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北条戦記  作者: ゆいぐ
幕間 石巻家貞集中講義
29/43

29 石巻右衛門家貞 講義『北条早雲伝 肆』

修正:

北条家の大義を『関東の秩序是正』と表現していましたが、『関東秩序の再構築』に変更しました。

治郎が井戸から戻ってくると早速家貞は講義を再開した。


「今川・伊勢に対する包囲網が完成したことによって外交的優位に立った斯波義寛(よしひろ)は遠江に出陣する。ここに信濃の府中小笠原貞朝勢も加わり、斯波勢は二俣城等を拠点に遠江中部を制圧していった(一五〇一・五、六月)。一方、今川・伊勢側は甲斐武田への備えとして信濃諏訪家と結んだ後、遠江へ出陣。こうして因縁の両勢は遠江南部の広範囲(堀江城・現浜松市西区~久野城・現袋井市)で激突した。結果、今川・伊勢方が勝利し斯波勢は遠江西部へと押し返される(同年・七~九月)」

「……」

「ちなみに上野の山内上杉顕定も斯波への援軍(駿河への出兵)を約定していたのだが、早雲公が扇谷上杉を伊勢側に再び引き込んだ為、顕定はその動きを警戒して結局出兵を見送っている(実際、その少し後に府河(ふかわ)(埼玉県川越市)で衝突が起きた)。

なお両陣営は以降も遠江・甲斐・武蔵等で断続的に戦い続ける。そして元亀四年(一五〇四)、遂に今川方が二俣城・黒山城等を攻略して念願の遠江制覇を成し遂げた」

「包囲網を敷かれている中で……。執念ですね」

「流石という他ない。

なおここで留意すべき点がある。この頃既に今川・伊勢は周防へ落ちた義稙公陣営に鞍替えするという方針を打ち出していた。

三河の幡豆(はず)郡(愛知県西尾市)には足利将軍家御一門の吉良氏がいるのだが、この吉良氏は義稙公陣営だ。遠江制圧戦の時期に当主義信は今川方に協調する姿勢を取っている」

「政元に裏切られて、仕方なくという感じですかね……」

「うむ。義稙公が政権を取り返せるかは別として、東海周辺から味方勢力を募るにはそれが早道だったのだろうな」

「ふむふむ」

「だがその一方で関東方面は情勢が暗転する。同年に今川・伊勢・扇谷連合軍が武蔵立河原(たちがわら)(東京都立川市)の合戦で山内上杉勢に大勝したのだが、翌年に顕定は実家の越後上杉家に援軍を要請。実弟の越後守護上杉房能(ふさよし)が関東へ侵攻してくる。この急場に今川・伊勢は対応し切れず、扇谷上杉勢は河越城で籠城戦を強いられた末、遂に降伏。当主朝良(ともよし)は出家させられてしまい古河公方足利政氏公に帰参、名代(みょうだい)朝興(ともおき)が就く。もっとも朝良の隠居には扇谷家臣が強く反発した為に顕定はそれ以上の措置を取らなかった。実権と守護の座は朝良が引き続き持つことで落ち着いた」

「伊勢側は苦しくなりましたね。

……でも顕定も政氏公も大らかというか。あんなに長い間戦った相手なのにあっさり許してしまうんですね……」

「うむ、初回の概略説明でも少し触れたがな。早雲公としても味方である扇谷家の転向はともかく、朝良の帰参・実権維持という道筋を付けた顕定の政治方針に対して大いに思う所があったようだ。加えてこの時、長尾景春―享徳の大乱終盤に上野で謀反を起こして以来、反山内を貫いて抗戦を続けてきた―もまた山内への帰参を認められている。

まあ一応顕定にも言い分は有るのだ。この終戦によって二十年弱続いた長享の乱は幕を閉じ、享徳の大乱以降五十年余り続いてきた古河公方・山内上杉・扇谷上杉という関東政権内部の対立が解消されることとなった。顕定としては叛乱勢力の当主二人に責任を取らせるより旧体制の体裁を復活させることを優先したというわけだな」

