3499話
「グルルルルゥ!」
レイを背中に乗せて、頭部にはイエロを乗せて、セトは嬉しそうに中庭を駆け回る。
そこまで広くない――貴族街にある他の屋敷と比べて――マリーナの家の中庭だったが、それでもこうしてセトが走り回るには十分だった。
……もっとも、本当の意味でセトが全速力で走った場合は絶対的に狭いのだが。
しかし、セトは中庭で走っているが、別に全速力で走っている訳ではない。
あくまでもレイとイエロを乗せて、遊びで走っているのだ。
エレーナとマリーナとの話を終えて中庭にやって来たレイに対し、セトは心配そうな様子が隠せなかった。
それはレイがこの家に戻るまで……そして自分に会いに中庭に来るまで、相応に時間が掛かったからだろう。
だからこそ、セトは心配だったのだ。
いつもならそこまで心配はしないのだが、今日はレイと一緒にいる時間が長かったこともあり、余計にレイを心配したのだろう。
レイはそんなセトに大丈夫だったと説明し、それでようやく落ち着いたセトがレイやイエロと共に中庭で遊び……今はこうしてレイとイエロを背中に乗せて走っていた。
ただ走っているだけで、そこまで面白いのか。
そう思わないこともなかったが、セトが楽しそうにしているのは事実。
なら、それでもいいかとレイは思う。
その後も二十分程中庭を走り回っていたセトだったが、既に外は暗い。
そもそも、レイがギルドから出た時は既に薄暗くなってきており、エレーナ達と話をしていた時間もあって、中庭に出た時点で既に真っ暗だった。
それでも精霊魔法やマジックアイテムによって中庭は相応に明るい。
そんな中を走り回っていたセトだったが、走っているセトは勿論、レイもイエロも普通に夜目は利く。
それこそ真っ暗な中でも問題なく走り続けることが出来るだろう。
ただ、だからといって走り続けてもいい訳ではなく……
「セト、その辺にしておきなさい。そろそろ夕食の時間よ!」
この家において、食事の準備を司っているマリーナの言葉にセトは足を止める。
ここでマリーナの言葉を無視して走り続ければ、最悪の場合食事抜きになるかもしれないと分かっているのだろう。
あるいはそこまでいかなくても、料理の質が落ちる可能性もあった。
だからこそ、セトは素直にマリーナの言葉に従ったのだ。
イエロもまた、マリーナの言葉に素直に従う。
もっとも、イエロはセトのように走っていた訳ではない。
あくまでも走っているセトの頭の上にいただけなので、セト程には興奮していなかった。
もしイエロが興奮していれば、セトよりも精神的に幼い分だけ、騒ぎ続けていただろう。
……食事が抜きにされる可能性があっても、それでも今の興奮に身を任せる辺り、イエロの幼さを表している。
もっとも、エンシェントドラゴンともなれば数千年、数万年……あるいはそれ以上の時間を生きてもおかしくはない。
そんな長い生を考えれば、竜言語魔法によって生み出されたとはいえ、この世に生を受けてから数年のイエロは、赤子以外のなにものでもないのだが。
もっとも、そうなるといつイエロが本当の意味で大人になるのかは分からなかったが。
レイ達がいつも中庭で食事をしている場所までやってくると、そこでは既に夕食の準備が出来ていた。
メインとなるのは、オーク肉の煮物だ。
オーク肉以外にも多数の野菜が入っており、見るからにボリュームのある料理。
他にも副菜としてそれなりに多くの料理がそこにはあった。
また、パンも焼きたてなのが明らかで、そちらからも食欲を刺激する香りが周囲に漂っている。
特別豪華な食事という訳ではないが、それでも見るからに美味そうな料理の数々。
漂ってくる香りに刺激され、腹の音が鳴るのを感じながらレイは椅子に座る。
「レイ、今日はこっちに泊まるのよね?」
そう聞いてきたのは、ヴィヘラ。
レイがマリーナの家に帰ってきた時はまだヴィヘラの姿はなかったものの、どうやらレイがセトやイエロと中庭で遊んでいる間に帰ってきたらしい。
そんなヴィヘラと一緒に出掛けていたのだろうビューネの姿もある。
「ああ。明日はギガントタートルの解体の件でちょっと忙しくなりそうだし」
