を周回する。壁は前も後ろも、左右も、蔦に覆われている。施設から視線をはずすと、すぐに緑にとらわれる。深呼吸が似合う場所だと里波は思った。施設の周りをもうすぐ一周しそうなところで、一本道を里波は見つけた。対向車が来たらもう動けないほどの、車が一台ぎりぎり通れる道は「森」から抜けられる唯一の逃げ道だった。里波は吸い込まれるように、足を向ける。

「帰れなくなるよ」

 里波がふり向くと日陰の中に、奥野がいた。中華屋ではじめて会った時と同じ服装だった。

「この道が帰り道なのに?」

 里波が返す。太陽がまぶしく、目を細める。

「戻れなくなるよ」

 奥野は言葉を変えると、日陰から抜け出した。

「アイスクリームを買ってきた。ロビーの椅子で一緒に食べよう」

 背を向けて奥野は歩き出す。里波は帰り道に背を向けて、戻る。

 奥野がバニラのカップアイスを買ってきていた。真ん中のロビーチェアにふたりは座った。

「ここ、冬になったら大変そうっすね」

 里波はそう言って、使い捨ての木製スプーンを舐める。

「ここは案外、雪が積もらないんだ」

 奥野はどんぶりをかき込むようにアイスを頬張る。里波はアイスを舌でじわじわと溶かした。

「今日は変な味がしない」

 里波が言った。

「ここに来るとき、奥野さんアイスティー買ってくれただろ? あれ、ちょっと変な味がした」

 奥野は目を伏せる。

「毒だったら俺、死んでるね」

 里波は演技臭く笑った。奥野は顔を上げる。

「私は里波君を殺さないよ。君は、眠っただけだ」

「その言い草、どうなの? 馬鹿にしすぎでしょ」

 里波の力む手が、アイスを溶かす。

「馬鹿にしてない。ここまでの道を知られたくなかったんだ。目隠しを頼むのも変だからね。罪悪感はあった。けど、里波君を絶対に秋津に会せたかったんだ」

「なんで?」

「第一印象がよかったから」

 里波はやはり馬鹿にされていると腹が立ち、無言で怒りを露わにした。

「帰るなら、今すぐ家まで送るよ。約束する」

 奥野の瞳は不安げだった。それにも里波は無性に腹が立った。里波は秋津の束縛のまつ毛を思い返す。あれは本当に保護なのか。里波は薄々感じていた疑問を鮮明にする。

「ちゃんと生きて帰してくれるなら、最後までいる」

 帰って来なければ須永が、しかるべきに場所へ行動してくれるはずだと里波は頼りにした。ここで帰れば、なんとなく秋津を見捨てるように感じた。里波は条件がいいから、なんとなくここに来た。全部、なんとなくだった。

「それはもちろん。必ず」

 奥野は強く約束した。里波は何も返さなかった。足音が近づいてきた。

「奥野、あんた来てたの? 私に挨拶に来なさいよ」

 関本が腕を組む。

「ちょうどいい。話がある。里波、秋津のお目覚め。呼んでる」

「はーい」

 里波は立ち上がり、奥野の前を通るが目をあわせなかった。

「そうだ、関本さん。秋津さんに髪切って欲しいって頼まれたんだけど」

 関本は驚く。

「あの男がハサミを持たせるか。たった三日ですごいね、里波」

「え、あ、そう?」

 里波は関本の反応が大げさだと思った。

「ハサミは刃物だからね。私も付き添うよ。今夜は、ここに泊まる。明日、準備すると秋津に伝えといてくれないかい?」

 奥野が言った。里波は頷く。

「じゃあ、行きます」

 里波が早歩きで、去って行く。里波の姿が見えなくなってから、関本は奥野の隣に座った。目の前は出入り口のガラスの扉。薄暗いロビーから見える緑色の夏の外はスクリーンのようだった。