「なるほど……。 ……ん、でもそうなったらそうなったで、むしろ和を乱してるのは余所者の伊勢家のような気がしてきました……」

「まあ最後まで聞け。

復活したのは『体裁』であって中身は伴っていないのだ。そしてようやくここで先程のお主の問い―秩序の再構築(北条)と旧体制の復権(山内)の違い―に答えることになる」


家貞は和紙に簡単な図を書いた。


挿絵(By みてみん)


「そもそも何故戦が起きるか。それは初回でも触れた通り一国の組織内で(いびつ)に力が配分されているからだ。歪に配分された原因は幾度も乱を経て各領主による土地の一円的な実効支配が増えたことや、代を重ねた為に血による結束が薄れ、かつて当主と一体を成していた一門衆が独立志向を強めてしまったことによる。

この実効支配の主目的は領民から税を取ることだ。つまり銭・米等の現物、そして労働力・兵力としての動員だな。こうして徴収(徴発)される国力を背景に家臣達(当主と疎遠になった一門衆も含む)が権力を増大させ、その結果組織は不安定になった。つまりは甲の状態だ」

「……」

「故に、甲を再び安定させるには乙の状態になるよう配分の歪みを正してやる必要がある。

治郎兵衛、仮にお主が甲の国主ならどうやって乙へ体制を移行させる?」

「……む。

ええ……と……、んんと……。

……あ、その独立志向を強めている一門衆と改めて縁組をして、当主側に取り込む……とかでしょうか」

「うむ。間違ってはいないがそれだけでは不十分だ。他には」

「……。ん~……、……家臣の……国力を、奪う?」

「どうやってそれをやる」

「説得するか、駄目なら力ずくで奪う……ですか」


家貞は首を横に振った。


「初めに説明したろう。家臣は既に過大な国力を持っているのだ。おめおめと自分の立場を危うくする様な真似はしない。説得には面従腹背でやり過ごし、力ずくで来られたら力で対抗する。言わば煮ても焼いても食えない状態になってしまっているのだ」

「……ん~~……、ならば……、ん~……」


頭を捻ったがそれ以上は思い浮かばなかった。


「大雑把に言って、今話したのが古河公方家・関東管領家の現状だ」

「……!」

「では正解を言おう」

「お願いします」

「甲から乙の状態に移行するには、組織を一から組み直すしかない」

「え……。しかしそれは……つまり反抗的な家臣を力ずくで排除していくということでは……」

「そうだ。だから顕定や政氏公の様に従来の枠組みを残したまま、つまり朝良や景春の帰参を認めざるを得ない程度の国力ではいつまでたっても中身を伴った旧体制復権など叶わないということだ。火種を残したまま次の火を消しに行く、その繰り返しになる。長尾景春の次は太田道灌。その次は扇谷上杉定正・朝良。次は足利高基公という具合にな。その数十年間に民が肩代わりさせられる代償は計り知れないものになる」

「……」

「故に、だ。我等北条の様な新興勢力が比較的初期の段階から家中で目標とする国の形を共有し、歪無き力配分を維持したまま家を大きくしていく。そして同時に『家臣・国衆』が過大な国力を蓄え難い仕組みを支配体制に組み込んでいく。それこそが『秩序の再構築』をするということなのだ」

「……なるほど。……少し、分かってきた気がします」

「ただこの戦略はこの戦略で短所がある」

「む……」

「この体制に組み込まれることを拒む相手に対しては白黒付けるまで戦わなければいけなくなる。例えそれが(仮初(かりそめ)の)和睦を結ぶ余地の有る相手であってもだ。無論その戦の被害も大きくなる。そして領主を滅ぼすわけだから戦後の領民の心証も余計に悪化する」

「……うぬぬ。……難しいものですね」

「まあそれらの難題に対しても御本城様が色々と手を打ち続けて下さっているのだ。前途は多難だが確実に前へ進んでいると私は思っている。

……さて、長くなったが大体そんな所だな。詳しい体制と仕組みについては内政の話の時にやるとしよう。それらは民意を得る為の政策と共通する部分も少なくない」

「……はい。かしこまりました」

「ともあれ早雲公はこの頃から『秩序再構築』の具体的方策について家中の者達と熟議を重ねるようになっていった。伊勢家は大きな方針転換をしたと言えよう」


家の存続だけでなく、関東の秩序を再構築して平穏を取り戻す。目的が大きくなれば戦も大きくなっていくという事だろう。


民を巻き込む罪、人を殺める罪――治郎の心にいつかの氏綱が言葉が過ぎった。

そして恐らく、その罪に己の手を染める時はそう遠くない。

予感は確信へと変わりつつあった。


本分中の『幾度も乱を経て各領主による土地の一円的な実効支配が増えた』という部分は寺社・公家・奉公衆等の荘園の管理をしていた地侍等が、土地を横領した(実効支配した)のでその地侍達を味方に付けるべく、守護大名がその横領を黙認したという事を書いています。第12話でそんな感じに説明していた気がします。

