後日譚:四宮まどか
淡路島での凄惨な事件から、半年程の月日が流れていた。
季節は晩秋へと向かい、都心の街路樹は鮮やかな朱色や黄色へと色づいている。
風は日ごとに冷たさを増し、行き交う人々の装いもコートへと変わっていた。
東京・中野にある古びた雑居ビルの一室。
入り口のドアには『相良調査事務所』と書かれた簡素なプレートが掲げられている。
淡路島での惨劇を経て戻った相良修司は、この小さなオフィスを拠点に
フリーライターとしての活動を行っていた。
「……よし、これで校正は終わりか」
修司はパソコンの画面から目を離し、深く腰掛け直して息を吐いた。
デスクの上には、書き上げたばかりの原稿が置かれている。
地方の都市伝説や怪異の裏に潜む人間ドラマを紐解く、小さなWebメディア向けの連載記事だ。
以前のような、人を追い詰め、死に追いやるような記事は二度と書かない。
真実を丁寧に拾い上げ、遺された者の痛みに寄り添う――
それが、今の修司のペンに込められた誓いだった。
修司はデスクの片隅に置かれた、愛機・PENTAX LXに視線を落とした。
黒塗りの真鍮ボディ。幾多の戦いをくぐり抜けてきたそのカメラは、夕暮れ時の事務所の光を受けて鈍い光沢を放っている。
修司はそっと手を伸ばし、ボディの金属表面に指先を走らせた。
(……まどか)
指先から、ほんのりと人肌のような温もりが伝わってくる。
あの沼島の洞窟で、自分を守るために自ら生贄となり、怪異に呑み込まれた四宮まどか。
彼女の魂は消滅したわけではない。このLXと融合し、今も修司のすぐ側に存在している。
修司はカメラを持ち上げ、レンズのキャップを外すと、静かにファインダーを覗き込んだ。
レンズの向こうに見える、誰もいない事務所の風景。
しかし、フォーカスリングをわずかに回すと――
ファインダーの隅、窓際に立つひとりの女性の姿が、鮮明に浮かび上がった。
白いニットにスレンダーなロングスカート。
夕日に照らされた容姿端麗な立ち姿のまま、四宮まどかは優しく
そしてどこかうっとりとした瞳で修司を見つめていた。
肉眼では何も見えない。
だが、このLXのファインダー越しにだけ、修司は彼女と再会することができた。
『……修司さん』
耳元で、風の音に混じって、甘く濡れた声が直接脳裏に響く。
『今日もお仕事、お疲れ様です……。お茶、淹れてあげられなくてごめんなさい』
「……気にしなくていい。君がそこにいてくれるだけで、俺は十分だ」
修司は静かに呟いた。
かつて、自分に寄せられるまどかの過剰なまでの愛情と執着に、修司は戸惑いを感じていた。人を死に追いやった男が、誰かと幸せになる資格などない――そうやって心を閉ざし、彼女を遠ざけようとしていた。
しかし、命を捨ててまで自分を守り抜いた彼女の愛に触れ、修司の固く閉ざされていた心は溶けていた。
『ふふ……先輩、今私のこと考えてくださっていましたか?
嬉しい……胸がキュンとしちゃいます……』
ファインダーの中で、まどかは頬をぽっと赤らめ、恥ずかしそうに両手で顔を覆った。
修司のために傷つき、身を捧げることに甘美な快感を感じていた
彼女の本性は、霊体となった今でも変わっていないようだった。
むしろ、四六時中修司の愛機の中で彼と一体化している現在の状況に
激しい充足感を抱いているようすら見えた。
「まどか……あまり僕をからかうな」
『からかっていませんよ? 私、本気です。だって……
今の私は先輩の愛機そのものなんですから。
先輩の指先が私に触れるたび……私、全身が痺れるくらい幸せなんです……っ』
うっとりと吐息を漏らすまどかの姿に、修司は苦笑するしかなかった。
その時、事務所のドアが勢いよく開いた。
◇
「よお、修司! 邪魔するぜ!」
威勢の良い大声とともに飛び込んできたのは、がっしりとした体格の男――黒田慎一だった。
首元には真新しいマフラーを巻き、手には缶コーヒーのポリ袋を下げている。
「黒田か。ドアくらいノックしろ」
修司はLXを静かにデスクへ置いた。
まどかの姿はファインダーから消え、カメラは静かに修司のデスクの上に鎮座している。
「堅いこと言うなよ! ほら、缶コーヒー買ってきてやったぞ。ホットだ」
黒田はそう言って缶コーヒーを修司のデスクに放り投げると
向かいのパイプ椅子にドカリと腰掛けた。
淡路島での惨劇から二ヶ月。
一時は呪いに侵され、生贄として闇に引きずり込まれかけた黒田だったが
今ではすっかり元の元気を取り戻していた。
「淡路島の方の処理は、一区切りついたのか?」
修司が温かい缶コーヒーのプルタブを開けながら尋ねると、黒田は深く頷いた。
「ああ。中垣内のオッサンと協力してな。15年前の被害者と
今回の被害者の遺族全員に会いに行ってきたよ」
