公安部からの依頼
さすがにこの歳で一晩二度はきついかなと、内心思っていたにせよモクは表には出さずにいつも通り早朝の筋トレを始めた。
暁がやっと眼を覚ましたのはシャワーを浴びている時だった。
「おはよう、モク。」
シャワールームで裸の暁が抱き着いて来た。
それをしっかり抱きしめてキスをひとつ。
「疲れて無いか?」
夜明け前の予定には無い行為を、暁はだが照れたように笑って頷いた。
「お腹が空いた。」
元気な事だ。
元気なのは良い。だが何でこんなに綺麗になる。
マニッシュな筈のジャケットとパンツの組み合わせでも、暁はさすがキッドの娘らしく華やかな事この上ない。
ディズニーシ-の溢れかえる人波の中でも衆目を集め、そこだけがやけに目立っている様だった。
艶やかな短髪、美貌を誇る小さな顔も細身ながら均整のとれた体つきも、男性以上に女性からの視線を奪っていた。
その暁に惜しみなく笑顔を向けられるモクは気恥ずかしい事この上ない。
暁の表情にはどう見ても上官や父親に向ける物とは言い難い特別なものが在った。
隠す気も無い感情はいっそ見事なほどで、モクはほとんどヤケクソの様に開き直るしかない。
だが暁の嬉しそうな表情を見ると自分も嬉しいのだと痛感する。
普通なら在り得ない組み合わせでも過去の総てが此処に帰着するならそれさえ受け止めよう。
そんなモクの想いなど知らぬ気に暁は満足そうな笑顔を絶やさなかった。
「楽しかったな、ディズニーランドは話には聞いていたけどこんなに楽しいとは思わなかった。」
帰りの車の中で機嫌よく笑う暁にモクが応えかけた時だった。
暁がブレーキを踏む。
車内からでも判る騒然としたパトカーサイレンと点滅するパトライト。
「何だ。」
先を行く何台かの車がせき止められたかのように止っていた。
反射も眼も良い暁だからこそぶつからずに済んだのだろうが後続車両も軒並み慌てて止まり、後方ではクラクションまで響いていた。
「事故かな、見て来る。」
やっと夕日が落ち始めたばかりのこの時間、京葉道路から首都高に入った道は既にラッシュが始まって交通量はかなり多い。
暁の背中が車の陰に消えた直後、暁からの緊急コールが耳を打った。
素早く車を降りて出て行ったモクは、二車線を塞ぐ形で横転する大型バンとおそらく其処からはいずり出て来たであろう4人の男。二人は膨らんだナイロンバッグを持ち、他の二人は若い女性を掴み各自が大型の刃物を振り回しているのを一瞬で見てとった。
車の陰の暁まで。
首都高出口から追われて侵入して来たらしく、周囲は警察車両で埋め尽くされている。
『女性を放しなさい、逃げられないぞ。』
拡声器からの警告に若い男が怒鳴り返す。
「煩い!」
男達の狙いは彼女たちの車だろう。
何らかの犯罪を犯して逃げる途中では警察の説得など聞く耳持たない筈だ。
このまま女性たちが車に連れ込まれてしまえば手の打ちようも無いと思った瞬間、暁のコールが入った。
考える間もなくモクの身体が動いた。
戦闘に不慣れな者は人質の使い方を知らない。
向かい来る敵に眼を奪われ刃物を向ける。
その刃先を僅かに躱して手首を打ち同時に肘と膝が叩き込まれる。
得物が落ちる前に女性を支えて振り返ったモクの眼に三人を制圧した暁が立っていた。
「なあ、モク・・・」
すっかり暗くなった窓の外を見ながら暁が大きく息を吐く。
云いたい事なら解かって居る。
「二度の休暇で二度の巻き込まれか、100%の達成率だな。」
因みに解決率も100%だが。
霞が関に来たのは二度目、しかし今回は私服で在った為とおそらく連れているのが妙齢の美人だった為に、案内する警官たちは如何にも胡散臭そうな視線を呉れてモクを見ていた。
まして今回はG倶楽部の出番も無く並居る警官の眼の前でのスピード解決だし、解決方法が一般的とは言い難いのも事実。
下っ端では話にならない事と状況説明はしなくてはならない為、大人しく連れられてきたモクではあったが内心は面白くない。
どうせ以前の様に援助交際とでも見てるのが丸判りだった。
「わぁ、綺麗だぞ。ほら見てみろよ。」
窓の外を眺めながら呑気に笑う暁の横に並ぶと確かに煌めく街は美しい。
都心の夜は立川連隊やフェニックス基地とは違って華やかだった。
ノックの音が形ばかりなのはすぐに扉が開いた事で良く解かる。
振り返った二人の前に現れたのは制服の二人とスーツ姿の男だった。
お待たせしましたとおざなりな言葉を掛けて制服年長者が椅子を勧めた。
「ご協力にまずは感謝します。」
一礼する三つの頭に、
