2817話
「えっと、その……よかったんですか?」
ニナに案内されるようにして部屋を離れてから数分、恐る恐るといった様子でニナがレイに尋ねる。
何を聞きたいのか何となく理解していたレイだったが、取りあえず思い当たるようなことがないようにしつつ尋ねる。
「何がだ?」
「え? だって、その……部屋で悲鳴、聞こえてましたよね?」
ニナは自分が悲鳴を聞こえたのだから、レイが聞こえていない筈がないだろうという前提で話を進める。
実際にそれは間違っていないのだが、レイは軽く首を傾げるだけだ。
「何の話か分からないな」
「そう、ですか」
レイの様子から、これ以上は何も聞かない方がいいだろうと判断したのだろう、ニナはそれ以上話を続けるのは諦めた。
もしニナの隣にいるのがレイでなければ、それこそニナは面白がって根掘り葉掘り聞いたりするだろう。
しかし、生憎とニナの隣にいるのはレイだ。
そうである以上、ここでしつこくした場合、色々と不味いことになるのはニナなら容易に予想出来た。
最初にレイと交渉した人物だけに、レイの性格はそれなりに理解している。
これは聞かない方がいいのだろうと判断すると、ニナはすぐに話題を変えた。
「そう言えば、ソファはどうでしたか? オルバン様がレイ様の為にと用意した物だったのですが」
「は? そうなのか? クロウが持ってきたソファだよな? クロウは特に何も言ってなかったけど」
風雪という組織に愛着を持っているクロウのことだ。もしオルバンが直々にレイにソファを渡す為に用意したのなら、ソファを持ってきた時にその辺を話していてもおかしくはなかった。
疑問の視線を向けるレイに、ニナは笑みを浮かべて口を開く。
「それはそうですよ。そもそも、クロウはあのソファがオルバン様の用意した物だとは知りませんので」
「何でわざわざ隠したんだ?」
「別に隠したという訳ではないと思います。ただ、昨夜は色々と忙しかったので」
「言う暇がなかったか」
「はい。それと、クロウにそのことを言うと必要以上に気にしていたかもしれませんし」
レイから見たクロウはそこまで気にするようには思えなかったが、同じ組織にいるニナが言うのであれば、そういうことなのだろうと判断する。
自分とニナのどちらがクロウとの付き合いが長く深いのかを考えれば、当然のようにニナなのだから。
風雪はエグジニスの中でも最大の暗殺者ギルドであり、それだけ所属している者は多い。
そんな中でニナとクロウの付き合いが具体的にどのくらいあるのかは、レイにも分からなかったが。
「ソファはかなり品質のいい物を持ってきてくれたみたいだな。俺はソファで寝てるけど、寝心地はかなりよかった。肌触りもよかったし」
「それはよかったですけど……レイ様がソファで寝てるんですか?」
「こっちの人数が多いしな。それにソファで寝るのもそこまで苦じゃない。それが続けばちょっと疲れるかもしれないけど」
やはり寝返りが出来ないというのが、ソファで寝る上で一番厄介だった。
ソファで寝続けていれば、やがて寝返りをしてもソファから落ちないようになるのかもしれないが、そのようになりたいとはレイも思わない。
ソファで寝ても問題はないが、だからといってそれを好む訳でもないのだから。
出来ればベッドで眠りたいと思うのは当然だった。
(やっぱりマジックテントで寝た方がいいのか?)
