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北条戦記  作者: ゆいぐ
幕間 石巻家貞集中講義
28/43

28 石巻右衛門家貞 講義『北条早雲伝 参』

治郎が小田原城二ノ丸の長屋に帰ってきたその夜、木戸を叩く者がいた。

治郎は(むしろ)()け、眠い目を擦りつつ戸を開ける。そこには何と家貞が立っていた。


「右衛門様? こんな夜更けにどうされました……?」

「どうもこうもない。御本城様より直に伺ったぞ」

「う……」

「馬鹿者めが。孫九郎と共に大立ち回りをやったそうではないか。後先を考えず突っ走りおって」

「面目次第もございません」

「お主には御家の歴史以前に人として教え込まねばならん事があったのかと呆れるばかりだ」

「……うう。……申し訳ありません」


夜中に長屋の入口で叱るのも叱られるのも、何とも情けない絵である。家貞もそこらで勘弁し、二人は中へ入った。


「お主が松田城にいた所為で私が考えていた講義計画が台無しだ。

明後日には小沢城へ出立。そして私は今回留守居だから同道出来ん。故に今夜一晩と明日を使って講義の続きを行う」

「……!? し、しかしこの暗がりでは字も書けませんが」

「案ずるな。荏胡麻油を持ってきてやった」

「本気ですか……」

「愚問だ」


こうして容赦無く第四回講義は始まった。


「前回は足利義澄公・細川政元陣営に与した早雲公が伊豆を制圧したところまで話したな。

今回はその頃の上方がどういう状況にあったかという話から始めよう」

「は、はい」

「義澄公と政元は明応の政変(一四九三)で政権を取った。だがその一方で北陸に落ち延びた義稙公の勢力は京から送られた鎮圧軍を越中で破るなど依然健在だった。加えて脅威だったのが紀伊で挙兵した畠山尚順(ひさのぶ)―義稙側。政変で敗死した畠山政長の子。河内・大和へと支配を広げつつあった―の存在だ。展開次第では尚順勢と北陸の親義稙勢によって京が挟み撃ちされる事態になり兼ねん。年若い義澄公に代わって政権の舵取りをしていた政元は早急に対応策を打たねばならなかった。

勿論、早雲公が仕える駿河の今川家がその一勢力として当てにされていたことは前回話した通りだ。東海地方の西側では親義稙勢力―遠江・尾張では守護大名であり管領三家の筆頭斯波氏が、三河でも複数の国人衆(第31話の後書き参照)―がのさばっていたからそれへの対抗は勿論のこと、あわよくば東海地方を押さえることが出来たら一軍を組織させて上方の戦に合力させる、そんな(はら)さえ政元にはあったともいうが……」

「上洛軍ですか」

「だが事はそう上手く運ばなかった。明応七年(一四九八年)八月末、東海地方は未曾有の大地震に襲われる。沿岸部を中心に甚大な被害を受けた今川家はその復旧作業に追われ、上方に関わるどころの話ではなくなってしまった。

一方、翌年(一四九九)一月になると河内の畠山尚順が大和を制圧し、義澄派の畠山義豊を討ち取った。その後、尚順と連携して北陸の義稙公も遂に上洛軍を起こす(七月。義稙本人が近江まで出てくるのは十一月か)。更にはこれらに呼応して比叡山・高野山・根来寺の僧兵も立ち上がった(七月)」

「義澄公と政元は絶対絶命ですね」

「難局であったことは間違いない。だが結果としてこの上洛作戦も失敗に終わった。

義稙公が越中に下向した際に恭順を誓っていた北陸の守護大名達が出兵を渋った為、兵力としては神保氏を中心に五、六百程度しか集まらなかったのだ。故に義稙公は近江坂本まで兵を進めたところで六角氏に急襲されて敗北。西国の雄大内氏を頼り落ちていった」

「……何というか可哀想な負け方ですね」

「まあこの年は折悪しく大飢饉があり兵糧が集まらなかったことや義稙公に恭順する一方で政元と関係を築いている勢力がいたことも関係している。とりわけ越後守護の上杉房能(ふさよし)は政元が以前外交活動で東国へ下向した折に面識を持っており、政元からの要請を容れて義稙公への従軍を断った」