「早くしないと食堂が閉まるんだ。今日は早く帰らないと拙いしな、手早くやってくれ。」
遠慮のない暁の言葉に三人とも愛想笑いを浮かべた。
大方学生寮の門限とでも思っているのだろうが、モクは黙って様子を見る事にした。
「お嬢さん、体術をやってるようだね。良い腕だとみんな褒めていた。だがね、素人が出張っちゃいけないな。今回は上手く行ったがあんな事はもうしてはダメだよ。」
案の定だ。
まるで子供に言い聞かせる様な言葉に暁の声が変わった。
「ほう、お嬢さんが手を出さなければまた人質事件に発展する処だったとおもうが。それとも犯人確保寸前だったのかな? 私にはどうもそうは見えなかったんだが。」
ほら始まった。
暁は駄目だと云われる事を極端に嫌う。
「奴等が何をしたかは知らないが犯罪者が追われてルールなど守ると思ったか? まさか首都高出口から侵入するとは考えなかったのか? ましてかよわい女性を人質に取るなんて極悪非道な事をするはずが無いと思ったか? お前らいったい何を習って来たんだ?」
ハルと遣り合って居た頃が不意に甦る。
小賢しい口からの悪口雑言をあの頃は必死で笑う事を堪えた物だが。
呆気にとられて黙り込んだ警察官にさらに畳み掛ける。
「あそこまで一般市民を危険に晒した挙句に解決した私達に説教とは、いやはや呆れて物が言えない。」
いや十分に言って居る。
「ましてお嬢さん扱いとは恐れ入ってさすがの私もお手上げだな。長い軍歴も此方のお三方には唯の体術としか見て戴けないか、犯人を殺しもせず不運な女性たちに傷も負わせず片付けたと云うのにバカバカしいにも程がある。モク、帰ろう。お腹が空いた。」
警察の権威をくそみそに踏んづけて立ち上がった暁にモクも続いた。
ただこれだけは云って置かないと。
胸ポケットから身分証を出して示すと、
「陸軍立川連隊所属、森田中佐だ、これは河野少尉。聞きたい事があれば何時でも来て頂いて結構だ。俺達はG倶楽部に居る。」
呆気にとられた三人をドアから振り返った。
「済まんな、俺の相方は腹が減ると気が短くなる。」
報告でロブやナイト達を散々笑わせてから、暁が不意に真顔に変わった。
「川上龍之介は完全な遺恨からだが、最近の日本の犯罪発生率は高くないか。」
それはモクも感じていた。
過去ガードのレクチャーを受けた時、SP教育担当官の山科警部からもそれらしい言葉を受けた事も有る。
「発生率と云うより規模の重大さだろうな。銃火器が出回り過ぎだし、今日はナイフ程度で済んだが暴力団とは無縁の一般市民が所持するケースが増えている。」
ロブの言葉にフレアが首を捻った。
「何処から手に入れる?」
「一番多いのがバイヤー、中国人バイヤーらしいが詳細が判ってない。手を入れても逃げられるし都内各所を廻っているらしく掴み処が無いと聞いた。」
「警察が取り締まれないのは拙いだろ。」
それに答えたのはモク。
「確かに拙い。警察にもプライドがあるからおそらくは頼っては来ないだろうし・・・依頼があれば軍でも出張れるが通常は巻き込まれない限りは無理だな。」
にやりと笑って続ける。
「まぁお前の挑発で堪えただろうからこれからはそうは無いだろう。だいたいがこれほど関わる事なんか通常では考えられんしな。」
どうやらモクの読みは外れたらしい。
翌週になって立川連隊高木連隊長からの呼び出しを受けたのはロブとモクだった。
執務室に入ると連隊長と並んで一人の男が立っていた。
「警視庁公安部の早瀬です。」
やけに眼つきの鋭い、如何にも切れ者らしい40代前半の男が真っ直ぐにモクを見つめる。
「先日は失礼しました。お手を煩わせた挙句の非礼を改めてお詫びします。」
「いや、此方こそ申し訳ない。」
モクの言葉に早瀬警部が僅かに微笑んだ。
「どうも上の連中は頭が固い様で、少し考えればヒルトンホテルの件を知らない訳が無い筈ですがあまりに若く綺麗な女性だったので余計な発言をしたようです。少尉が怒るのも無理は無い。ベテランG倶楽部員にはさぞかし呆れた事でしょう。」
モクはピクリとも動かなかった。
畑違いの警視庁公安が陸軍内でも極秘事項のG倶楽部の名を出す事は、ましてこの二人の前で出す以上はそれなりの覚悟があっての事だろう。
身じろいだロブと連隊長を押さえる様にモクの声が流れた。
「今日はどのようなご用でしょう、昨今のご多忙な折、わざわざ詫びに来られるだけとも思えないが。」
暁狙いならば蹴るしかない。
G倶楽部の任務だけでは収まらず、戴いた菊花に懸けて世界を奔走する暁にこれ以上の負担は課せられない。滅多に無い休暇でさえやたらと事に巻き込まれるのもモクとしては業腹だった。
