2996話
レイと距離をとった黒豹は、微かにその身体を沈めた後で、大地を蹴る。
四本の足によって蹴られた土がその背後に撒き散らかされる。
普通の豹……いや、豹に限らず四本足の動物とは全く違う、鋭く長く伸びた爪で地面を蹴ったのだから、背後に撒き散らかされた土はかなりの量になる。
しかし、だからこそなのだろう。黒豹の動きは非常に素早く、鋭い。
豹がベースになったモンスターだからというのもあるのだろうが、俊敏さという一点において、トレントの森にいるような他のモンスターの他の追随を許さないのは間違いなかった。
だが……そのような速度であっても、レイの目から逃げることは出来ない。
エレーナやヴィヘラといった面々と模擬戦を行うことが多いレイにしてみれば、黒豹の速度は素早いものの、初めて見るといったようなものでもない。
黒豹の速度に合わせるように、デスサイズの一撃を振るい……次の瞬間、微かに驚きを露わにする。
黒豹が回避しようとしても、普通なら十分に切断出来るだけの余裕と共に放たれた一撃だったのだが、黒豹は鋭い爪を地面に突き刺し、翼を羽ばたかせ、更には尻尾の先端を地面に突き刺すといった行動を組み合わせてデスサイズの一撃を回避する。
それも回避しただけではなく、小刻みに動いてレイに狙いを悟らせず……
「ちっ!」
レイの近くで反転したかと思うと、長い尻尾を槍のように突き出す。
……いや、槍のようにではなく、まさにその一撃は槍の一撃と呼ぶに相応しい威力と鋭さを持っていた。
オークと戦っている時は分からなかったが、尻尾の先端には鋭い針が槍の穂先のように存在している。
その鋭い槍の一撃を、レイは左手に持った黄昏の槍を振るうことで弾く。
槍のような一撃とはいえ、それはあくまでも尻尾。
黄昏の槍の柄の一撃に、あっさりと軌道を逸らされる。
もう少し前方に対して槍を振るうことが出来ていれば、柄で弾くのではなく穂先で切断することも出来ただろう。
あるいは黒豹はそれを狙ってもいたのか。
黒豹の攻撃に意表を突かれたレイだったが、すぐに次の動きに繋げる。
デスサイズを手首の動きだけで返して、黒豹を切断するかのような一撃を放つ。
レイとセトが持った時に限り、重量はその辺に落ちている小枝程度になるという、その能力を活かしての一撃。
黒豹も高ランクモンスターだけあって高い知識があるのは間違いなく、今回に限ってはそれが災いした。
デスサイズが振るわれた時の音や外見から、その重量がとてつもないものだというのは、理解出来ており、だからこそレイがそこまで呆気なくデスサイズの刃を返すといった真似が出来るとは思ってもいなかったのだろう。
自分に向かってデスサイズの刃が迫るのを見た瞬間、必死になってその一撃を回避しようとし……それは半ば報われた。
本来なら黒豹の身体を切断してもおかしくはないだけの、そんな強烈な一撃だったのだが、黒豹の必死の行動によって深く身体を斬り裂かれたものの、切断されるといったことはなかった。だが……
「ギシャアア!」
必死になって……それこそ全身全霊の動きでデスサイズの攻撃を回避するということは、それ以降の行動には対処出来ないということを意味している。
結果として、デスサイズによって斬られた黒豹は追撃としてレイの蹴りを食らって吹き飛ぶ。
「ふっ!」
蹴りを放って吹き飛んだ黒豹に対し、レイは更に追撃の一撃を放つ。
蹴り足が地面についたその反動を使い、左手で持っていた黄昏の槍を投擲したのだ。
万全の状態で投擲した訳ではないので、その槍の一撃は普段に比べれば弱い。弱いが、それはあくまでも普段に投擲した時に比べればだ。
その一撃は普段より弱いものの、それでも十分に黒豹の身体を貫くだけの威力を持っていた。
「ギャウン!」
黄昏の槍により、右後ろ太股を貫かれた黒豹の口から悲鳴が上がる。
肉も骨も黄昏の槍によって貫かれ、皮だけでかろうじて繋がっているような状況。
そして……ここで、レイにとっても思いもよらない援護が行われた。
右後ろ足が使えず地面に倒れた黒豹の身体を、地面から生えてきた草が拘束したのだ。
それを一体誰がやったのか。
考えるまでもなく明らかだろう。
