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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第1章 白の隠れ家
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3話 曇った白衣の教授

K大学・情報工学棟──

研究棟の廊下は、白い壁と磨かれた床が反射し合い、歩くたびに靴音が静かに広がる。

窓から差し込む光は冷たく、季節感さえ吸い取られたような均質な明るさだった。


白い外壁の奥の、最も静かな一角に冴島さえじま研究室はあった。


出向してきたばかりの頃、柊真は大学らしい自由な空気を期待していた。企業で窒息しそうな経験をした直後だったため、なおさらその思いは強かった。


しかし、研究室の空気はどこか乾いていた。


冴島研究室のドアを開くと、白衣の背中がひとつ、モニターに向かって座っていた。


冴島教授。


振り返ったときの表情は、驚きでも歓迎でもない。

ただ、「人が来た」という事実を確認するだけの動きだった。


「……柊真君。来ていたのか」


声も淡々としていた。それでいて、言葉の端にどこか忙しさの膜が張っていた。


冴島研究室に配属された柊真は、医療機関と連携した研究プロジェクトを一つ任されていた。


『認知症患者の孤独感を軽減する対話AI』


企業時代、返答だけが正しくても、人は『理解された』とは感じない──

その現場の痛みを思い知らされた経験が、このテーマを選んだ理由だった。


週に数回、大学内の医療研究室に赴き、担当医師との打ち合わせを行っていた。


打ち合わせ室で、担当医師がカルテを閉じながら言った。


「先週のプロトタイプ、

 患者さんの反応が良かったよ。

 話しやすい、って。

 あれは、小さなことのようで……実は大きい」


柊真はノートをめくりながら頷く。


「人は、『話を聞いてもらえた』と感じるだけで、行動が変わります。

 認知症の進行に抗えるわけではありませんが……

 孤独を薄める手助けにはなると思います」


「君のモデルは、『患者さんの気持ちの揺れ』をよく捉えてる。

 機械的な応答じゃない。

 ……私は、医療の現場こそ、そういうAIが必要だと思うよ」


医師のその言葉は、企業で無視され続けた『優しさの価値』をようやく肯定してくれるものだった。


だが皮肉にも、大学の研究室内では、その反応はまったく得られなかった。


冴島は、このテーマに関心を示すことはほとんどなかった。


机の上には、研究テーマのフォルダとは別に、用途の分からないログファイルの束や、目的不明の暗号化データが並ぶ画面があった。


柊真は、自身が進めていた利用者の心的負担を軽減するAI応答モデルの試作結果を提出した。


実証データ、被験者のフィードバック、統計的有意差。どれも、企業時代には求められながら無視され続けた成果。


「……こちら、先週の実験結果です。

 現場のヒアリングでも、反応の改善が──」


冴島は、ほんの一瞥だけ資料に落とし、ページをめくることもなく、そっと机に置いた。


「悪くはないね」


その言い方には、評価というより、印象を傷つけないための丁寧さのようなものがあった。


「ただ、今は研究室のリソースを他に割きたい。

 このテーマは……しばらく後回しにしておこう」


静かに、何でもないことのように告げられた。


柊真は言葉を探した。


「ですが、現場感覚を踏まえた研究は……

 むしろ大学側でも価値が──」


「もちろん。価値はある。

 ……だが、優先順位が違う」


教授の視線は、モニターの別のウィンドウへ移っていた。

その画面には、大学の研究とは異質なログが並んでいた。

数値は細かく、動作時間は異様に短い。


(……何をしている?)


そう思った瞬間、冴島は微笑のようなものを浮かべた。


「気にしなくていいよ。

 外部委託された解析作業だ。業務には関係ない」


(業務に関係ないものが、なぜ研究室の最優先になっているんだ?)


しかし、その問いは喉の奥で止まった。教授の表情が、質問を拒む「静かな壁」だったからだ。


机に置いた自分の報告書が、照明の光で薄く白く反射していた。


ページの端はまったくめくられず、まるで「存在しなかった研究」のように静かだった。


「……期待してるよ、柊真君。

 落ち着いたら、また見よう」


その言葉は、丁寧で、どこまでも柔らかく、しかし同時に完全な拒絶を含んでいた。


研究室を出ると、廊下のLEDの白い光が、淡い影を床へ落としていた。


その影の形は、柊真の足元で揺らぎながら、声もなく消えていった。

挿絵(By みてみん)

◇冴島研究をあとにした「柊真」

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