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北条戦記  作者: ゆいぐ
侍見習い編 後編
27/43

27 侍見習い 終

何やら全身の力が抜けていく思いの治郎兵衛を氏綱は気遣う。


「何じゃ、そんなに驚かせたか」

「そ、それは流石に……驚くなという方が無理に御座りまする」


思い返してみると初めて会った時からただならぬ雰囲気を感じていた。北条家当主の姿・様子にどこか惹かれるものがあって北条家への仕官を決めたとは実に自然な流れである。

加えて現当主ならば恐れ多くも先代当主が定めた家訓に堂々とケチを付けるわけだし、以天から早雲の名の由来を聞いた時、その面影に早川を眺める氏綱が妙に重なって見えたのも……確かに道理だった。


「はは。

普段周りに気を遣ってばかりの倅が無理を通して取り立てた男と聞いては父親としても気になってな。そなたの人となりを良く知るには北条家当主の肩書が邪魔だった故、伏せたという次第じゃ」

「左様でしたか……」

「ふふ。思っていたより早く正体を明かすことになってしまったがな」

「……この様な騒動を引き起こし、申し訳ありませんでした」

「うむ。まあ、此度は金子が折れてくれて訴えるまではしないという事で話が付いた。お主が話していた卯吉の行方についても最早追う意味は無いとして捜索を打ち切らせた」

「あ……、有り難うございますッ……!」

「ただ治郎兵衛。分かっていると思うがここまで騒ぎを大きくした発端はお主にもある。北条の(まつり)、三家の事は別として、やはりお主自身にもけじめを付けてもらわねばならん」

「……はっ。如何様(いかよう)にも御処分下さい」


散々悩み尽くし、氏康と交わした小沢へ向かう約束を反故にすることは自業自得だという心境に最早なっていた。まして卯吉の自由が保証されるならば、それ以上を望むことは出来ない。


「……ふむ。その様子では大分参ったようだな。まあ無理も無いか」

「土牢に入れられ、少し冷静になって今回の事を振り返ることができました」

「そうか……。

ならば沙汰を申し渡す前に少し聞かせてもらおうか。お主が此度の件をどの様に省みたかを」

「……かしこまりました」


治郎兵衛は土牢の中で考えた事をたどたどしく話した。


――やがて聞き終えた氏綱は頷く。


「ふむ。やはり友を思うあまり周りが見えなくなっていたようだな」

「はい。山田村へ向かう日の朝、御本城様に大きな顔をして己の思いを主張しましたが、実際には卯吉に寄り過ぎた行動を取ってしまいました。今も金子様による卯吉の処遇には納得していませんが、自分が卯吉を逃がした事もまた不当な暴力であったと思っております」

「うむ。左様か……。

まあ櫓でも話した通り、己を律するとは難しいものだ。何よりも、律した気になっている己を疑う事が最も難しい」

「……」

「友への思いや信念に限った話ではない。着物や銭、家、それから地位・官位……、身の回りのあらゆるものに通じる話だが、(みな)己の心を支え、強くしてくれる。しかしだからといって迂闊に寄り過ぎると、それらは欺きもするのだ。目を曇らせる。見るべきものを見えなくさせる。

政・戦もそうだ。間違った景色に囚われて一人進んだところで、民も将士も付いては来ぬ。遂には身を滅ぼすだけだ」

「……」

「まあ、様々な人・状況に思いを馳せるというのは確かに『歯切れが悪い』のだがな。

そうだとしても、この乱世にあって力を持つ武士とは、俯瞰的に物事を見、判断を下せる者でなくてはいかんと……儂はそう思う」

「……此度の事で身に染みまして御座います」

「うむ。そうだな。

なれば話はここまでとして、今回の件について沙汰を申し伝えよう」

「……はっ」


治郎兵衛は居住まいを正して目を伏せる。氏綱は力強い声で言い渡した。


「治郎兵衛。本日をもって侍見習いの身分を終えるものとし、正式に下士(かし)として新九郎氏康直臣に取り立てる。石巻右衛門家貞を烏帽子親とし、元服すべし」

「……!?」

「調べさせたところ、そちの家は佐倉(さくら)というそうだな」

「……は……はい」

「うむ。では今日よりこの様に名乗るがよい」


氏綱は懐から四つ折りの料紙を取り出し、開いて治郎兵衛に渡す。

そこには堂々たる達筆で『佐倉治郎清里(さくらじろうきよさと)』と記されていた。


「これ、は……」

「うむ。先程説いたことは、無論疎かにしてはならぬ大事だ。されどな……」


それは氏綱が今回の件に関わろうと決めた理由だった。


「されど今回お主が取った行動の全てが間違っていたとも儂は思わん。

弱き者の為に真っすぐに動ける清き心もまた尊い。百姓として暮らしを営んできたからこそ見える物もあろう。武家の中にもそういう視点を持つ者がいた方が良い。故に『清』と村里の『里』をとって清里とした」