レイ達が使っているリビングはかなりの広さを持つ。
ソファを数個移動させれば、マジックテントを使えるだけの空間的な余裕は十分にあった。
ただし、他の者達が狭い場所で我慢してる中、レイだけがマジックテントの中で狭さを全く感じさせずに寛いでいるのは、色々と気まずい。
あるいはレイのマジックテントを使わせて欲しいと言う者が出て来る可能性もあった。
しかし、生憎とレイはそこまで親しくない相手にマジックテントを使わせる気はない。
その辺の事情を考えても、やはりレイとしてはマジックテントを使わない方がいいのでは? と思えてしまい……そう思っているレイの視線の先の廊下の隅に短剣が一本落ちているのに気が付く。
「これも昨夜の騒動の影響か」
暗殺者ギルドのアジトである以上、武器が転がっているのはそう不思議な話ではない。
しかし、それはあくまでも普通の暗殺者ギルドならではの話だ。
風雪は暗殺者ギルドではあってもかなり規律が厳しく、武器の類を適当に通路に捨てておくといったような真似は……レイが見た限りでは今までなかった。
ニナはレイが拾った短剣に視線を向けて、複雑な表情を抱いた様子で頷く。
「そうですね。昨夜の件は色々と大変でしたから。……具体的にどれだけの人数が侵入したのかもわかりませんし」
「そう言えば、結局脱出出来ずに取り残された暗殺者はいたのか?」
拾った短剣を弄りながら尋ねる。
レイが知ってる限りでは、風雪のアジトに侵入してきたのはその多くが腕利きだった。
そうである以上、侵入口が風雪側に占拠されそうになったと判断すれば、可能な限り素早く逃げ出していてもおかしくはない。
しかし、それでもどうしようもない理由で取り残されたり、技量が伴っていないのに無理に参加したような者がいてもおかしくはなかった。
そんなレイの予想を裏付けるように、ニナは頷く。
「そうですね。数人、逃げ損なった者達が捕まっています。とはいえ、その大半は組織に所属する暗殺者ではなく、ソロでしたが」
「ソロか。そうなると、使い道に困るな」
「はい」
心の底から残念といった様子でニナが頷く。
どこかの組織に所属している暗殺者なら、情報を引き出すなり、捕虜として身代金と引き換えに返したりといったような真似も出来る。
だが、ソロであるということは基本的に後ろ盾は存在しない。
あるいは本人が金を貯め込んでいるのなら、交渉次第ではその金と引き換えに自由の身になれる可能性もあるが……そのような真似が出来る者はそう多くないだろう。
そうなると、それこそ奴隷にするか、あるいは殺すかといったような方法しかない。
それ以外にも何か使い道はあるのかもしれないが、残念ながらレイにはそれが分からなかった。
「取りあえず、このアジトに残っている奴を全員確保するまでは大変だと思うけど、頑張ってくれ。こっちもアンヌとかを部屋の外に出すとなると、安全を考える必要もあるからな」
「全力をつくします。ただ……風雪のアジトは私が言うのも何ですが、かなり広くて複雑です。そのおかげで、今回の騒動でも致命的な被害を受けることはなかったのですが」
「痛し痒しといったところか」
アジトの内部が複雑なので、侵入してきた敵が風雪の重要な場所に辿り着くのは難しかった。
また、オルバンやニナのように風雪の幹部達に対する襲撃も少なかっただろう。
……その割に、リンディやアンヌ、イルナラ達のいた部屋の前まで侵入者達が到着していたのだが、その辺は運が悪かったのは間違いない。
(運が悪い、か。リンディ達のいる場所まで偶然侵入者が到着した? ……俺の考えすぎか?)
もしかしてといった視線をニナに向けるレイだったが、そのようなことをしても風雪側に利益はない。
寧ろレイからの不興を買って、お互いの関係を悪くするだけだ。
「迷路状の通路だと、風雪に所属してる奴でも迷ったりすることがあるんじゃないか?」
「それは否定しません。ただ、基本的に自分の行動範囲については理解していますから。……レイ様も、現在の部屋から外に出る通路は理解してますよね?」
「その辺は何度も通ってるしな。それにかなり広い通路を通るし」
複雑な作りになっている風雪のアジトだが、その通路は全て同じ広さという訳ではない。
多くの者が通る場所はかなり広く、街の大通り……というのは少し大袈裟だが、そのような感じになっていた。
そして街に裏通りがあるように、風雪のアジトの中にもかなり狭い道がある。
実際に昨日レイがクロウと共に侵入者と戦った場所は狭い場所も多く、レイもデスサイズを振るう空間的な余裕がなかったので黄昏の槍をメインに使っていた。
