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風邪をひく

【ラッセル、風邪をひく】


 日曜日、我が家の前にオールディントン公爵家の車が停まった。ラッセルが突然遊びに来るのは珍しいことではないので、今日もそうだと思っていた。

 しかし予想に反して、その車にラッセルは乗っていなかった。


「あれ、ラッセルのお姉さん?」

「シャーロット、お休みの日に本当に申し訳ないのだけれど、ちょっとウチまで来てくれない? いま愚弟(ラッセル)が風邪引いて熱出して寝込んでるんだけど、ずーっとうわ言でシャーロットを呼んでるの」

「えっ……」


「目が覚める度に無理して出掛けようとするからホント手がかかって……。あなたが傍に居たら、あの馬鹿も大人しく寝ると思うから」

 ラッセルのお姉さんは酷く疲れた顔をしている。


「わ、分かりました。私でよければ」

「むしろシャーロットじゃないとダメよ。さあ、乗って」


 家族に外出を伝えて車に乗り込み、揺られることしばし。オールディントン公爵邸に到着する。

 ラッセルの部屋に通されると、焦点の合わない瞳でぼうっと宙を見つめるラッセルが、横になったまましゃがれた声で何事か叫んでいるところだった。


「シャーロット! シャーロット! ああ、今すぐ会いに行かなくては」

「アンタが行かなくても、連れてきたから」


 ラッセルのお姉さんの後ろからそうっと顔を出すと、ラッセルが見たこともないくらい大きく目を見開いた。

 口もポカンと開けたまま、言葉もなくただじっと見つめてくる。恥ずかしいような気まずいような。いたたまれず、すすす……とお姉さんの後ろに隠れる。


「シャーロット、かくれんぼしてないで。その顔をもっとよく見せてくれ……ああ、なんて可憐なんだ」


 私は自分の耳を疑った。

 可憐、と聞こえた気がする。少し掠れた声だったが、間違いなくラッセルから発せられた言葉だ。可憐? 私の顔が? いやそんなまさか、ラッセルには「見るに堪えない」と言われている顔なのに。

 混乱していると、ラッセルはますます私を混乱させることを言い始めた。


「こっちへ来い、俺の可愛い子猫……」


 猫? 猫なんてどこにいるんだろう?

 思わずキョロキョロしてしまったが、猫など本物はおろか、装飾品やインテリアにも連想させるような物は見当たらない。


「熱で幻覚が見えてるの……?」


 なんと恐ろしい風邪。ほとんど無意識に、自分で自分を抱きしめるように胸の前で腕を交差させていた。


「ああ、怯えないでくれシャーロット。もっと近くへ」


 ラッセルがもどかしそうに上体を起こし、こちらに向かって手招きする。

 戸惑う私に、ラッセルは繰り返し手招きする。

 放っておくと延々そうしていそうだったので、首を傾げながらも近づいていくと、ラッセルがうっとりと呟いた。


「シャーロット、マイスイートハート」


 ……は?


「お前のその姿、その声……俺の薬だ。恋の病に苦しむ哀れな男を癒してくれないか」


 ラッセルがいま深刻なのは恋の病より風邪の病だと思う。


 それともまさか、このラッセルは偽者――いや、ラッセルのお姉さんが私を騙す理由はない。だとすると、ラッセルが言っているのは、別のシャーロットさんのことではないだろうか。幻覚が見えるくらいなので、私を同名の別人と思い込んでいるのかも。

 脳内名簿で『シャーロット』を探してみるが、困ったことに知り合いが少ないので自分以外に出てこない。


 考えている間にも、ラッセルの深刻な幻覚症状は続いていた。


「ああ、俺のお姫様がいる。いや女神様か……」


 後ろでぶっと吹き出すのが聞こえた。振り向くと、ラッセルのお姉さんが肩を震わせている。笑っている? いや、実の弟がこんな深刻な病状で笑ってなどいられるはずがない。その証拠に、お姉さんの目元にはうっすら涙が見える。泣いているのだ。吹き出したように聞こえたのは、鼻をかむ音でも聞き間違えたのだ、きっと。


「えっと、今お医者様を」

「ああ、行かないでくれ! 離れないでくれシャーロット!」


 ベッドから身を乗り出し、こちらに手を伸ばすラッセル。ガクッとバランスを崩し落ちそうになったため、慌てて支える。

 私の腰にラッセルの腕が巻き付いている。だらしなく余分なお肉だらけのお腹にラッセルの顔がめり込み、恥ずかしいやら申し訳ないやらで心苦しく、物理的にも苦しい。お見舞いをしたらすぐに帰るつもりだったので、今日はコルセットをしていないのだ。


 ラッセルも苦しいのか、スーハーとはっきりとした呼吸音が聞こえ、ぐりぐりと顔で私の腹を抉ってくる。


「う……や、やわ、らっ、かい……」


 私の腹に抱きつきながら何かモゴモゴ言っているラッセルを、お姉さんにも手伝ってもらいながらベッドに戻そうとした。が、ラッセルの手は私にしがみついた状態のまま力が緩まない。


