第92話 カリンの研究
掃除を終えてすっきりと片付いた工房で、カリンは興奮を抑えきれない様子で、一本の練習用の鉄剣をレオンに差し出した。
「レオンさん、実際に見せてもらえませんか? この剣に、ご自身の術式を組み込んでみてください」
「分かった」
レオンは受け取った鉄剣の柄を、白手袋を外した左手でしっかりと握り締める。
直後、彼の左手からどす黒い、けれど澄んだ奇妙な魔力が流れ込み、鉄剣の表面に見たこともない《虚無》の術式が走りかけた――。
パキィン、とガラスが割れるような乾いた音が響く。
次の瞬間、鉄剣の輪郭が歪み、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、細かな光の粒子となって空気中に霧散していった。柄を握っていたレオンの手には、何も残されていない。
「術式を組み込んだ瞬間に……!?」
カリンは霧散した空間を凝視し、ノートに猛烈な勢いでペンを走らせながら、ぶつぶつと呟き始めた。
「魔力を流したんじゃない。術式を組み込んだ時点で、鉄剣という物質を構成する『存在の術式』そのものを《虚無》が上書きした……。書き換えて白紙になり、その結果として、剣そのものの存在を白紙に戻した……? 破壊ではなく、概念の初期化……?」
その淡い水色の瞳は完全に技術者のそれに切り替わっており、周囲が見えなくなっている。レオンがその迫力に一歩引くと、カリンはすかさず、今度は机の上に置いてあった古い金属製の防具を両手で持ち上げた。
「レオンさん! 次はこれにお願いできますか!?」
完全に研究モードに入ったカリンの凄まじい熱量と圧に、さしものレオンも気圧されたように視線を泳がせる。
「あ、ああ……分かった」
「ご主人様、無理はなさらないでくださいね」
ルシフェリアが心配そうにレオンの背後に控え、クラリスとエレナは「カリンさん、目がマジになってるわね……」「職人というのは、皆さんあのような感じになりますのね……」と、苦笑しながらその様子を見守っていた。
カリンが別の魔道具のパーツを差し出そうと興奮していると、ルシフェリアがすっと二人の間に割って入った。
「カリン様、いい時間です。そろそろ夕飯にしましょう」
「え……? ええ!? もうこんな時間!?」
カリンは工房の窓の外がすっかり帳に包まれているのに気づき、大声をあげた。慌てて時計を確認し、顔を真っ赤にする。
「すいません! 私、一回集中しちゃうと本当に周りが見えなくなっちゃって……!」
「あはは、何度か声はかけたんだけどね。全く聞こえてないみたいだったから、アタシたちも途中から見守ることにしたのよ」
クラリスが苦笑しながら、山積みになった研究ノートをトントンと整える。
「ええ。外から拝見していても、よほど熱中されているのが分かりましたわ。おじい様が自慢されるのも納得の熱量です」
エレナも上品に微笑みながら、カリンの集中力に感心した様子で言った。
一方、レオンは何度も《虚無》の術式を精密に組み込み続けたせいで、精神的な疲労がどっと押し寄せていた。白手袋をはめ直し、椅子の背もたれに深く体重を預ける。
「……やっと終わったか。まともに魔術の戦いをするより疲れたぞ」
「うぅ……レオンさん、本当にすいません……」
自分のせいでレオンをクタクタにさせてしまったと気づき、カリンは水色の髪を揺らしながら、申し訳なさそうに眉を下げてしゅんとしてしまった。
工房の隣にあるカリンの居住スペースへと移動し、ルシフェリアが手際よく作った夕飯をみんなで囲んだ。
「美味しい……! 私、お料理は簡単なものしか作れないので、こんな本格的なお料理が作れるなんてすごいです……!」
カリンは温かいスープと料理を口に運び、淡い水色の瞳を輝かせて感動している。
「お気に召して光栄です、カリン様。ご主人様の健康を支えるのが私の役目ですから」
ルシフェリアが嬉しそうに一礼すると、すかさずクラリスがふんぞり返って自分のことのように胸を張った。
「そうでしょ! ルシフェリアのご飯は世界一なんだから!」
「……なんでお前が威張るんだよ」
レオンが呆れたように突っ込むと、エレナが楽しそうにクスッと笑う。そんな和やかな空気の中、レオンはスプーンを置き、本題を切り出した。
「それで、カリン。……さっきの実験で、何か分かったか?」
レオンの問いに、カリンは少し表情を引き締め、手元のノートを思い返すように視線を落とした。
「はい。レオンさんが《虚無》の術式を組み込むと、対象の物質を構成する存在の術式まで白紙化されて、物質そのものが消えてしまうようで……。つまり、術式を流しても『消えない器』……レオンさんの虚無の魔力に耐えられる特殊な素材か、あるいは流れた術式を物質から切り離して制御する独自の回路が必要になります。それをなんとかすれば……あるいは、本当にレオンさん専用の魔道具が作れるかもしれません」
