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小屋を出れば既に日は暮れて、数多の星々が空に浮かんでいた。


「くしゅっ!」


北の大地のキンと澄んだ空気は冬の足音を伝えていた。ぶるりとひとつ震えて外套の前を掻き合わせた。


「フミィ、宿までもう少しだけ辛抱してくれ」


ダルジャンは自分の首からタイを解くと、それを私の首回りに巻き付けた。


「首を温めるだけでも大分違う」


「ダルジャン、ありがとう。確かに全然ちがうね」


私が笑って答えれば、ダルジャンも僅かに表情を柔らかくした。


エルビオンに連れられて来た時はまるっきり余裕なんてなくて、周囲の景色も肌に感じる温度すら気に留める余裕がなかった。


改めて思う、私はこの五日で随分遠い所に来たのだと。


ダルジャンに肩を抱かれて小屋から数十メートルほど進めば、雑木林の手前に数頭の馬が繋がれていた。その中には懐かしいジニーの姿もあった。


ダルジャンが初対面の時と同じように軽々と私を抱き上げて馬上に載せ上げる。


「ジニー、帰りは重くなっちゃってごめんね」


ジニーはふふんっと鼻を鳴らして応えた。


「ははっ。ジニーは羽の様に軽いと言ってるさ」


真相は定かじゃないけど、何故か私にもそんな気がした。力持ちだな、ジニー。




私達はあの小屋で夜を明かすことをしなかった。それは随行員の規模によるものと、私への配慮の両方なのだと思う。


そうして一行が来たとのとは違う道を進んでいけば、暗がりにも小さい村が見えてきた。


「大きな村ではないが、一応宿屋がある。先に部屋を手配させてある」


ダルジャンに言われてちらりと随行の面々を見れば、小屋を出た時にいた人が一人いなくなっていた。いつの間にダルジャンはそんな手回しをしていたんだろう? ちっとも気付かなかった。


手配に向かってくれたその人の心遣いだろう。案内された客間に入れば、既に湯を張った盥が置かれていた。


「こりゃ、後でお礼を言わなきゃね」


ありがたく手拭いをお湯に浸しながら身を清めていく。湯浴みを済ませれば寝間着にガウンを羽織り、静かに部屋を後にした。


……おそらく、今夜はもう戻らない。


私はもう、逃げないと決めている。言い訳をして先延ばしにするのはもうやめたんだ。








そうしてダルジャンの部屋の前、何故かノックをするよりも先に、薄く扉が開いた。


「フミィ、……そんな恰好で男の部屋を訪ねるものじゃない。人に見られてはフミィの名誉にかかわる、中へ」


ダルジャンは気配に聡いから、きっと私が何度もノックを躊躇って行ったり来たりしていたのもバレているんだろう。


「う、うんっ」


ダルジャンは私を扉の中に招き入れると、僅かに逡巡して、しかしパタンと扉を閉め切った。


ダルジャンの態度は少しよそよそしい。その理由を推し量ることはできないけれど、私はただ、私の想いを伝えたい。


たとえダルジャンとの恋が実らなくとも、それでも一歩踏み出すと決めた……!


「掛けてくれ。それで、話とはなんだ?」


ダルジャンは一脚だけの椅子を私に譲ると、あえて私から距離を取るように部屋の奥、窓枠を背にして立った。その表情は月明りの影になっていても、少し険しい気がした。


ドクドクと心臓がうるさいくらいに鳴っている。落ち着けるように私はひとつ息を吐き出した。


「……ダルジャン、ずっと予感はあった。けど、今回の一件ではっきりと自覚したの」


ダルジャンは肝心な何が、の抜けた私の言葉の真意を推し量ろうとするみたいに、真っ直ぐに朱色の双眸を私に向ける。


「ダルジャン、私は妖精とかそんな綺麗な生き物じゃないよ。私は生身の女で、ダルジャンが思うほど清廉潔白でもないけど、そんなありのままの私と一歩踏み出した関係に進んでみませんか?」


バカッ!! なんの勧誘!? もっとちゃんと愛してるの言葉を告げなきゃ! 


私の脳内は相当に混乱していた。自分からの告白なんて人生で初めてで、しかも一生無いだろうと半ば放棄していたそれだ。


どんなに重要なクライアントとの接見でだってこんなに緊張した事なんて無い。


もう自分が何を言ったのかさえ定かじゃない混乱の極み。俯いて、まるで判決を待つみたいな気分でギュッと涙の浮かぶ目を瞑る。


「……フミィ、俺は男の風上にもおけない。変化を恐れて踏み出せずにいる内に他の男に横から掻っ攫われて、まるで道化だ!!」


ダルジャンの声は間近から返った。人の気配なんて私には分からないから驚いて顔を上げれば、鼻先が触れるほど近くにダルジャンの顔がある。


っっ! 驚きに、思わず後ろに一歩仰け反った。


「だが! 俺にとってのフミィはキラキラと眩しくて、触れれば天に帰ってしまうんじゃないかと、俺は半ば本気で思っていたんだ!!」


ダルジャンは怖いくらい真摯な表情をして、大きな手で私の頬を包み込む。


「フミィが真に人で、ただの女であると言うのなら、俺はもう二度とフミィを離さない。俺はフミィを全身全霊、我が命懸けて愛している! フミィは俺の生涯の伴侶だ!」


!!