まるで予想だにしない展開に治郎兵衛はすぐに言葉が出てこない。

しばらくして何とか礼を述べることができた。


「ま、誠に、有り難き幸せにございます。何と申して良いやら、突然のことで……し、信じられませぬ」

「ふっ。よくよく考えた名ゆえ大事にいたせ。

ただし繰り返すが、その清里の二字は今回の教訓そのものであることを忘れるでないぞ。清里に囚われて見失いがちな物があること、くれぐれも忘れるな。

元服して北条家の武士となることも同じ戒めである。安易に先走って力を用いるな。何よりもお主を支え、必要としてくれる者達がいるこを忘れぬようにな」

「……か、かしこまりましたッ。 胸にしかと、刻みまする……!」


ただただ有り難く、治郎兵衛は料紙を掲げ、額を床に擦り付けんばかりに辞儀をした。


「ああ、ちなみに『治郎』の名は孫九郎がそう呼ぶ故、採用した。『治郎兵衛』も悪くないが『治郎』もすっきりしてて良かろう」

「は、はい。

孫九郎様、有り難うございますっ」

「ああ。本当に良かったな、治郎。

小沢へも行けることになったし、若をしっかり助けてやれ」


綱成も我が事の様に喜んでくれている。

治郎兵衛は感謝しつつも、遠慮がちに氏綱に尋ねた。


「しかし、宜しいのでしょうか。これだけの事をしておきながら何の咎めも受けず、それどころか名前まで頂いた上に予定通りに小沢へ向かうなど……」

「まあここへ来る前に右衛門に話したところ、甘過ぎると言われてしまったがな」

「……」

「故に後はお主次第だ。今回の件に対する儂の判断が浅慮であったという事にならぬよう、北条家家臣としてしっかりと精進致せ」


これ以上はもう行いによって示す他は無い。治郎兵衛はあれこれ考えるのを()め、再び深く頭を下げた。


「かしこまりましたッッ!!」


治郎兵衛改め、佐倉治郎清里が北条家武士となった瞬間だった。


 * * *


松田城からの帰り道、行列の中程で氏綱と馬を並べる多目玄蕃助元興(ためげんばのすけもとおき)がしみじみ言った。


「左馬助にも困ったものですな」

「あ奴はこちらが本気にならぬ一線を見極めた上で火遊びに興じておるのう」

「偶には牛刀をちらつかせるのも手やもしれませぬが」

「ふふ。あれで中々松田家内の評判も良いからな。下手に応じて事を荒立てもつまらぬ……。

少しは儂の言葉が届いていると良いのだが」


治郎兵衛への説教はその場にいた全員へ向けたものだった。


「あ奴のあの冷たい目には『景色』そのものが映っておらぬのやもしれませんな……」

「……。

まあ典薬(てんやく)にも動いてもらい、こちらの勝ちをはっきりと示すこともできた。しばらくは大人しくしてくれるであろう」


今回、盛秀が綱成達――氏綱との交渉の駒として使うことで商業的利権を得ようとした――を拉致する理由に自家の足軽を使おうと思い付いたのは綱成達と会ったその時である。つまり松田の足軽は綱成達と喧嘩などしていない。故に盛秀は口裏を合わせる為に金子を訪ねて企みを共有した。


そして今日の昼前、おおよその経緯について風魔から報告を受けた氏綱は動いた。

まず金子を訪ね、事情(喧嘩の場に松田の足軽も居たというでっちあげ)を聞く。その上で、盛直を伴い松田城へ行く予定だと金子に伝えた。松田の足軽は怪我をしていないので薬師が診れば即ばれる。今なら咎めぬから松田の企みを全て話せと迫ると、金子はあっさり白状した。またその悪事と今回の綱成達の暴挙をお互い様として福島家を訴えぬよう約束させた。ただしその一方で金子への気遣いも疎かにせず、福島家から幾らかの詫び金を支払わせると保証している。

そして更に氏綱は卯吉の捜索を打ち切らせた。小田原に居られなくなった以上本人への罰は済んだし、あとは村から追放したことにすれば連雀衆・河越の寺院への見せしめとしても問題は無いだろうと説いたのである。既に卯吉逃亡から三日経ち、無制限に捜索を続けるわけにもいかない金子は渋々応じた。

ちなみにこれらの話が上手く運んだのは、死人が出ていなかったお陰もある。


ともかく、仕上げに氏綱は盛直と金子を伴い松田城を訪れ、盛秀にも矛を収めさせた。極めて迅速かつ的確な対応がなされたと言える。


「ところで此度の治郎の処遇ですが」

「ん?」

「やはり、些か出過ぎた様に思いますが……」

「……む」

「諍いを鎮めるだけならば、治郎の元服、改名の儀は無用であったかと」


元興が案じているのは氏康のことだった。治郎は氏康直属の家来であるから、父である氏綱が一連の手続きを勝手に進めたとあっては、気分を害することが容易に想像出来た。

故に、氏綱も苦し紛れに言い訳をする。


「ああ、いや……。儂も北条家当主として、次の世代の者達に希望を託したいと思ったのじゃ。その気持ちはお主も少しは分かろう?」

「手を貸すべき時以外はじっと見守るのが北条家当主としてあるべき姿かと」


正論を言われ、今度は余裕ぶってみせた。


「……ふふ。難しいとこよな」

「笑ってごまかしたとて何の解決にもなりませぬ。先程の説教が台無しです」

「……」

「若に詫びの文をしたためねばなりますまい」

「あれは根が頑固だからなあ。文と簡単に言うが、下手なものを書けば却ってへそを曲げるぞ」

「そうは言っても他にやり様が無いでしょう」

「ならば、此度の件は全てそちの独断で行ったということで――」

「有りのままを正直に書いて若に知らせますが、それで宜しければ」

「……」


氏綱は諦めたようだった。


「某も共に頭を捻ります故、若が納得するような文面を考えましょう」

「……そう致そう」

「治郎達が小沢へ着くより早く届けさせるべきでしょうな」

「今宵は事が片付いた区切りに月見酒でもと思っていたにのう」


ぼやく主君に老臣は静かに笑って首を振った。


牛刀割鶏(ぎゅうとうかっけい)

些細な事に大袈裟な手段を取ることの例え。論語より。


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