「そう言えば、私は見に行けなかったけど、今日の件はかなり広まってるわよ?」
「だろうな。解体の依頼を受けた訳でもない見物客達が結構来ていたし」
レイもギガントタートルの件については出来るだけ話を広めて、それによって困窮してる者達が依頼を受けられるようにしたかったので、今日の件の話が広まるのは大歓迎だった。
もっとも、話が広がりすぎて事情もよく知らない変な相手が妙な行動をすると困るのだが。
「本当に私も見に行けばよかったわね」
「ん」
残念そうな様子のヴィヘラに、隣のビューネが小さく呟く。
今日、ヴィヘラがいなかったのはビューネと一緒にとある冒険者に会いに行っていたのが大きい。
その冒険者はビューネのような盗賊ではなく、戦士だ。
ただ、ビューネが使うような短剣や長針の類を使って速度と手数を重視した戦闘を行うタイプの戦士だったので、ビューネは自分と似た戦闘スタイル……それも腕が上の相手から色々と教えて貰いに行っていた。
冬というのは、冒険者は仕事をしないで休むのが普通だ。
しかし、本当に何もしないで休んでいれば、当然ながら身体が鈍る。
それを嫌い、依頼は受けないものの、相応の身体を鍛える者というのは決して珍しくはなかった。
ヴィヘラとビューネが会いに行ったのも、そういう相手だ。
もっとも、ビューネより技量が上の相手だけに、その冒険者にしてみれば本来ならビューネに戦い方を教えるのはあまりメリットがない。
だからこそ、ヴィヘラはそのメリットとして自分がその男の模擬戦の相手になるという提案を示したのだ。
ヴィヘラにしてみれば、ビューネの為にもなるし、相応に強い相手との模擬戦というのもあり、一挙両得、あるいは一石二鳥といったところか。
もっとも、その男はそれなりには強くてもヴィヘラの相手になる程には強くなく、そういう意味では男にとっては良い訓練になったものの、ヴィヘラにとってはあまり楽しめない模擬戦だった。
ビューネにとっては、多少なりとも戦闘力は上昇したので、全くの無意味という訳でもなかったのだが。
ただし、ビューネにしてみれば自分にヴィヘラが付き合ってくれた為に、レイがギガントタートルを解体するのを見に行けなかったというのは残念に思ったのだろう。
普段はビューネの言いたいことを完全に理解出来るのはヴィヘラだけなのだが、今日は他の者達もビューネが何を言いたいのか、はっきりと分かった。
ビューネがヴィヘラにごめんと、そう謝っているのだろうと。
「気にしなくてもいいわよ。……ただ、ビューネもいつまでもギルムにいる訳にもいかないでしょう? もう何年かしたら、自分のいるべき場所に戻る必要が出てくるわ」
その言葉に、ビューネが悲しげな表情を浮かべる。
普段は無表情のビューネだけに、その表情の変化によって周囲に与える驚きは大きい。
今でこそレイ達と一緒に行動しているビューネだが、それはあくまでも一時的なことだ。
……それでも既に結構長い間一緒にいるが。
ビューネがレイ達と一緒にいるのは、ある種の修行でもある。
また、ビューネの故郷の迷宮都市において、色々と問題があるのだが、それをビューネの後ろ盾となっている人物がどうにかするまで一時的に預かっているという一面もある。
ヴィヘラと違い、いつまでもギルムにいる訳ではない。
具体的にいつになるのかというのはまだ決まっていないものの、それでも将来的に自分の故郷に帰ることになるのは間違いなかった。
「ん、こほん。取りあえずビューネは今を精一杯楽しめばいいと思うぞ」
取りなすように、レイがそう言う。
そんなレイの気遣いに感謝したのか、それとも本当に心の底から嬉しく思ったのかは分からないが、ビューネの表情はいつも通りに……いや、いつもと比べると微笑を浮かべたものになる。
ビューネがそのような表情を浮かべるのは珍しく、この場にいる多くの者がそんなビューネの表情に目を奪われる。
もっとも、ビューネはすぐにその状況に気が付き、微笑が消えていつもの無表情になったが。
それを残念に思いながらも、ここでその件に突っ込むようなことをすれば、それはそれで面倒なことになる。