「義澄公側へ寝返ったということですか」

「取り合えず双方に良い顔をしておこうという程度だったのかもしれん。まあ現実的な判断とも言える」

「ははあ」

「他方、災害の復旧にとりあえずの目途が付いてきた今川家は斯波領の遠江攻略準備に再び取り掛かる」

「む…。茶々丸討伐を終えても斯波氏との対立は続いたんですね」

「うむ。確かに和議を結ぶには良い時機だった。色々な意味でな」

「?」

「だが今川家にとって斯波は積年の宿敵だ。六年掛かりで兵と戦費を()ぎ込んでようやく遠江国府(こくふ)見付(みつけ)手前まで支配を進めた今こそが遠江を取り返す好機であると考えていたのだ。都落ちした義稙公に与する逆賊を討つという大義も揃っていたしな。

そして同じ頃伊豆の伊勢(ぜい)も相模西郡(山内方の国衆大森氏支配)への侵攻機会を窺っていた。既に山内上杉は扇谷上杉と和睦を結んでいた(一四九九・十月)が、大森・伊勢間では敵対関係が維持されて小競り合いが続いていたのだ」

「それもやはり山内上杉と大森が義稙公側だったからですか」


治郎にとって小田原城攻めは自身の祖父が命を落とした戦いだった。


「戦略の根本はそうだ。

まあ当時の関東では山内上杉の当主顕定(あきさだ)が旧体制(古河公方・関東管領)の権威を回復させようと足利政氏公の次男顕実(あきざね)を養子として後継に据える(一四九四)等強固に結び付いていたし、対する扇谷は今話した有り様だ。ともすれば余所者の伊勢が孤立して袋叩きにされ兼ねない状況だったわけで、活路を相模西郡の奪取に求めていたということだな」

「う~ん……」

「いかがした」

「思ったのですが、顕定の『旧体制の秩序回復』と北条家が目指す『関東の秩序再構築』はどう違うのでしょうか」

「今にも寝落ちしそうな顔をしてる割に、一応頭は働いているようだな」

「何とか……」

「この時点ではまだ伊勢家中にはその様な目的意識は無い。幕府の意向に従いつつ自家の生存戦略を選んでいたというところだ。『関東の秩序再構築』の中身を具体的に考えていくようになるのはもう少し後だ。故に話の都合上、もう少し史実の説明を続ける」

「かしこまりました」

「うむ。でだ。小田原に攻め入る機会は意外な形で巡ってきた。明応九年(一五〇〇)六月、今度は相模湾沖を中心に大地震が起きたのだ。城主の大森定頼以下が領内の混乱で統制を乱す中、伊勢側は相模西郡の国人松田氏や定頼と系統を別にする大森氏―定頼の又従兄弟である大森氏康の子である海実(かいじつ)等―の支援を得つつ小田原城を制圧した」

「ははあ。これだけ大きな城だからどれ程激しい戦が行われたのかと思っていましたが」

「まあ当時は今我々がいる本丸や二ノ丸は勿論、御前曲輪より西側の曲輪も無い。増築されたのはこの時から十年程後だからな。一つの城に本丸と本曲輪(ほんぐるわ)があるのは妙だと思ったろう」

「はい。……なるほど。そういう経緯でしたか。

しかし、あれですね。何と言うか、やり口が汚いような……」

「うむ。ただでさえ『余所者』なのだから悪名を広めるような戦術はどうかと私も思う。だがまあ一概にそうとも言い切れないのだ。犠牲は少ない方が……おほん、お主の祖父は気の毒であったが」

「いえ、お気遣いには」

「ん。

そういう利点もあるのだ。早雲公は名より実を取ったのだろう」

「なるほど……」

「この小田原城制圧に伴い定頼は北東の河村城へ退き、翌年更に攻勢に出た伊勢側によって相模西郡から追われた。

ただ重要なのはここから先だ。恐らくこの相模西郡の奪取が山内上杉顕定と古河公方足利政氏公の危機感を一気に高めたのだろう。両者は越後上杉房能からの働き掛けもあったことで義澄公陣営へと鞍替えし、更には斯波義寛(よしひろ)と盟約を結んだ」

「ん? 斯波氏は義稙公側では……」

「義寛も詳細な時期は不明だがこの前後にやはり義澄公側に降っていたのだ。ここに細川政元の策動で信濃の両小笠原氏にも要請がなされ、更に茶々丸派だった甲斐武田も加わり、山内上杉・武田・斯波・小笠原という一大派閥が組まれる。今川・伊勢への包囲網を形成する派閥がな」