「あんないい子に嫌われるのは結構、堪えるんじゃない?」

「言うな」

 奥野は苦笑いをする。

「私にアイスクリームは?」

 関本が奥野の手にある空っぽになったカップを見て、なじる。

「事務室の冷凍庫に入れてある。あとで持って行くよ」

「帰りに寄るよ。さっきの話だけど、秋津にハサミを近づけるのは許すんだ。里波の部屋にテレビは置かないくせに」

 奥野は言葉の代わりに視線を返した。

「里波から娯楽を奪って、秋津に執着させる気? あんたらの手には乗らないよ。あの子に私、小説貸したから。漫画だって、届いたら貸すから」

「あんたらってなんだよ」

 奥野はそこが妙に引っかかった。

「あんたは松崎の秘書でしょ?」

 関本はトゲトゲしい言い方をした。奥野は否定した。

「あの人がそんな指示するわけないだろう。秋津が担当の職員を病ませているのを喜ぶような人だ。松崎さんは、秋津にずっとここにいて欲しくて、誰にも懐いて欲しくない」

「愛惜をもたない、か」

 関本が相槌代わりに小さく、言った。そして、すぐに尋ねる。

「じゃあなんで、奥野は里波を秋津に寄越したの? 里波を病ませたいほど恨んでんの?」

「まさか」

「じゃあなんで」

 関本はしつこく聞く。関本が知っている奥野はまったくの部外者を理由もなしに「森」に関わらせる人間ではなかった。

「秋津がここにずっといるのは俺にとって、よくない」

「なんでぇ?」

「松崎さんが喜ぶから」

 沈黙が流れる。

「……奥野、なんで松崎の秘書なんかやってんの?」

 関本はこの短い時間で何度もなんでを繰り返す。奥野は長い溜息を吐いた。

「自分を信じ切らなかったからだよ」



 里波は秋津と、窓際のテーブルでアイスティーを飲んでいた。明日、髪を切れると伝えれば、秋津は穏やかに喜んだ。

「仕事が終わったら、里波は何をしてるの?」

 秋津が尋ねる。

「えーっと、報告書が終わったら、部屋戻って、関本さんに借りた本読んだり」

 里波は作者の名前を言う。

「その作者なら俺も読んだことがあるよ。空港が舞台の話。たしか、デビュー作だったと思う」

「へぇ。関本さんに聞いてみよ」

 それから里波は、夕食の話やすることがないから寝るのが早い、腹筋を百回している話をした。秋津も腹筋と腕立て伏せを毎日していると言った。

「俺もすることは限られているからね」

「暇すぎてどうしようもないことない?」

 里波が心配そうに尋ねる。

「面倒よりかは暇がいいね」

 秋津が淡々と言った。里波は秋津の束縛のまつ毛をじっと見る。

「外の空気を吸いたいと思わないの?」

 ここを抜け出したいと思わないのか? という疑問を里波は濁した。

「出られないからね」

 秋津は里波の方を向くと、手を伸ばした。その指先は里波の頬に触れ、熱をかすめる。

「里波はなんで俺がここにいるか知ってる?」

 優しく、透けるほど柔らかい声で秋津は問いかける。

「保護、されてるから」

 里波の声は掠れる。秋津は微笑む。秋津の親指は、里波の涙袋を撫でる。

「俺のまぶたを見ても、そう思う?」

 朝、自分がとらえたまつ毛が里波を向く。秋津の親指の爪は、下まつ毛のふちで止まる。

「里波。俺の瞳はね、光に弱くなんてないんだよ」

 里波から離れた手は、グレイコートの胸元をさぐり、ポケットに入っていたメモ帳を見つけ出すと秋津は、床に捨てた。グラスの氷がカラン、と鳴る。外の風景は緑のまま。里波は報告書にはじめて、秋津との全部を書かなかった。




 部屋の外の緑は今までいちばん、里波には眩しく見えた。関本の研究室から持って来た姿見をパイプ椅子の前に置く。関本は奥野に任せて、他の仕事に行った。里波は秋津を呼ぶ。

「秋津さん、準備できたよ」

 まぶたのジェルは綺麗に塗られていた。秋津はベッドからパイプ椅子まで移動する。

「前掛けかけるね」

 里波は前掛けをかけたあと、鏡越しに秋津を見た。里波のグレイコートのポケットの中には、ジェルをはがす薬があった。昨日、秋津に頼まれていた。けれど、朝から奥野がずっと近くにいるため、渡すタイミングを逃していた。里波は櫛で、秋津の髪をゆっくり丁寧にとかす。