また享徳の乱以前は飛び地が多かった様で、乱の最中に周囲の土地を占領(強入部)することで武士達は更に実権を増大させていったようです。


●史実年表

上述の認識も含めて間違っている可能性もあるので注意して下さい。

例によって上方の情勢は主にwikiと『右京大夫政元』様のyoutube動画解説を参考にさせて頂いています。


1501.3

今川・斯波双方が松尾小笠原定基に

自陣に付くよう勧誘。


1501.5-6

斯波は遠江中部以東奪還を目論み侵攻。

二俣城等を拠点に遠江中部を制圧。

また伊豆の土肥(とい)次郎にも参陣を要請。

(伊勢氏に降っていない勢力が伊豆にいた模様)


早雲は甲斐武田に圧力を掛けるべく

信濃諏訪家と連絡を取っている。


1501.6

義澄が細川京兆家の槙島城を訪れる。

これによって政元との対立は解消した模様。


義稙を匿う大内義興を討つよう綸旨が出る。

(綸旨:天皇の意を伝えるための文書の一形式)


1501.7-9

氏親・早雲が遠江へ出陣。

遠江南部の広範囲(堀江城・現浜松市西区~久野城・現袋井市)で

斯波勢と戦い勝利。

斯波勢を遠江西部へ押し返す。


ま府中小笠原貞朝は二俣に斯波側で参陣。

(府中小笠原と松尾小笠原は敵対関係)


他方、扇谷の動静を警戒してか

山内は結局駿河伊豆へ兵を出さなかった。


(黒)

ちなみにこの遠江合戦の折

今川が黒山城(浜松市西区館山寺町)まで攻略したという説があるが

その後、黒山城の堀江氏が今川方に従属しているという記録は無いので

採用できず。


1501.11

山内は扇谷との和睦を破棄し、河越城を攻撃。


(黒)

早雲が扇谷に働きかけ戦を誘発したか?


1502.2

京で義澄・政元が再び対立。

義澄が地方大名が横領した寺社本所領を取り上げたのに

寺社に返さず、直臣に与えた事が原因の一つ。


政元の財力・軍事力を背景に将軍就任し

政務(財政・訴訟)は伊勢氏が取り仕切る中

義澄としては自身の権力基盤を強化しよう

という意図があった模様。


政元は丹波へ下向した後、槇島城へ。

後、義澄が政元を説得し、政元復帰。


1502.7

義澄が参議・左近衛中将に任官されるも

政元は出費がかさむ等の理由で無益と断じている。


1502.8

義澄が政元に五か条の要求を出し洛北岩倉へ隠居。

政元・貞宗が訪ねるも面会を拒否。


義澄は政元に五箇条を、貞宗に七箇条を要求。


七箇条については残存記録無し。

少なくとも貞宗に対して含むところがあったらしい。


五箇条については

朝廷参内関連や

若狭武田家当主の元信を

幕府御伴衆に任命するか否かの件に関しての要求だった模様。


義澄からの要求を容れた政元は

実相院義忠(義稙の異母弟。出家済みで在京していた)を

処刑する。

政元は義澄と協調していく他なくなった。


1502.9

早雲、甲斐へ侵攻して信縄(のぶつな)配下の国衆と戦闘。


(黒)

これは諏訪家との連携及び

扇谷への側面支援か。


この頃大森式部大輔(式部少輔の子か。小田原城を追われた定頼?)

が甲斐に在住している。


細川政元は摂関家九条政基の子、澄之を養子として嫡子とする。


(ゆ)

澄之が義澄の母方の従兄弟である事を考えると

義澄側からの要求だったのか?