ダルジャンのプラチナの睫毛が綺麗。その奥の朱色はもっと綺麗。


そのどっちもが近くに迫り焦点を結ばずに滲んだと思ったら、熱く柔らかな温度が吐息を奪う。隙間なく合わさったダルジャンの唇の温度は私のそれよりも少し高い。


角度を変えながら啄むように、知らしめるようにその温度がじんわりと私を侵食していく。もう囚われて、魅せられて、まともな思考はぐずぐずに溶けて消えた。










***










俺は念望が募り過ぎておかしくなってしまったんだろうか。



部屋の前で行ったり来たりを繰り返す人の気配。見なくとも知れる。馴染みのあるそれは、フミィの気配で間違いない。


一向に叩かれる気配のない扉、待ちきれずに俺から扉を開けて招き入れれば、フミィは驚いた様子で目を見開いていた。


湯浴みの後の艶めかしいフミィからわざと距離をとるように、俺は窓際に身を置いた。


袖の無い寝着に薄絹のガウンを羽織っただけの無防備なフミィは所在なさげに視線を彷徨わせると、小さく身を縮めて俯いた。サラリと流れる黒髪。その隙間から覗く項の白さに、俺は生唾を呑んだ。


同時に、エルビオンがあの真白い項や艶やかな髪に触れたのかと想像すれば、ふつふつと苦い思いが湧き上がる。


エルビオンという男には、今度見えれば息の根を止めてやりたい程の強い怒りがとぐろを巻く。しかし随行員に行方を追わせてはいるが、手練れの奴がそうそう尻尾を掴ませるとは思えなかった。


俺は内心の激情を抑えるように、ホゥっと小さく息を吐いた。


……フミィの言う、話したい事というのはなんだろう。


一度は踏み出す決心をした。けれどフミィの話したい事に思いを馳せれば、気持ちが萎んだ。


みすみす誘拐を許し、エルビオンを取り逃がす失態まで犯した俺。


これでは臆病風に吹かれるなという方が無理な話だ。


不甲斐ない俺は、同居解消の三下半を突き付けられてしまうのだろうか。いいや、そもそも俺達の関係は夫婦や恋人でないからその表現も違うのか。


しかしもう、どちらでもいい。フミィを失って、今まで通りに宰相の職務を全うするなど出来るわけがない。職を辞して何処かで隠遁生活を送るもまたいい。


眩しいフミィの幻影は、その姿を間近に臨まなくとも俺の脳裏に色鮮やかに息づく。シルフは爽やかな風に乗って俺に一時の夢を見させてくれたのだ。




「私は生身の女で、ダルジャンが思うほど清廉潔白でもないけど、そんなありのままの私と一歩踏み出した関係に進んでみませんか?」


現実逃避をし、フミィを前にしながら明後日の方向に意識を飛ばしていた。そんな俺の耳に届いた言葉の羅列。最初はまるっきり意味を結ばなかったそれらが、間を置けばするりと意味を成して俺の胸に収まった。けれどそれはあまりにも俺にとって都合が良いもの。


これは俺の執着が見せた都合の良い夢なのか? 或いは俺は何か聞き違えているのだろうか?


正面に対峙するフミィの艶めく黒い双眸が不安げに揺れる。薄く滲んだ涙を振り切るようにフミィがギュっと目を瞑ってしまえば、綺麗な瞳は瞼に隠れた。


小さな両手を膝上で握りしめ、身を小さく縮めるフミィ。


キーンと一気に頭が冷えた。


いや、冷えたと思った次の瞬間には全身からフミィへの熱く滾る想いが迸る。一気にフミィと距離を詰めた。


「フミィ、俺は男の風上にもおけない。変化を恐れて踏み出せずにいる内に他の男に横から掻っ攫われて、まるで道化だ!!」


恐れて、逃げて、ただ指を銜えて眺めていた。傷つくことを恐れ、端から諦めて、そのくせ羨ましげに目で追って情を募らせて。


「だが! 俺にとってのフミィはキラキラと眩しくて、触れれば天に帰ってしまうんじゃないかと、俺は半ば本気で思っていたんだ!!」


そうじゃない! そうじゃないんだ!!


今まではそれで済んでしまっただろう。だけど、フミィに関してだけはそれでは駄目なんだ。


「フミィが真に人で、ただの女であると言うのなら、俺はもう二度とフミィを離さない」


フミィが生身の女だなんて本当は分かっていたさ! けれど、偶像化して神格化させて距離を保つことで、俺自身のちっぽけなプライドをこそ守っていたんだ。


可笑しいだろう? 欲しいなら欲しいと、愛しているのだと声を上げなければ想いは伝わらない!