「ん? ん……!? 政元は義澄公側だから伊勢・今川の味方の筈……では」

「うむ、その筈だった。何が契機だったのか、想像の域を出ないが考えられる事は幾つかある。まずは明応七年の地震だ。畿内南部で攻勢を強める順尚を前に政元はあらゆる手を検討し、その一つとして復興に追われる今川に見切りを付け斯波との関係修復を始めたのだろう。一説には義澄公が御所から避難する際に斯波屋敷(京)へ移った(一四九九・九月)ともいうからかなり早い段階から政元と義寛の接近があったのかもしれん」

「う~ん……、茶々丸征伐で今川・伊勢があれだけ戦ったのに……」

「その今川・伊勢の侵攻が拡大し過ぎたことも原因の一つだろうな。政元は能動的に小笠原に連絡を取ったわけで、完全な敵対行為だ。上方で最大の危機を乗り切った(義稙の上洛失敗)こともあり、次いで目障りとなった今川・伊勢を御し切れなくなる前に叩こう、と決断したのだろう」

「ああ……『和議を結ぶのに良い時機だった』とはそういうことですか」

「うむ。まあ戦は次の戦を呼ぶし、家中や国衆の統制を現場でしている氏親公や早雲公の立場では判断に悩む所もあったろうが、結果として政元の本意を読み損たということだな」

「う~ん……」

「そして最後の一つは関東勢力の管理だな。本来義澄公の実弟潤童子を堀越公方に据えてそれに活かそうと図ったが茶々丸に殺害され、その茶々丸討伐を巡って上方・関東の関係は悪化してしまっていた。政元にとって今川・伊勢を敵役に仕立てて古河公方以下関東勢を自陣営に引っ張り込むことはその点でも有益だったのだろう」

「……結局、政元に都合良く使い捨てられた感じがしますね」

「これを境に氏親公と早雲公は幕府に一層距離を置きつつ、その周辺情勢に注意して方針を定めていくことになる。

さて、ここで一旦休憩としよう」

「えぇ……。……もう……眠い」

「弱音を吐くな。元はと言えばお主の暴走でこうなっているのであろう。外の井戸で顔を洗って目を覚ましてこい」

「はいぃ……」


★注意事項

北条氏贔屓の作品です。

とりわけ今回は下に記載した史実年表以外は

北条氏に都合が良くなるように創作設定しています。

(政元が今川の上洛軍編成さえも検討していた

越後上杉が政元と初期に約定したのは義稙への従軍拒否のみだった

扇谷・山内の1499.10和睦締結に上方の情勢は無関係だった

山内・古河の義澄側への鞍替え時期が小田原落城より後だった等)


以下は創作に際して解説・主張を参考にさせて頂いている方々です。

いつも大変有難く利用させて頂いております。


(黒):黒田基樹氏の主張・推測

(家):家永遵嗣氏

(家シ):家永遵嗣氏シンポジウム

(大):大石泰史氏

(鈴):鈴木将典氏

(平):平野明夫氏

(松):松島周一氏

(新):新行紀一氏

(鳥):鳥居和郎氏

(森):森幸夫氏

(下):下山治久氏

(木):木下聡氏

(家シ)に関しては(ゆ)は参加しておらず

参加者の方の感想ブログの情報に過ぎません。


(郷):ブログサイト『郷土士のブログ』様

(P):ブログサイト『Papathana'sブログ』様

(ド):ブログサイト『ドンちゃんの他事総論』様

(今):ブログサイト『今川雑記』様

(風):ブログサイト『風なうらみそ~小田原北条見聞録』様

(右):youtube動画『右京大夫政元』様

(日):youtube動画『日本史オンライン講座』様


(ゆ):ゆいぐ


上方(かみがた)の情勢に関して

主にwikiと『右京大夫政元』様のyoutube動画解説を

参考にさせて頂いています。



●史実年表

※所々誤りがあるかもなので注意して下さい。


1496-1498

今川氏親は連年に渡り遠江へ出兵。

遠江東側を領国化する。


1497.9

初代古河公方・足利成氏が死去。

臨終の際に嫡子足利政氏に

「再び鎌倉に環住し、関八州を取り戻す事が孝行、何にも勝る弔いになる」

と言い残している。(鎌倉公方九代記)


上方では

義稙派の畠山尚順(はたけやまひさのぶ)が紀伊で挙兵。

尚順は明応の政変で自害した畠山政長の子。


1497.11

今川軍が遠江の原氏居城、殿谷(とんのや)城(静岡県掛川市細谷)と

倉真城(掛川市倉真)を攻める。


1497.12

早雲、伊豆の大見三人衆に対し

大見城での長年の籠城に対し感状を下す。


1498.1

武田信虎誕生。

伊豆の柿木城?で籠城していた狩野道一が

修善寺か付近の寺で自害。


1498.8

足利茶々丸が自害。伊勢氏が伊豆平定。


ちなみに

茶々丸自害が深根城の関戸氏滅亡と共にあった

とする説もあり。((黒)否定)