「……遺族たちの様子は?」
「そりゃあ……最初はみんな混乱してたさ。
『遺体も見つからないのに、怪異のせいで亡くなった』
なんて言われても信じられるわけねえ。だが……」
黒田は缶コーヒーを握りしめ、遠い目をした。
「15年の間、ずっと時が止まったまま苦しんでた遺族たちに、
中垣内のオッサンが頭を下げて、事件の『真実』を語ったんだ。
遺品として戻ってきた品々を抱きしめて、みんなボロボロ泣いてたよ。
……これでようやく、区切りがついたってな」
「そうか……」
「お前のおかげだ、修司。お前があの沼島の洞窟で、
命がけでシャッターを切ってくれなきゃ、俺も今頃あの闇の底でドロドロに溶けてた」
黒田は照れくさそうに頭をガリガリとかいた。
彼が密かにこだわっていた「男らしさ」は、恐怖を隠すための強がりから、大切なものを守り、受け止めるための本当の強さへと変化していた。
「俺は何もしていない。……四宮が…まどかが、僕に力をくれたんだ」
修司の言葉に、黒田の表情がふっと柔らかくなった。
黒田はデスクの上のLXに目をやり、静かに手を合わせた。
「……四宮ちゃん。本当にありがとな。俺を助けてくれて……修司を守ってくれて。
……四宮ちゃんは、本当に最高の女だよ」
その言葉に応えるように、LXの金属ボディがカチリと小さく乾いた音を立てた。
「うおっ!? 今、カメラが動かなかったか!?」
黒田が驚いて椅子から立ち上がる。
「気のせいだろ」
修司は知らん顔をしてコーヒーを口に含んだが、心の中では笑っていた。
まどかが「黒田さん、ありがと」と耳元で囁いていたからだ。
「……で、お前、これからどうするんだ?」
黒田が再び腰を下ろし、真面目な顔で尋ねてきた。
「警察や他のオカルト雑誌から、全国各地の『不自然な失踪事件』の調査依頼が、いくつか舞い込んできてるんだろ?」
「ああ。中垣内さんからも連絡があった。大阪で起きた奇妙な怪死事件について、知恵を貸してほしいとな」
中垣内刑事はあの事件の後、淡路島での功績(表向きは大規模な未解決事件の解明)
が認められ、大阪府警の特命捜査部門へと異動していた。
警察の力では解決できない「異界が絡んだ事件」を処理するため、裏で修司に協力を求めてきているのだ。
「相変わらず手荒なおっさんだな……。
だが、修司。お前、もうその『力』を使うことに迷いはないのか?」
黒田の問いに、修司は自分の手を見つめた。
修司が覚醒させた「何かの力」。
それは、LXのファインダーを通して怪異の核(弱点)を看破し、
シャッターを切ることでその存在を異界ごと切り取り、多分…浄化もしくは消滅させる能力だ。
人の命を奪う記事を書いてしまった罪悪感。
友を見捨てて逃げ出した過去。
そのすべてを背負い、修司はこの力を使って生きていく覚悟を決めていた。
「迷いはないさ。……俺には、まどかがついている」
修司は力強く言い切った。
「怪異に苦しむ人がいるなら、僕はファインダーを覗く。
真実を切り取り、救えるものを救う。それが、僕とまどかの……新たな生き方だ」
黒田は修司の顔をじっと見つめると、やがてニカッと口を大きく開けて笑った。
「へっ、相変わらずカッコつけやがって! だが、頼もしいぜ。
……おい修司、その次の大阪の事件、俺も連れて行けよな!」
「黒田……お前はもう巻き込みたくない。危険すぎる」
「バカ言え! 俺とお前は長年のコンビだろ!
それに、一度死にかけたんだ、今更ビビるかよ。力仕事と運転は俺に任せとけ!」
胸を叩く黒田の姿に、修司は小さく溜め息をついたが、その表情には温かな信頼が浮かんでいた。
「……勝手にしろ。ただし、足手まといになったら置いていくぞ」
「へいへい、冷血な相良センセイ!」
二人は顔を見合わせ、声を合わせて笑った。
◇
夜が更け、黒田が「飲みに行くぞ!」と騒ぎながら事務所を去った後。
修司はひとり、事務所の明かりを消した。
暗闇に包まれた室内に、窓の外の街灯の光がうっすらと差し込んでいる。
修司はLXを首から下げ、コートのポケットに手を突っ込んだ。
「……行くか、まどか」
修司が語りかけると、胸元のLXがぽっと温かさを増した。
カメラから伸びる見えない糸を通じて、まどかの温もりと愛しさが、修司の全身を包み込んでいく。
『はい……修司さん。どこへでも……あなたと一緒なら、私は世界の果てまでついていきます』
耳元で響く、従順で、深く、永遠の愛を誓う声。
修司は事務所の鍵をかけ、静かな夜の街へと歩み出した。
怪異が潜む闇の奥へ。
傷ついた人々の魂を救うため。
相良修司と、愛機に宿る四宮まどかの――
残影のファインダー越しに広がる新たな旅が、今、静かに始まろうとしていた。
ーー 完結 ーー