結果として、今のビューネの微笑については、全員がそれ以上話すようなことはない。
「それで、レイ。明日からギガントタートルの解体を本格的に始めるという話だったけど、以前ちょっと聞いたように、ギルムの外じゃなくて中でやるのよね?」
話題を変えた……いや、正確には戻したヴィヘラの言葉に、レイは頷く。
「ああ。去年のように護衛の冒険者を雇うと、結構な出費になるらしいしな」
「けど、ギガントタートルの肉の経済効果や、解体をすることでスラム街から抜け出した人達の人的資源を考えると、総合的には黒字でしょう?」
戦闘狂とはいえ、ヴィヘラも元ベスティア帝国皇女だ。
そのくらい大きな視点で物事を見ることは出来る。
他の面々もそんなヴィヘラの言葉には納得出来るものがあった。
唯一ビューネのみが、理解出来ているのか、いないのか。いつもの無表情のままだったが。
「それは間違いない。けど、いらない出費を抑えられるのなら、そっちの方がいいだろう? ギルムの外……それも冬という季節もあって、護衛をしている冒険者には結構な報酬が出ていたらしいし」
冬だけ姿を現すモンスターというのは、強力な個体が多い。
レイが今日倒した透明なモンスターは、その手の冬だけ現れるモンスターなのか、もしくは辺境に普通に棲息しているモンスターなのか。
その辺はレイにも分からなかったが。
ともあれ、相応にランクの高いモンスター……恐らくはランクB――常に透明な上、無音で飛ぶということを加味するとランクAの可能性もあるが――くらいのモンスターだろう存在が、ギルムからある程度の距離があったとはいえ、普通に姿を現したのだ。
そのようなモンスターと戦うという可能性を考えると、やはりギガントタートルの解体をする際にはギルムの中でも相応の腕の立つ護衛を用意する必要がある。
依頼料に関しては、ダスカーやギルドからもある程度補助されているとはいえ、それでも無限ではない。
であれば、護衛の必要がない場所で解体をすればいい。
とはいえ、ギルムの中で解体をすれば、それはそれで何らかの問題が起きる可能性もある。
だが、それはそれで解決していけばいいだけの話だ。
実際、ダスカーやギルド側の考えとしては、レイが倒したギガントタートルのような巨大なモンスターを解体する場合、どうすればいいのかと手探りの状況であるのも事実。
勿論、今までギルムにいた冒険者が巨大なモンスターを倒した記録がない訳でもない。
ただ、その時はアイテムボックスの類を持っている者がおらず、それこそ解体出来る場所まで解体して、残りは捨てるといった流れになっていた。
そもそもアイテムボックスの類がなければ、ギガントタートル級の巨大なモンスターを倒しても、ギルムまで運ぶことは出来ない。
倒した場所で周囲にいるモンスターを警戒しながら、その巨体を解体するのだ。
それが一体どれだけの困難なことか、想像するのは難しくない。
しかし、今回はレイのミスティリングがあるので、その辺の心配はいらない。
冬という、寒さで死体が傷みにくい季節に解体をするといったことも出来るのだから。
今後のことを思えば、アイテムボックスを使わずにどうにか出来るようにするのが一番なのだが、事態はそう簡単ではない。
結果として、取りあえずまずはアイテムボックスありき……レイの協力ありきで、ギガントタートルの解体を行おうとしていた。
「色々と問題は起こるだろうけど、ギルドならきっと何とかしてくれる筈だ」
「……それ、面倒は全部ギルドに投げてない?」
若干の呆れと共にそう言ってくるマリーナ。
元ギルドマスターだけに、ギルドに丸投げしているレイの態度に思うところがあるのだろう。
とはいえ、元ギルドマスターとしても、ギガントタートルのような巨大なモンスターの解体のノウハウを有するのは悪くないと思っているので、その件についてそれ以上レイを追求する様子はなかったが。
「ギルドに頑張って貰うとしよう。……それより、マリーナの作った夕食を楽しませてくれ」
そう言い、レイはテーブルの上にある料理を楽しむ。
マリーナは、そんなレイの様子を嬉しそうに眺めるのだった。