1503

義澄・政元間で二度対立があった模様。

詳細不明。

義澄が小姓を誅殺したり

伊勢貞忠が(もとどり)を切る等している。

貞忠は貞宗の孫。貞陸(さだみち)の子。


茨城県常総(じょうそう)市の水海道(みつかいどう)市史より:

古河公方家では

政氏が二十歳になる子高基に国務を執らせたが

重要なことは自らも携わったので命令も時折二途に出て

父子間の溝が深まっていくこととなる。


(ゆ)

高基(1485生。在位は1512- wiki)に

国務を執らせたとはあるが

後々の高基の動向を見ていくと(次話以降)

まだしばらくは

主権が政氏側にあった様に見受けられる。


1503.5

細川政元は一門の阿波守護家から澄元を養子とした。

澄之廃嫡までは至っていない模様。(政)

阿波細川家の方から澄之への不満が出たか?(ゆ)


1503.8

早雲は穴山信懸(のぶとお)に太平記の写本を貸し出す。

はじめに信懸が氏親に借りた物が誤字脱字が多かった為らしい。


1504.1-3

山内上杉顕定は河越城の向かい城となる上戸(うわど)に在陣。

扇谷上杉朝良(ともよし)と対峙中。


早雲は山内上杉領への侵攻を開始。

山内方の国衆長井氏領である武蔵多西郡南部の

椚田(くぬぎだ)城(現八王子市)を攻める。

他方、山内の指示で武蔵多西郡北部の国衆三田氏が

長井の支援に当たる。


(黒)

長井氏所領は扇谷領の相模津久井郡・東郡と隣接する地域なので

そこを通過する伊勢軍と扇谷との間に連携があった模様。


(ゆ)

地理的に扇谷支援の意味合いが強かったか。


1504.4

この時点までに

山内は家宰長尾顕忠に武蔵から甲斐を経由して

駿河御厨へ侵攻するよう指示している。


(黒)

数年前の斯波との盟約の実現と見れる。

進路からして甲斐武田も山内側であり続けている模様。


対して今川・伊勢は

駿東郡南部の葛山氏や伊豆の軍勢等が参戦。

垪和の支援か。(黒)

御厨(みくりや)(葛山氏領北側と接する地域)はこの時期、今川領。


(黒)

垪和氏(に対する推測):

垪和氏(美作国出身の一族で幕府奉公衆)は

足利政知下向に従い関東へ来て

明応年間に茶々丸が甲斐から御厨へ侵攻した後

(同時期に小田原城が攻められ伊勢盛興が負傷)

御厨を支配したが、茶々丸自害に伴い今川方に属した。

……という辺りの経歴なのではないだろうか。

(以降、御厨地域は今川支配の下、垪和氏が国衆として君臨)


1504.7-8

早雲は今川家老の

朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)福島(くしま)助春と共に

遠江河西地域(天竜川の西側)に出陣。

二俣城(笹山城のことかと思われる(大))や黒山城(堀江城)等を攻略。

(両城とも静岡県浜松市)

これにより遠江全域が今川領となる。


(松)

この時期、今川軍と争った浜松庄代官の大河内貞綱が

主の吉良義信によって更迭されている為

(後任は飯尾賢連)

この時点で既に吉良義信は今川に協調する路線をとっていた。

(氏親・義信は後年、反目する)

ちなみに吉良義信は義稙陣営側。


(黒)

この時期氏親が遠江守護職の補任を義澄に求めたのではないか。

対義稙戦略の為に

斯波家との関係を重視した義澄・政元によって、拒まれたのでは。


(ゆ)

あからさまに反斯波・政元の姿勢をとっていたということなら

遠江守護職補任を要請しても通る筈がないと氏親・早雲は考えそう。

与えることはそのまま斯波への敵対行動となってしまうので。


(wiki)

ちなみに1502-1507では斯波・今川双方に遠江守護補任は行われていない。


1504.8

山内は河越城を攻めるも落ちず

江戸城を攻めるべく白子(埼玉県和光市)へ転進。

扇谷からの要請で氏親・早雲が援軍に出る。

(氏親は唯一の関東出兵。御厨侵攻の報復でもあったか)


1504.9

進軍途中、氏親は鎌倉鶴岡八幡宮に禁制を出す。


(ゆ)