1498.8.25

遠州灘沖を震源地とする推定M8.2~8.4の地震発生。

少なくとも伊勢から鎌倉の範囲で多数の死人が出ている。

甲斐ではこの地震の為に武田信縄(のぶつな)と信昌が和睦。


1498.9

越中にいた義稙が供13人だけを連れて越前に移座。

頼っていた越中守護代の神保長誠(じんぼながのぶ)と対立した説

政元との和睦を見込んだ上洛説

義澄追討の為の西進説等、諸説有り。


1499.1

河内・大和奪回の戦を進めていた

義稙派の畠山尚順(はたけやまひさのぶ)が河内十七箇所の戦いで

畠山義豊を敗死させる。


1499.5

飛鳥井雅康が富士遊覧の為に京を発つ。


1499.7

飛鳥井雅康は早雲から

(早雲は在陣中の氏親に代わり駿府に滞在していたと見なされる(黒))

『国もっての(ほか)忩劇(そうげき)のこと(はべ)り』

(『富士歴覧記』より)

そう劇:忙しいこと。混乱すること。またいざこざ等による世の騒ぎ。

駿河国?が大混乱にある為下向を延期した方が良い

的な書状を貰い、小夜中山(大井川の手前か)で引き返す。

書状を送ったのは5月だとも。(黒)


(黒):

文を戦争状態を説明していると解釈。

(鈴):

1498.8.25の明応地震の対応を説明していると解釈。

今川家においてこの時期から1500年中まで

目立った軍事行動が見られないのは

この地震対応の復興の為だと主張。

(ゆ):

拙作は(鈴)寄りで創作。



他方、北陸では越前に移っていた

越中公方の足利義稙が

神保長誠・畠山尚順らと図り

上洛の為の軍事行動に出る。

これに延暦寺・高野山・根来寺の僧兵も呼応。

朝倉は兵を出さなかった模様。

朝倉氏は義澄と仲が悪いが対斯波の為に親政元だった時期がある。


義稙と尚順に挟撃される形勢を危惧した政元は

外交方針の転換を図る。

即ち、越後上杉氏と組み、今川・伊勢と手を切ることにした。

(この判断の詳細時期は不明)

越後上杉氏には越中・越前を背後から

脅かしてもらう(威嚇?)ことを期待した模様。


越後守護の上杉房能は山内上杉顕定の実弟。

恐らくその繋がりであったと思う(ゆ)が

越後上杉に加ええて山内上杉も

更には山内が支える古河足利政氏も

義稙派から義澄派(政元派)へ

鞍替えした(詳細時期不明)。


山内上杉が助けていた茶々丸が既に討滅されており

その点でも山内が義澄に敵対する理由が消滅していたことも

鞍替えを後押しした。


これにより

山内は将軍擁立という点に関しては

扇谷・伊勢と争う必要性は消滅した。


斯波氏も義稙側から義澄・政元側へと鞍替えを果たす。

(wikiによれば1500年頃から)


政元の一連の工作活動の詳細時期は不明。


他方、政元は義稙側に付いた比叡山延暦寺の焼き討ちを

赤沢朝経、波々伯部宗量に命じる。

結果、根本中堂等、山上の主要伽藍は全焼した。


1499.8

(今)

足利義澄期において

日野高光・冷泉為広・正親町三条実望の公家3人は

相伴衆として足利義澄より厚遇されていた。

特に今川氏親の義兄正親町三条実望は

足利義澄の側近随一と言われている。

義澄は鹿苑院主景徐周隣に

「弱年(19歳)につき現在伊勢貞宗に政を委ねている」と語っている。


(ゆ)

少なくとも貞宗が影響を及ぼしている間は

義澄は親今川・伊勢だったのではと思う。

何より茶々丸を討った両名の功績は大きかった筈。


ちなみに時期は不明だが

貞陸の子、貞忠が義澄の近習となっている。


1499.9

畠山尚順が摂津へ出陣。

同時に大和国人衆を山城南部へ攻めさせる。


尚順の軍勢には畿内南部の反政元派国人が加勢したが

これを赤沢朝経軍が撃破。

尚順が逃げ込んだ大和北部も制圧し

細川政元の版図は大幅に拡大した。


(ド)