だが。
「実は貴方のお力をお借りしたく伺いました。」
意表を突いた指名に内心の驚きを隠してモクの一つしか無い眼が早瀬を見つめた。
「私、ですか?」
男の表情が引き締まる。
「そう、貴方です。G倶楽部伝説の創立メンバーにして未だ第一狙撃手の座を誇るモク、森田誠一郎雅嗣。貴方です。」
嫌な呼称だ、と顔にも出さず首を傾げた。
「迷惑ですな。G倶楽部が極秘事項なのは設立時からの鉄則。確かに今の時代そうまで煩くは無いがそれでもコールネームと本名を並べて出すは控えて戴きたい。どうやら軍と警察では意向のすり合わせは厳しい様だ。」
立ちかけたモクを早瀬が留める。
「どうか、どうかお待ちください。失礼しました。」
慌てた男の必死の声に座り直すと早瀬はハンカチを出して額の汗を拭った。
「申し訳ない。この場なら許されるかと・・・いや、失礼しました。」
何度も詫びながら大きく息を吐く。
「実は貴方の事は調整室長の木島さんから伺いました。」
嘉門の奴、今度会う時は覚えて居ろよと思いながらモクは続きを促した。
「私は戦争時はまだ駆け出しでしたが当時の・・・その・・・」
云いずらそうな表情にモクは助け舟を出した。
「G倶楽部ですか。」
ホッとした様に早瀬は頷いた。
「はい。お噂はかねがね。無論細かな内容などは知る立場では有りませんでしたが先日の事件の後、木島室長から伺ってもし出来るならお手をお借りできないかと思い伺った次第です。」
「警視庁の威信は如何される?」
幾ら公安部でも独断で軍を使うには無理が有ろう。モクの懸念はだが次の言葉で叩き返された。
「私は池袋で生まれ育ちました。」
鋭い隻眼が正面の男を見据えた。
「当時十三歳の子供だった私ですが今でも眼に焼き付けられています。ご存知ですか、あの事件の折住人の多くが自宅に閉じ込められていた事を。私の自宅はあの広場を見下ろすマンションでした。」
日本人暴力団と中国華僑との五日間に亘る壮絶な抗争は池袋を真っ二つに引き裂いた。
警察では手が出せずG倶楽部の最初で最後の国内出動となった事件であった。
日本人暴力団を率いていたのは今はフェニックス基地司令のキリ-だった。
「なるほど・・・懐かしい事を思い出させてくれる。」
当時二十三歳のモクも確かに其処に居た。
ジ-ンもウルフもローワンも・・・今では懐かしいばかりだが・・・
「生まれつき足に障害を持っていた私は、あの時も何度目かの手術の直後で避難も出来ず不安の中でそれを見ました。警察では手も出せなかった抗争を瞬く間に片付けたのが陸軍最精鋭G倶楽部だと知ったのはだいぶ後、大学受験を控えた頃です。国内事件史で取り上げられてはいましたがそれは大幅に短縮されていて・・・却って興味をそそられて調べたんです。」
「さして出無かった筈ですが、G倶楽部はあくまで裏組織ですから。」
低いモクの言葉に男は頷いた。
「叔父が警視庁の上層に居まして・・・警察の威信に関わると云いながらも少しだけ流してくれました。」
なるほど。それで木島調整室長に繋がるか・・・
「私は本当なら軍に入りたかったんです。脚がネックにならなければ。それほどあの事件の衝撃は大きかった。森田中佐、貴方もあそこにいらした。」
それは断定だった。
「古い話だ。」
思い出話が目的では無い。この先にどう繋がるのかをモクは聞きたかった。
「先日池袋に拳銃のバイヤーが潜伏しているとの情報を掴みました。」
切れるほどに鋭い隻眼が光る。
「中国人バイヤーとの噂もあるようだが。」
早瀬が僅かに頷く。
「今度事が起こったら三十年前と同じ騒ぎになる。だが幾ら警察が張り込んでも裏を描かれるし囮捜査も出来ない。
だけど事件が起きるまで待つことは出来ない、あんな思いはもうしたくないんです。」
「囮になれと云う事か。俺達には捜査権も逮捕権も無いが一般市民を装って近づけと。」
早瀬は歯を喰いしばる様に頷いた。
それを云い出すのは警官としてどれほどの屈辱か。
モクが考えたのは一瞬。
「了解した。」
「モク。」
ロブの声を僅かな動きで制して、即答したモクに驚いた様な表情を浮かべる早瀬に告げた。
「調整室からの依頼と受け取るなら出来無い事は無いが、ただ一つ。囮は俺のみで行う。他のG倶楽部員を動かす気は無いがそれで良いなら受けよう。」
「あ、貴方一人ですか。相棒の少尉は・・・」
「あれはキャラ的に無理が有る。あんな小娘が拳銃を必要とするどんな理由を思いつけるんだ。」
あんなに綺麗で可愛い暁に銃なんかは似合わないし、だいたいがそんな物は必要ない。
なのに。