(ニールセンの奴、ここから退避しろって言ったのに)
本来の黒豹なら、草に身体を拘束されても容易に脱出することが出来るだろう。
高ランクモンスターというのは、それだけの力を持っているのだから。
しかし、右後ろ足が使えない状態ではそのような真似が出来る筈もないのか、必死になって暴れているが拘束からは抜け出せない。
そして幸か不幸か、その暴れるという行動によって皮だけで何とか繋がっていた右後ろ足が、皮が破けることによって地面に落ちる。
「終わりだ」
呟きながら、レイは黄昏の槍の能力を使って手元に戻す。
黒豹の右足を貫き、その背後にあった木の幹をも数本分貫いて威力が弱まったことでようやく木の幹に突き刺さっていた黄昏の槍は瞬時にレイの手元に戻る。
再びデスサイズと黄昏の槍を手にしたレイは、倒れた黒豹に向かって歩き出す。
当然ながら黒豹も素直に自分が死ぬのを受け入れるつもりはない。
右後ろ足がなくなった強烈な痛みはあるが、それでも痛みに鳴き声を上げているだけでは、死んでしまうだけだ。
そうならないように、痛みを我慢しつつも今この状況でどうにか出来る攻撃手段……長い尻尾を使って、レイが近付かないように牽制していた。
ヒュンヒュンと音を立てて振り回される尻尾。
勿論その尻尾がただの尻尾ではないことをレイは知っている。
これがただの尻尾なら、それこそ鞭か何かだと思って対処すればいい。
しかしその尻尾の先端には鋭い針が……下手な槍の穂先よりも鋭い針があるのだ。
先程の戦いの中でそれを知っているレイは、槍ではなく鞭として……それも先端に鋭い針のついている凶悪な鞭として尻尾を使ってきた黒豹を警戒する。
鞭というのは、達人が使った場合は先端の速度が音速を超えるという。
これがただの鞭ならレイも簡単に……とまではいかないが、それなりに対処出来る手段はある。
最悪、被弾を覚悟で黒豹を攻撃するといった手段もある。
だが、鞭の先端に針があるとなると、そう簡単に攻撃を受けるようなことも出来ない。
また、何よりも厄介なのは鞭というのは柔軟性が高いということだろう。
たとえば、鞭の半ばの部分に武器を叩き付けたとしても、その一撃は鞭を切断出来なかった場合は武器の一撃によって鞭の軌道がレイが予想していないものになってもおかしくはない。だが……
「ここだ!」
尻尾の先端がレイから遠ざかったのを見た瞬間、レイはデスサイズを振るう。
尻尾の先端がレイから遠ざかったのは、それこそ一秒にも満たない瞬間。
しかし、レイはその一瞬の隙を逃さずに数歩踏み込んでデスサイズを振るう。
もしこれで黒豹がもっと自由に動き回るのなら、身体の動きを微妙に変化させるような真似をして、それによって尻尾の一撃に変化を加えるといった真似をしてもおかしくはない。
だが、現在の黒豹はニールセンが使った魔法によって地面から伸びた草によって動きを止められており、何よりも右後ろ足を失った痛みやそのバランス感覚に慣れていないせいか、ろくに動くことも出来ない。
ある意味、そのような状況で尻尾を振るってレイを牽制することが出来ているという時点で凄いのだろうが。
普通の……このトレントの森にいるようなモンスターではあれば、手足の一本を切断されるような真似をされれば、痛みから泣き叫ぶといった真似をすることはあっても、敵に対して反撃の構えを取るといったような真似は難しいだろう。
そのような状況であってもこうして反撃をしてこようとする辺り、黒豹が高ランクモンスターである証だった
とはいえ、死にたくない、何としてもこの場を生き残るというのはあくまでモンスター側の話。
レイにそれは関係なく、黒豹に向かって近付くと魔力を流したデスサイズを振るう。
その辺の武器なら、黒豹の尻尾を切断することは出来なかっただろう。
オークとの戦いでは鋭く長く爪を主に使っていたものの、本来なら尻尾は黒豹にとっても主要な攻撃手段の一つなのだ。
それはつまり、そう簡単に切断されたりといったことはまずないと、そう自信を持っていたのだろうが……
斬、と。
そんな黒豹の自信もろとも、デスサイズによる一撃はあっさりと尻尾を切断することに成功した。