存在も不確かなシルフにもう夢は見ない。現実に愛し愛されて、その熱を分け合って溶け合う、フミィを我が妻に!!


「俺はフミィを全身全霊、我が命懸けて愛している!」


俺の突然の心の吐露にフミィの黒曜石の黒が落っこちそうなくらいに見開かれ、次いで透き通る涙を頬に伝わせてそれはそれは幸せそうに微笑む。


だから俺は吸い寄せられるように、焦がれて惹かれて、かつて掠めるように盗んだその唇を今度こそしっかりと味わった。


僅かにしょっぱい口付けは脳髄からとろとろに溶かされそうな程甘く俺を魅了した。俺の腕の中にすっぽりと収まったフミィは熱に浮かされたように、従順に俺の口付けに応える。


その表情は恍惚として艶めかしく俺を誘う。


「ダルジャン……私も、もうとっくに貴方に惹かれてた」


フミィの告白は天にも昇る甘美な誘い。俺と言う不浄の身が清廉に洗い流されて、まるで新しく生まれ変わるような新境地を見た。


フミィが俺の腕にある。この美しく眩しい女神は天が俺に与えたもうた祝福なのだろうか。


「フミィ! 俺は喜んで生涯フミィの愛を乞う僕になれる。フミィを何よりも誰よりも慈しんで愛する」


俺の告白に、フミィは艶めかしく微笑んだ。


「ダルジャン、それじゃあ私、貴方の溢れる愛に溺れてしまいそうだね」


悪戯な女神は細い腕で俺の首に縋りつく。


「つまらないって呆れないで。私をダルジャンの溢れる愛で包んで欲しい」


つまらない!?


フミィは何を言っているんだ? 触れる何処もかしこもが俺を魅了してやまない。薄い寝間着の下に隠れる柔肌を、この手で触れられる喜びはいかばかりか。フミィはまるで分かっていない。


「フミィ……」


至高の女神を抱き締めて、その唇に吸い寄せられるように、再びそっと口付けた。


俺のフミィ、俺だけのフミィ。そのままフミィを掬うように横抱きに抱き上げた。


そうして、そう広くない寝台にフミィを下ろす。俺の腕に大人しく身を任せたフミィは、ただ幸せそうに微笑んで俺を見上げる。異形の我が身に、これまでずっと劣等感を抱いて生きて来た。


しかしその俺をフミィは神秘的な美貌だと、女心をくすぐると、そう評したのだ。仮にこの容姿がフミィの心の琴線に触れたとすれば、俺はこの容姿を与えたもうた天に感謝しなければならない。


フミィ、かつてのフミィの言葉に俺がどれほど胸打たれたか、どれほど高揚したか、貴方はまるで分かっていないだろう。


シルフとは精霊や風の妖精を指し示す言葉。それを広義に解釈して物語では気まぐれで妖艶な美女にその比喩を用いるケースが多い。


弄ばれていいと思った。フミィのいいように俺を利用してくれて構わなかった。それで間近に在れるなら、それこそが俺の望みだった。


それが今、俺の望みはその形を変えた。俺はフミィと肩を並べて同じ未来を歩みたい。フミィと夫婦になり、同じ寝台に眠り、その温度を分け合って共に新たな朝を迎える。


それこそが俺の望み。


「我が妻の美しさに目が眩みそうだ」


俺の言葉に目を瞬かせ、フミィは照れたように顔を背ける。


「ダルジャンの馬鹿。私、そんなに綺麗じゃないよ」


フミィの声のトーンは低い。


何故だ? 何故フミィはそんな謙遜をしてみせるのだ?


「フミィ?」


俺はぷいっと横を向いてしまった愛しいフミィの頬をそっと手の甲で撫でる。しっとりと肌理の細かい肌は吸い付くようだ。今は伏し目がちに瞼で半分隠れたその瞳は至高の黒で、頬にサラリと流れ落ちた髪と同じく艶やかに輝く。少し意思の強そうなきりっとした二重はフミィの芯の強さを現すよう。桜色の唇は真ん中のぽてっとした厚みが柔らかそうで惹き付けられる。


「俺のフミィはこんなにも綺麗だ」


手の甲を返し、手の平で頬を包む。こつんと額と額をくっつけて、間近に見るフミィの瞳はやはり綺麗以外の何物でもない。


「んもう、ダルジャンってばっ!」


俺から視線を外したフミィは、何故か俺の胸にガバッと顔を突っ伏して抱き付いた。


なんという役得! これはもう、俺と褥を共にすることに異存はないとそういうこと。


俺もそのまま寝台に乗り上げて、くるんとフミィを下にして覆いかぶさる。


見下ろすフミィが少しだけ恥ずかしそうに微笑んで口角を上げる。吸い寄せられるようにその唇に顔を寄せた。


ふんわりと柔らかな温度に、触れた唇以上に、胸が熱く焼かれるようだった。


俺とフミィの、長い夜――。瞬く星々だけが、柔らかに見守っていた。




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