「どこまで切ろうか?」

 里波は聞く。

「鎖骨の辺りかな」

 秋津が言う。櫛は秋津の髪に絡まりを見つけない。さらさらと慰めに通り抜けるだけだった。里波は櫛をポケットにしまう。薬が一瞬、指先にあたる。すぐそばにいる奥野は、窓際に立っていた。

「首元、触るね」

 秋津の鎖骨に里波は触れる。秋津の肩が少し、動く。

「里波の指は一段と冷たい」

「あ、ごめん」 

 指を離し、里波は手をこすってあたためる。

「少し驚いただけ」

 秋津が優しく言った。その様子を奥野は黙って見ているだけだった。里波はまた一声かけて、秋津の鎖骨に触れる。

「この辺りになるけど、いい?」

「いいよ」

 里波は奥野をふり返ると、手を出した。

「お願いします」

 奥野は里波にハサミを渡した。奥野の背後の森が、やけに里波の目を奪う。奥野は後ろを向く。窓の向こうは青空と木々だけだ。誰もいない。

「何か見えた?」

 奥野が尋ねる。里波は、首を横に振った。

「こんなに景色がよかったかなって、思っただけ」

 一瞬、里波は森に飲み込まれた。そして、秋津の髪を切る。里波はためらいがちに、髪にハサミをいれる。ぱさり、ぱさりと髪は落ちる。鏡を見ながら、里波は慎重に長さを確かめる。ハサミを持つ手、髪をとかす手が冷えてゆくたびに里波は、自分の指が自分から離れていくような恐怖がじわじわと爪まで広がった。秋津への同情。奥野の視線。

「やっほー、どんな感じ?」

 関本が現れた。秋津に近づくと、関本は感心した。

「なかなか上手じゃん。里波って、器用よね」

「あ、ありがとうございます」

「鏡、もうちょっと近い方がいいんじゃない?」

 関本は姿見の後ろにまわると、少し姿見を前に動かした。里波は自分と目が合う。あんなに何度も鏡を見ていたのに、自分の顔にまったく目がいかなかった。この「森」に馴染まない赤髪が、里波を呼んでいるようだった。

「どうした? フリーズして」

 姿見の後ろから、関本が心配する。窓からの日差しが、関本の肩にかかっていた。

「ううん。大丈夫」

 里波は続きをはじめた。髪を切る手にためらいはほとんどなくなっていた。仕上げに毛先をすいて、なんとなく整える。くしでとかすと、細かい毛が、パサパサと前掛けに落ちる。里波が終わったことを告げれば、秋津は自分で前掛けをはずした。

「ありがとう」

 秋津が里波の方に顔を向ける。里波は秋津の味方でいたいと思っていた。しかし、関本の敵になるのも違う。関本はいつだって、味方過ぎないアドバイスをくれた。

「鏡、片しとくね」

 関本が、姿見をゴロゴロと運ぶ。上辺だけ。飲み込まれないように。

「里波」

 秋津が呼ぶ。里波は前掛けを受け取る。そして、決めた。里波は秋津の耳元で囁く。

「ごめん、秋津さん。俺はまだ、秋津さんの味方にはなれない」

 何が正しいか分からないなら、味方は自分だけだ。里波は、目を伏せた。ハサミを返そうと奥野の方をふり返る。奥野が目を見開く。

「動くなよ」

 秋津が言った。関本は扉を開けた手をそのままに固まる。奥野は険しい顔でハサミの先を見る。里波は何も分からなかった。ただ、背後から秋津に拘束されて動けなかった。秋津はハサミを持った里波の手を握り、刃の先を自らのまぶたに向けた。それはささいな動きですぐに刺さる距離だった。

「俺に怪我を負わせた人間が松崎にどうされたか。あんたならよく、知っているはずだ」

 秋津の声には、里波がいつも感じていた穏やかさが消えていた。

「そんなできあいの脅しで、何がしたい?」

 奥野は冷静だった。秋津は里波の手を強く握る。里波の冷えた指は熱を持つ。

「この子を俺の、仮保護人にしろ」

 秋津は嫌いな緑と向き合っていながら、何も見えないままだった。

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