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カケラのお話し☆夢まぼろしでも(side 康太)




俺には、過ぎた女だった。


愚かな俺は6年もの年月を共に過ごしながら、それに気付けなかった。


なぁ芙美、今ならば俺は、お前に対しどこまでも誠実に向かい合う。どこまでも真摯に、お前を愛する。


何を今更と、お前は笑うだろうか? 


……いいや芙美、お前は人を笑うような、そんな女じゃなかったな。




「ぱーぱぁ、いく?」


俺に向かい小さな両手を広げる娘は先日、二歳になった。


娘は割と言葉が早く、二語文で俺に保育園への出発を伝えた。


「おっ、それじゃ行くか」


小さな娘を片腕に抱き抱え、反対の手にオツムと着替えの入ったマザーズバッグを手に持った。


……娘の辞書に、「まま」の二文字はない。






まだ、あれから二年半しか経っていない。


けれどもう、随分と昔の事のようにも思う。




かつてプロジェクトリーダーを降ろされた時、俺は自分の運のなさを嘆いた。


佳奈も「また、チャンスはあるよ」と、甘やかに俺を慰めた。


運はまた巡って来る、そんな根拠のない過信。


実際、それまで積み上げて来た営業成績を考慮され、再びのチャンスは訪れた。


しかし俺には、そのチャンスを生かす能力は伴わなかった。


それなりに出来るという俺の自負は、まるで通用しなかった。


学生時代、主席の座は何度もとった。入社試験は一番の成績だった。


しかし卓上の勉強は、社会という土俵の上では吹けば飛ぶほどに脆く、あまりにも意味のない物だった。


それならば何故、俺はこれまで一定の評価を得て天狗でいられたのか。


……思い返せば要所要所の要にはいつも、芙美の助言があった。


他愛のない会話の中で、いつだって道しるべを示したのは芙美で、当たり前のように俺はそのレールにのっかった。


俺にだってそれと分からぬように、芙美はいつもさりげなく俺を立てた。


芙美のない俺に、当然チャンスは好機とはならず、落ちていた評価を更に落とす、惨憺たる結果になった。


社内での俺の評価は地を這った。


産後間もない佳奈はきっと、不安定な時期であったのだろう。


……そう思わなければ俺自身、とても平静を保つ事など出来ない。それくらい、佳奈という女は付き合う前と変わってしまった。


佳奈は俺を嘲笑し、罵倒して、そして泣いた。


佳奈は己の境遇を嘆いた。


泣いて俺の無能を勢め立てた。最後は甲斐性無しと罵り、離婚届を置いてアパートを一人、出て行った。


その頃にはもう、佳奈への一時の燃え上がる情愛は冷め、佳奈の出奔にも安堵だけがあった。


離婚後の財産分与を巡る壮絶なやり取りは、思い出したくもない。




なにより佳奈はおらずとも乳飲み子を抱えての生活は現実に目の前にある。俺は会社を辞めた。


だが、建て前の育児は言い訳。


俺は既に会社での成績も評価も失墜していた。佳奈の希望による大々的な披露宴から一年足らずの泥沼の離婚劇。佳奈との離婚によって信用も失い、針の筵のような状況になっていた。とても、会社に残れる状況ではなかった。


……いや、もしかすればこれも詭弁なのかもしれない。


陳腐なプライドを捨て去って頭を下げ、時短勤務で残らせてもらう選択肢は当然あったのだろう。


しかし俺は、退社を選んだ。


俺を引き止めようとする者は、誰一人いなかった。




「ぱぁぱ、ばいばい」


「バイバイ」


保育園に着くと娘はごねもせず、友だちの輪に入っていく。出来た娘に救われる部分が多い。


娘の背中を見送って、手元の腕時計を見れば、出勤の時刻が迫っていた。


「すいませんが今日は、夜まで延長保育でお願いします」


俺は今、予備校の講師をしている。


それとて育児を中心にセーブをしながら、日中のコマ割りでしか入っていない。だから収入はかつての三分の一にも満たない。


「あら、珍しいですね」


「ええ、夏期講習時期に入って人出が足りなくて、やらざるを得ないんです」


顔見知りの保育士は我が家の事情を良く知っている。


俺が娘との生活リズムを乱さぬよう、夜の授業を出来るだけ受けない事も知っていた。ここは二十四時間の保育を提供してくれるが、夜間保育は金額が跳ね上がる。


夜に授業を入れてしまえば、夜間保育の加算料金で逆に苦しい。


「なるほどそんな時期でしたか。娘さんの事はお任せください!」


ここの保育士は皆、優しくて親身だ。それもまた救いだった。


「お願いします」


保育士に頭を下げて、俺は職場に急いだ。




講義の前にも、事前準備に成績処理、やるべき事は山積みだった。


あぁ、今日は長丁場になるな。


見上げれば、厳しい日差しが容赦なく照り付けていた。


予備校までの一駅に、電車は使わない。一コマいくらの給与体系で講師をしている。一駅分とはいえその出費は馬鹿にならない。


……暮らしは、決して楽ではなかった。


会社勤めの頃とは違い、俺の腕時計に海外ブランドのロゴはない。靴は擦り切れているが、買い替えはまだ躊躇っている。


家事でカサカサに荒れた手に、チョークがしみる。


かつての俺が今の俺を見れば、きっと、みっともないと笑うだろう。


だけど俺はもう、間違わない。俺は胸を張って、かつての俺に対峙する。


今度こそ、見失わない。見失ってはいけない。


守るべきもの、大切なもの、一度手放せばそれらは決して戻っては来ない。


教えてくれたのは芙美で、今の俺が守るべきは、娘だ。


今度こそ俺は、芙美にも娘にも、恥ずかしくない俺であるんだ。




娘が生まれたばかりの頃、佳奈の態度に絶望し、どうしても芙美の現状を知りたくて同期だったさくらに連絡した事がある。


「サトちゃんは、プラチナの髪に赤紫の目のイケメン異人さん掴まえて有閑マダムしてるよ」


こんな風に返ってきた。


その時は呆気に取られ、嘘にしたってもっとマシな嘘をつけばいいのにと苦笑した。


けれど段々と時が経ち、あながち嘘でもないのかと考えるようになった。


俺の隣にある芙美を想像するよりも、何故かそんな夢まぼろしのような男と共にある芙美の方がしっくりと馴染んだのだ。


もしかすると、俺が芙美と過ごした時間こそが夢まぼろしであったのだろうか? 


けれど夢まぼろしだとしても、それもまた悪くはない。




「夢まぼろしでもいいよ……、芙美……君に逢いたい」




呟きは、初夏の日差しに切なく溶けた。



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