3話 曇った白衣の教授
K大学・情報工学棟──
研究棟の廊下は、白い壁と磨かれた床が反射し合い、歩くたびに靴音が静かに広がる。
窓から差し込む光は冷たく、季節感さえ吸い取られたような均質な明るさだった。
白い外壁の奥の、最も静かな一角に冴島研究室はあった。
出向してきたばかりの頃、柊真は大学らしい自由な空気を期待していた。企業で窒息しそうな経験をした直後だったため、なおさらその思いは強かった。
しかし、研究室の空気はどこか乾いていた。
冴島研究室のドアを開くと、白衣の背中がひとつ、モニターに向かって座っていた。
冴島教授。
振り返ったときの表情は、驚きでも歓迎でもない。
ただ、「人が来た」という事実を確認するだけの動きだった。
「……柊真君。来ていたのか」
声も淡々としていた。それでいて、言葉の端にどこか忙しさの膜が張っていた。
冴島研究室に配属された柊真は、医療機関と連携した研究プロジェクトを一つ任されていた。
『認知症患者の孤独感を軽減する対話AI』
企業時代、返答だけが正しくても、人は『理解された』とは感じない──
その現場の痛みを思い知らされた経験が、このテーマを選んだ理由だった。
週に数回、大学内の医療研究室に赴き、担当医師との打ち合わせを行っていた。
打ち合わせ室で、担当医師がカルテを閉じながら言った。
「先週のプロトタイプ、
患者さんの反応が良かったよ。
話しやすい、って。
あれは、小さなことのようで……実は大きい」
柊真はノートをめくりながら頷く。
「人は、『話を聞いてもらえた』と感じるだけで、行動が変わります。
認知症の進行に抗えるわけではありませんが……
孤独を薄める手助けにはなると思います」
「君のモデルは、『患者さんの気持ちの揺れ』をよく捉えてる。
機械的な応答じゃない。
……私は、医療の現場こそ、そういうAIが必要だと思うよ」
医師のその言葉は、企業で無視され続けた『優しさの価値』をようやく肯定してくれるものだった。
だが皮肉にも、大学の研究室内では、その反応はまったく得られなかった。
冴島は、このテーマに関心を示すことはほとんどなかった。
机の上には、研究テーマのフォルダとは別に、用途の分からないログファイルの束や、目的不明の暗号化データが並ぶ画面があった。
柊真は、自身が進めていた利用者の心的負担を軽減するAI応答モデルの試作結果を提出した。
実証データ、被験者のフィードバック、統計的有意差。どれも、企業時代には求められながら無視され続けた成果。
「……こちら、先週の実験結果です。
現場のヒアリングでも、反応の改善が──」
冴島は、ほんの一瞥だけ資料に落とし、ページをめくることもなく、そっと机に置いた。
「悪くはないね」
その言い方には、評価というより、印象を傷つけないための丁寧さのようなものがあった。
「ただ、今は研究室のリソースを他に割きたい。
このテーマは……しばらく後回しにしておこう」
静かに、何でもないことのように告げられた。
柊真は言葉を探した。
「ですが、現場感覚を踏まえた研究は……
むしろ大学側でも価値が──」
「もちろん。価値はある。
……だが、優先順位が違う」
教授の視線は、モニターの別のウィンドウへ移っていた。
その画面には、大学の研究とは異質なログが並んでいた。
数値は細かく、動作時間は異様に短い。
(……何をしている?)
そう思った瞬間、冴島は微笑のようなものを浮かべた。
「気にしなくていいよ。
外部委託された解析作業だ。業務には関係ない」
(業務に関係ないものが、なぜ研究室の最優先になっているんだ?)
しかし、その問いは喉の奥で止まった。教授の表情が、質問を拒む「静かな壁」だったからだ。
机に置いた自分の報告書が、照明の光で薄く白く反射していた。
ページの端はまったくめくられず、まるで「存在しなかった研究」のように静かだった。
「……期待してるよ、柊真君。
落ち着いたら、また見よう」
その言葉は、丁寧で、どこまでも柔らかく、しかし同時に完全な拒絶を含んでいた。
研究室を出ると、廊下のLEDの白い光が、淡い影を床へ落としていた。
その影の形は、柊真の足元で揺らぎながら、声もなく消えていった。