「広い通路は分かりやすいですね。とはいえ、そのおかげで広い場所での戦闘が頻繁に行われたようですが」
レイとニナはそんな風に会話をしつつ、通路を歩く。
ちなみにレイが見つけた短剣は、取りあえずミスティリングの中に収納されることになった。
ニナに返そうとしたのだが、それなりにいい短剣だったとこともあったのでレイが譲り受けたのだ。
とはいえ、いい短剣ではあってもそれはあくまでも一般的な短剣に比べればの話であって、匠の技が光る代物ではない、
ある意味では使い捨ての槍と同じような……もしくはそれより少し上の扱いといったところか。
そうして通路を進むと、やがてレイにも見覚えのある扉の前に到着する。
扉の前には、昨日の今日だからだろう。いつもより多い護衛の姿があった。
レイはオルバンの護衛が増えるのは当然だと思っていたし、ニナもまたレイを呼びに来たことからこの光景については知っていたのだろう。
二人揃って特に驚く様子もなく扉に近付いていく。
オルバンを……自分達のボスを守ることを最優先に考えている護衛達だけに、最初誰かが近付いてきたということで警戒したものの、それがレイとニナであると知ると警戒が解ける。
レイは現在風雪と手を組んでいる相手だし、何よりも昨夜の一件では風雪の誰よりも活躍している。
レイに色々と思うところがある者もいたが、それを認めないといった訳には到底いかなかった。
ニナにいたっては、風雪の幹部である以上当然のようにここにいる者達は知っていた。
いや、幹部であるというだけではなく、ニナはその美貌から風雪の暗殺者達の中にも慕っている者は多い。
そんな二人だけに、護衛達が警戒を解くのは当然だった。
……ただし、風雪のアイドル的な存在のニナと一緒にいるということで、別の意味で警戒の視線を向けられたりもしていたが。
「オルバン様に呼ばれてきたのだけれど」
「はい、聞いています。ニナさんが来たらすぐに通すようにと言われてますので」
そう言い、ニナと話していた男はすぐに場所を空ける。
その男がニナに向ける視線には敬意が込められており、続いてレイに向けられた視線には感謝の色がある。
昨夜の一件でレイに感謝をしているのだろう。
風雪の中にはレイに対して面白くないと思っていた者もいたが、それは昨夜の一件で大きく変わった。
今レイに向かって頭を下げた男も最初はレイの存在を面白くないと思っていたのだが、昨日の一件でレイに好意的になった者の一人だ。
レイにしてみれば、昨夜の一件は風雪の者達の為にやったのではなく、放っておけば自分……はともかく、リンディ達に被害が出ると思ったからこその行動だったのだが。
実際、リンディ達の部屋を守っていた二人は、暗殺者達との戦いで重傷を負っている。
「失礼します、オルバン様。レイ様をお連れしました」
「ああ、よく来てくれた。ニナは……そうだな。今回の件には幾らか関わってくる可能性もあるから、部屋の中にいてくれ」
「分かりました」
ニナはオルバンの言葉にも特に驚いた様子はない。
この状況でわざわざ自分が呼びに行ったのだから、自分にも何らかの用があるのだろうと判断していたのだろう。
そうしてレイ達は全員がソファに座り、ニナが紅茶の用意をするとオルバンが真っ先に口を開く。
「さて、レイ。感謝するのが遅くなったが、昨日は色々と助かった。もしレイがいなければ、恐らくもっと大きな被害を受けていただろう」
そう言い、素直に頭を下げるオルバン。
ニナはそんなオルバンの姿に驚いた様子を見せていたものの、すぐにその驚きは表情から消える。
交渉を担当している自分がここで動揺しているところを見せるのは不味いと、そう考えたのだろう。
そんなニナの様子にレイは全く気が付かず、オルバンが頭を下げたことにも特に驚いた様子もなく口を開く。
「気にするな。昨夜の一件の黒幕はドーラン工房だろう? なら、その狙いは風雪じゃなくて俺、もしくはアンヌ達の筈だ。そういう意味では、風雪は俺の都合に巻き込まれたようなものだ」
「そうかもしれないな。だが、昨夜侵入してきた者達……ドーラン工房が雇った暗殺者達は、エグジニスの中でもそれなりの規模の暗殺者ギルドに所属している者が大半だった。中にはどこの組織にも所属していないソロの暗殺者もいたようだったが。とにかくその辺を考えると、ドーラン工房が仕組んだんだろうが、風雪を邪魔に思っていた連中がそれに協力したのも間違いない」
つまり、自分達の問題でもある。
そう告げるオルバンに、レイはそういうことならと、取りあえず納得するのだった。