「ラッセル? ちゃんと寝ないと」

「嫌だ。シャーロット、このままどこにも行かないでくれ」


 体が弱っている時は、心も弱るのだろう。寝間着姿でみっともなく縋りついてくるラッセルが、ひとりぼっちの迷子の子供に見えて、私はそっと彼の頭を撫でた。


「大丈夫。どこにも行かない。だからちゃんと、横になって寝ましょう、ね?」


 優しく頭を撫でながら子供に言い聞かせるようにそう言うと、ラッセルはやっと私の腹を解放し、代わりに手を繋いでベッドに横になった。


「ずっと、ここにいてくれ」

「ラッセルが眠るまではいるよ」

「眠ったらシャーロットがいなくなるなら俺は眠らない」


 そう言いながらも、瞼は半分落ちている。指を絡めるように繋がれた手が熱く、明らかに熱が高いと分かって、とにかくラッセルを眠らせなければという使命感に駆られた。


「分かった。ちゃんといる。眠ってもここにいるから、安心して。おやすみなさい」

「……おやすみ。俺のシャーロット。愛しい人……」


 俺の、と言われてどきりとした。私に対して言っているのなら「俺の『召使の』シャーロット」という意味に決まっているのに。さらに「愛しい人」だなんて、やはり誰か幻の人物が見えていたのか。


 ようやくラッセルが両目を閉じた。程なくして、規則正しい寝息が聞こえてくる。熟睡しているのを確認し、繋いだままの手をほどこうとするも、ビックリするほど固くガッチリと繋がれている。


「よっぽどシャーロットがいなくなるのが嫌なのね。シャーロット、よかったら今夜は泊まったら?」


 ラッセルのお姉さんが苦笑しながら勧めてくれるが、そうもいかない。


「いえ、帰ります。夕飯当番だし、元々それまでに帰るつもりで来たので」


 眠ってもここにいると言ったのに、嘘になってしまうのは心苦しいが仕方ない。

 どちらにせよ、繋いだ手がこのままではお手洗いにすら行けないので、ほどいてしまわなければ。だが、ラッセルを起こさない程度に引っ張っても、指を一本ずつ剥がそうとしても駄目だった。


 押して駄目なら引く精神で、空いている方の手も使い両手でラッセルの手を包んでみた。すると、ふっとラッセルの手から力が抜けた。これもなんだか騙すみたいだな、と良心が痛みつつも手をはなす。

 ラッセルの手がしばらく何かを探すようにモゾモゾ動いていたけれど、シーツの端を握らせてみたら落ち着いたようだった。


「うん、これでよし」

「なんだかごめんなさいね、いろいろと……。でも、ありがとう」


 心底すまなそうにするお姉さんに、帰りも家まで送り届けてもらった。結局ラッセルは幻を見て勝手に寝たような気もするので、私が役に立ったかはよく分からなかった。




 ちなみに後日確認したところ、ラッセルはこの日の事を全く覚えていなかった。

 ラッセルがあの日幻で見ていた「愛しい人」こと、どこぞの「シャーロット」さんについては、依然謎に包まれたままである。






【シャーロット、風邪をひく】


 最初に異変に気付いたのは、母だった。

「あらシャーロット、なんだか顔が赤いわよ」


 言われてみれば、顔が熱いし頭もぼーっとする。

 食卓で隣に座っていた姉が、手を私の額に当てて「熱いわね」と呟いた。

 でももうすぐ学校に行く時間なのに。ラッセルが迎えに来るのに。

 そう思ったが、心配そうな家族の顔を見て、おとなしくベッドに戻ることにした。


 今日はラッセルのあの綺麗な顔が見られないのか。せめて夢で会えたらいいのにと思いながら、眠りについた。




「……シャーロット」


 それはごく小さな声で呟かれた自分の名前で、だから熟睡していれば聞こえるはずもなかったのだが、人の気配を感じて目が覚めてしまったようだ。


 ぼんやりとした視界の中に、眠る直前夢で会いたいと思った姿があった。


 いつも自信満々でえらそうで、キラキラのオーラを放っている彼が、今はどこか所在なげに立っている。眉間にしわを寄せて顔を覗き込んでくるのは、少しは心配してくれているからだと思っていいのだろうか。


「ラッセル……?」


 名前を呼ぶと、一瞬はっと目を見開いて、すぐに顔をそむけてしまった。耳が赤い。風邪がうつってしまったのだろうか。

 と、そこでようやく、彼が抱えているものに目が留まった。


「それは……?」


 鉢植えのチューリップ。可愛らしい花が一輪、凛と立っている。


「お見舞いに鉢植えはよくないって聞いた。でも、俺は切った花より元気な花を、シャーロットに、見せたかった、んだ」


 耳も頬も赤いまま、ラッセルはチューリップを飾ってくれた。


 ――うん、ラッセルありがとう。チューリップ、大好き。


 そう呟いたつもりの言葉はしかし、音になる時に名詞が入れ替わっていたが、私は気づいていなかった。


「うん、チューリップありがとう。ラッセルだいすき」


 ラッセルが言葉にならない声を漏らして走り去ったのを見送って、私は微睡みに身を委ねた。

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