相変わらず氏親が早雲の主

ということなのだと思われる。


山内と扇谷・今川・伊勢は

月末に多摩川の立河原(たちがわら)(現東京都立川市)で対陣、激突。

ちなみに古河公方足利政氏も山内側として出陣していたが間に合わず。

甲斐に落ちていた大森氏にも山内から参陣命令?が来ている。


合戦は扇谷・今川・伊勢側の勝利。

山内側の死傷者多数。

山内上杉顕定は本拠の武蔵鉢形(はちがた)城へ退却。


これにより椚田城の長井氏は扇谷側へ降った模様。


他方、京では

政元配下の摂津守護代薬師寺元一と

南山城守護代の赤沢朝経が

阿波守護細川成之(澄元の祖父)と裏で繋がり

政元に謀反を起こすも鎮圧される。

これにより澄元の地位は低下。


この謀反には義稙も関わっていたとも。

この後も義稙の動向として

長年対立していた河内の両畠山氏の和解に

関与したのではという説あり。


1504.10

阿波討伐を企図した政元に対し

成之重臣の三好之長が先制して政元側拠点の淡路を攻撃。


1504.11

山内から要請を受けた越後守護上杉房能(ふさよし)(顕定実弟)が

関東へ進軍。扇谷領の武蔵・相模を席巻。

椚田城は落城し長井氏滅亡。

相模の真田城(現平塚市)も落城。

扇谷側は相模東郡の大庭(おおば)城を拠点に

三浦同寸の支援を得つつ対抗するが

上戸陣にいる山内上杉軍にも苦しめられ劣勢に。


1505

中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘(寿桂尼(じゅけいに))が氏親に嫁ぐ。


1505.3

扇谷側は江戸方面へ転進した越後勢に対応している間に

本拠河越城が山内方によって落城してしまう。

扇谷上杉当主朝良は政氏に降るという形で

降伏、出家(法名は建芳)。

家督は甥の朝興(ともおき)(17歳)が継承。

しかし、扇谷上杉家の重臣はこの処置に反抗の姿勢を見せたため

顕定もこれ以上の強要は出来ず

以後も朝良が扇谷上杉家当主の職務を継続。

朝良の隠居自体が朝興側による後世の創作とする説も有り。


ともかく山内上杉家臣長尾景春謀反を機に

その鎮圧で権勢拡大した太田道灌(扇谷上杉家宰)の謀殺(1487)より

二十年続いてきた長享の乱が終結。

長尾景春も顕定に降伏。後、許されて帰参。


(黒)

また時期は不明だが伊勢氏も山内と和睦した模様。


以降、早雲はしばらく

三河方面の戦略に関わっていくこととなる。

遠江河西地域の浜名郡神戸(かんべ)郷(現浜松市)の

代官を務めたりもしている。


他方、上方では

政元が阿波の細川成之討伐に自ら出陣。

だが政元側の敗北で終わり、和睦する。

これにより政元の後継者として澄元が優位となる。

この際、政元は成之側に付いていた赤沢朝経も赦免。

その軍事力を再び得る。


1505.5

穴山信懸(姉だか妹が信昌正室)、太平記の写本を完成させる。


1505.8

赤沢朝経が南山城守護代に復帰。

北守護代として勢力拡大中だった香西元長と

対立を深める。

ちなみに香西元長は澄之派。


1505.9

武田信昌(子の信縄・信恵は内乱中)、死去。


上方では

赤沢朝経と対立する香西元長が

山城の郷村に焼き討ちを行い

激怒した政元の軍から追討され

嵐山の嵯峨城へ後退。

その後経緯は不明だが許されたようで

政元の丹後征伐(若狭武田元信の支援)に

参加している。


1505.11

政元配下の赤沢軍が河内高屋城を制圧。

河内を平定。

畠山勢は敗走。


1506.4

摂津守護の細川澄元が阿波勢を率いて入京。

これにより澄之は廃嫡同然となる。


澄元に従っていた家宰の三好之長が

政元に軍事面で重用され始める。

この三好氏と

それまで政元政権を支えていた内衆(細川家重臣で畿内有力国人衆)との対立が深化。


三好之長:

三好長慶の曾祖父。

三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した武将。

京で悪評が多い。強大な軍事力を有していた。


1506.3

早雲は松尾小笠原定基へ太刀と弦百挺を贈る。


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