勿論、レイの攻撃はそれだけで終わるようなことはなく、もう片方の黄昏の槍を使い、黒豹の喉を貫く。
皮膚を破り、肉を裂き、血管を引き千切り、骨を砕く感触が穂先越しに伝わってくる。
「ギュ……ギャ……」
喉を攻撃された……いや、破壊されたからだろう。
黒豹はろくな鳴き声も出せないまま、微かな断末魔と共に命の炎が消える。
地面に倒れた黒豹を見つつ、しかしレイは一応警戒を止めない。
相手が高ランクモンスター……レイの認識ではランクBモンスターと思しき存在である以上、本当に死んでいるかどうか分からなかったからだ。
もしかしたら死んだ振りをして、ここから脱出しようと隙を窺っているか、あるいはもう自分が死ぬというのは分かっていても、最後に一矢を報いるべくレイが近付いてくるのを待っているという可能性もある。
そんな状況で一分程が経過しても黒豹が全く動く様子がなく、ようやくレイは黒豹が死んだと判断し、構えていた武器を下ろす。
するとレイが武器を下ろしたことから、ようやくもう黒豹が死んだと、ここはもう安心なのだと判断したのだろう。
空を飛びながら、ニールセンがレイの側までやってくる。
そんなニールセンに感謝の言葉を口にしようとしたレイだったが、何故かニールセンが怒っているのを見ると疑問を抱く。
「そんなに怒ってどうしたんだ?」
「どうしたじゃないわよ! レイが妖精郷に戻るようにとか言ってたから、てっきり凄い強いモンスターなのかと思ったら……別にそういう訳じゃなかったじゃない! 思わせぶりなことを言わないでよね!」
ニールセンの口から出た不満一杯といった言葉に、レイは怒っている理由に納得する。
それと同時に、より感謝の気持ちも強くなった。
レイはニールセンに、妖精郷に戻るようにと言っておいた。
だというのに、ニールセンはそんなレイの言葉を聞かずにこの場に残り、その上で魔法を使って援護してくれたのだ。
勿論、ニールセンの魔法がなければ勝てなかったという訳ではないが、もし魔法がなければ最後の方でもっと手こずっていたのは間違いない。
「言っただろう? 俺はドラゴンにすら勝った男だぞ? 高ランクモンスターではあっても、黒豹を相手に負ける訳がない。……ただまぁ、実際この黒豹は高ランクモンスターの中でもそこまで突出した強さを持っていた訳ではなかったようだけど」
レイの目から見た黒豹は、恐らくランクBモンスター。
そのランクBモンスターの中でも、中の下、あるいは下の上といった程度の強さというものだった。
あくまでもこれはレイの感想なので、ギルドの方でどのように認識してるのか分からないが。
「それでも、本当に勝てる自信があったら妖精郷に戻れとか、そんな風に言わなくてもよかったじゃない。ああいう風に言うから、私はてっきり死闘になるのかと思ってたんだからね!」
「死闘……かどうかはともかく、このモンスターが強かったのは間違いない」
これは事実だ。
実際にオーク五匹を瞬く間に殺したモンスターなのだから、弱い訳がない。
もしトレントの森にいる樵や護衛達が遭遇した場合、最悪全滅してもおかしくはないだけの実力を持っていた。
「でも、レイは簡単に倒していたじゃない」
「一応これでもランクA冒険者、それも異名持ちだしな」
「なら、私に妖精郷に戻れとか、言わなくてもよかったんじゃない?」
結局のところ、ニールセンにとってそれが一番納得出来ないところなのだろう。
ニールセンにしてみれば、レイは本来なら容易に倒せるモンスターを前に、勿体ぶった言い方をしたように思えたのだろう。
だからこそ、今のこの状況がニールセンには納得出来なかったのだ。
「あのなぁ……俺ならこの黒豹に勝てた。それは間違いない。だが、それはあくまでも俺だからだろ? もし黒豹が俺じゃなくてニールセンに襲い掛かっていたら、どうするつもりだったんだ?」
「それは……」
そう言われると、ニールセンも反論は出来ない。
以前と比べて強くなったのは間違いないが、だからといって今のニールセンが黒豹を相手に戦えるといったような強さがある訳ではないのだから。
レイの言葉に、ニールセンは不承不承納得するのだった。