「物質そのものが消えない器、か……」
レオンが自分の左手を見つめる。難題ではあるが、カリンの言葉には確かな可能性が含まれていた。
「カリンさんなら絶対に出来るわ! アタシも明日から全力で実験のサポートをするから!」
クラリスが身を乗り出して力強く励ますと、エレナも優しく頷いた。
「ええ、わたくしたちに出来ることであれば、何時でも、どんなことでも言ってくださいね。カスパールさんのためにも、みんなで力を合わせましょう」
「皆さん……ありがとうございます!」
カリンは胸に手を当て、嬉しそうに微笑んだ。レオンの左手の謎、そして新しい魔道具の完成に向けて、五人の絆はさらに深まっていく。
「あっ、そういえば……部屋、一つしかないんですけど」
カリンがハッと気づいたように申し訳なさそうに言った。小さな工房の居住スペースゆえ、寝室は実質一部屋しかない。
「俺はリビングのソファか床で寝る。気にするな」
レオンが平然と答えると、隣にいたルシフェリアが血相を変えて一歩前に出た。
「それはいけません、ご主人様。主をそのような場所に寝かせるなど、メイドのプライドが許しません。……今すぐに特製ベッドを作りましょうか?」
「やめろ。お前らは大人しく部屋を使え」
レオンがため息交じりに遮ると、カリンが慌てて手を振った。
「あ、あの! リビングの床でも、ちゃんとお布団は敷きますから……! それで勘弁してください、ルシフェリアさん」
「……カリン様がそう仰るなら、今回は引き下がります」
ルシフェリアは不満げに頬を膨らませつつも、ようやく引き下がった。
みんなが寝静まった深夜。
静まり返った工房の片隅で、微かなランプの光だけが灯っていた。カリンは机に向かい、ガリガリと凄まじい勢いで羊皮紙にペンを走らせている。
その背後に、足音もなく白い影が近づいた。
「……まだやってたのか」
低い声に、カリンはビクッと肩を揺らして振り返った。そこには、上着を脱いだシャツ姿のレオンが立っていた。
「あ、レオンさん……。起こしてしまいましたか? すいません、なるべく静かにしていたつもりだったんですけど……」
カリンはペンを置き、申し訳なさそうに淡い水色の瞳を向けた。
「いや、元々寝付きが良い方じゃないだけだ。それより、お前こそ少しは休め。昼間の実験でも魔力を使ったろ」
レオンは机の上に山積みになった、術式の数式がびっしりと書かれた羊皮紙に視線を落とした。カリンの目の下には、わずかにクマができている。
カリンは机の上に散らばる羊皮紙を愛おしそうに見つめ、それからレオンを振り返って、少し気恥ずかしそうに微笑んだ。
「私……本当に魔道具が好きなんです。私が作った魔道具で、誰かが笑顔になったり、誰かの役に立ったりすると、胸の奥がすごく温かくなって、嬉しくなるんです」
カリンは胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、透明感のある淡い水色の瞳でレオンを真っ直ぐに見つめた。
「だから……レオンさんの役に立ちたいんです。オーリエルの戦いが終わったあの時、次はレオンさんのサポートをするって約束しましたからね」
カリンのその真っ直ぐで一途な言葉に、レオンは一瞬だけ言葉を詰まらせた。自分のような、いつ壊れるかも分からない歪な存在のために、ここまで命を削るようにして熱くなってくれる少女がいる。その事実が、レオンの頑なな心を少しだけ揺るがしていた。
レオンはふっと息を漏らし、いつものぶっきらぼうな口調の中に、隠しきれない優しさを滲ませて言った。
「……お前の気持ちは分かった。それはそうだが、今は休め。お前が倒れて完成が遅れたら、それこそ元も子もないだろ」
それでもまだペンを握ろうとするカリンを見て、レオンは腕を組み、机の横の壁に背を預けた。
「お前がベッドに行って目を閉じるまで、俺がここで見張ってるぞ」
「ええっ!? レオンさんが見張りですか!?」
カリンは驚いて声をあげた。レオンの真面目な眼差しが本気だと悟ると、カリンはこれ以上無理はできないと悟り、困ったように眉を下げてクスッと笑った。
「ふふ、そんなことをされたら、明日の朝ルシフェリアさんに『ご主人様に夜更かしの見張りをさせるなんて』って、ものすごく怒られちゃいますね。……分かりました、大人しく寝ましょうか」
カリンは丁寧にペンを置き、インク瓶の蓋を閉めると、名残惜しそうにしながらも立ち上がった。
「おやすみなさい、レオンさん。明日はもっと、いいアイデアを出してみせますからね」
「ああ、期待してる。おやすみ」
カリンが寝室へと消えていくのを見届け、ランプの火を消したレオンは、暗くなった工房で静かに息を吐いた。彼女たちの想いに応えるためにも、やはり自分は強くならなければならないと、闇の中で改めて心に誓いながら。