足利義澄は斯波氏の屋敷(武衛陣)へ避難。

この時期、既に斯波が義澄側に付いていたと記載。

(興味深い情報だが出典不明)(ゆ)


(ゆ)

この時期の斯波・義澄の結び付きが事実ならば

斯波の兵が一定数在京しており

義稙との決戦を間近にした政元はそれを当てにして

斯波と結ぶ方向へ動いていったのだろうか。

そうだとするなら

随分と大事な時期に斯波は義稙を捨てたものである。



1499.10

この時点までに河越城の向かい城となる上戸陣(川越市)に

山内上杉顕定・足利政氏が在陣していた。


扇谷・山内が二度目の和睦を締結。政氏が古河に帰座。

『戦国時代年表後北条氏編 下山氏著書より』


(木)

和睦の原因は

前年の茶々丸死亡の他に

顕定が政氏の長期在陣を懸念した為

等も考えられる


1499.11

義稙は近江坂本へ進撃するが

近江坂本で六角高頼に、河内で細川政元に敗れ

周防の大内義興の元へ落ちる。

(周防に入ったのは1500.1.30)

(大内義興は応仁の乱時に西軍で義視(義稙の父)を担いでいた)


(ゆ)

この敗戦を受けて(情報が伝わるのはもう少し後か)

各地の義稙派大名は戦略の再検討をしたと思われる。


1500

★斯波義寛は方針を変換。義稙から義澄へと乗り換える。

(wiki)


1500.3

斯波義元が遠江に在陣。

松尾小笠原定基に援軍を求める。

(『磐田市史史料編』より。

(ゆ)

翌年同日にも斯波氏が出陣、松尾小笠原定基に援軍を求めたと記載あり

何だか誤記を疑わせる様な重複ではある……)


1500.6

相模湾沖を震源とする地震発生。


小田原城奪取はこれに乗じた可能性が最も高い。(黒)


(郷)

『会津坂下ばんげ町史』『常陸太田大森家文書』等を根拠に

この年の小田原城奪取を主張。

ただ後者には早雲・顕定の両者に乗っ取られとある。

(ゆ)

それまでの史実との整合性で考えると

顕定が大森を見限り、伊勢による制圧を黙認したのかとも

考えたがいまいち納得できず、採用せず。



小田原城奪取を境に箱根権現別当が

大森氏当主の式部少輔の叔父である長実から

海実(かつての小田原城主成頼の系統。成頼は氏頼の甥(黒))に代わる。


(黒)

伊勢が大森(山内側)と停戦に至ったかは不明。

頭目同士が停戦しても配下勢力は争い続ける

という状況はそれなりに在り得る。

故に伊勢・大森の間では抗争が続いていた可能性も有る。



1500.9

後土御門天皇崩御。内裏に43日間放置。


1501

(今)

1501から1503頃、義澄が20歳近くになり、貞宗の後見が不要となっていく。

中央での伊勢宗家の影響力が弱まり

親義稙派だった斯波氏が義澄に接近。

今川氏親は包囲網を打破する為

扇谷上杉朝良や

伊勢氏被官で正親町三条氏末裔の戸田宗光(西三河田原の国衆)と手を結んでいく。


1501.1

将軍家奉公衆の海老名高定への領地配分を巡り

政元・義澄間で揉めており

政元は義澄への年賀拝礼を拒み隠居。


1501.3

斯波から山内へ共闘要請の使者が送られる。

駿河・伊豆への出兵を要請するが顕定は即答せず。

使者は三月近く山内家に滞在した末

6月に承諾の返答を貰う。


(ゆ)

山内に駿河・伊豆を攻めて欲しいという要請には

山内・扇谷の和睦状態が前提としてある。

山内は伊勢・今川を攻めることで

扇谷との折角の小康状態が再び悪化することを憂慮していたのでは。

(また伊豆・駿河は武蔵・上野から見れば遠地でもある)


1501.6

政元はこの斯波氏の動きを支援。

重臣の赤沢朝経(小笠原氏庶流)に松尾小笠原定基へ

斯波義寛に援軍を出すよう書状を送らせている。


(ゆ)

義澄の心情としてどこまで政元に同調していたかは不明。

翌年には義澄から

政元へ五箇条の要求が

貞宗へ七箇条の要求(残念ながらこちらは内容不明)がなされている。


斯波義寛・山内上杉顕定が同盟締結。

更に甲斐武田・信濃小笠原が加わり、今川(及び伊勢)打倒を目論む。

ちなみに甲斐武田は信濃諏訪家と抗争中。

甲斐国衆の穴山信懸は今川派。


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