第一話:小さな恋のうた
新井賢護は、北関東のある地域に、四人兄弟の三男として生まれた。父親は警察官で母親は小学校の教員だった。彼の生まれ育った土地には大きな川があり、その流域には平野や小盆地、田園風景などが広がっていた。彼は、その土地と、貧しいが飾らない質素な生活の豊かさの中で、悩みらしい悩みもないまま幼少年期を過ごした。
彼の先祖をたどれば、江戸時代に大規模な利水・灌漑事業を推進した男の名前がひとつと、第二次大戦中、他家に嫁いだ姉を守るため、多くの土地を手放した男の名前が出て来るが、そんな彼らの功績も、いまでは、その肖像画や肖像写真とともに、いまにも崩れそうな蔵の片隅で、埃をかぶって眠っている。
賢護は、頭がよく、体力もあったが、争いごとが苦手で、勉強にしろスポーツにしろ、「努力して上位に入らないようにしていた」と彼の中学の担任は証言している。
中学卒業後、地元の進学校へと進んだが、ここでも彼は競争を避け、教科はもちろん、部活や友人関係においても、そこそこのポジションのみを取るようにしていた。当時の友人の言葉を引用しておこう。
「賢護は、ぼくがいままであった人間の中でも最も親切な人間のひとりだ。彼は、気に入った相手のためならどんなことでもしてくれたし、見返りなんてものは絶対に求めなかった」
そんな彼が最初の殺人を犯したのは十九の春。凶器は刃渡り10cm程の果物ナイフで、ひとり目の被害者は太田一真という会社員、ふたり目の被害者は彼の交際相手でアルバイト店員の薪谷みどりだった。場所は、薪谷の自宅。果物ナイフでの殺人はここまでで、その後賢護は、みどりの長男(当時十九才)を近くにあったハンマーで撲殺、次いで当時十七才と十五才だった次男と三男をそれぞれ同じハンマーと台所にあった文化包丁で殺している。
それから、五人の死体を風呂場に隠すと彼は、家の電話線を抜き、各人の携帯電話の電源を切ってから、太田が乗って来た軽自動車で、その家の末娘、当時十二才の薪谷友香とともに、現場から4km離れた農家・明石健人のもとへと向かった。明石の家と賢護の家は付き合いが古く、賢護は、健人が数本の猟銃を所持していたことを知っていたからである。
明石の家に着き、一時間も経たないうちに賢護は、健人の頭部を散弾銃で撃ち抜くと、寝たきりだった健人の母親、彼が飼っていた二匹の中型犬も、同じ銃で殺害している。
その後ふたりは、国道沿いのガソリンスタンドに立ち寄ると、そこの従業員の平川祐、たまたまその場に居合わせていた十代の男女、恩田顕人と宮下香織を殺害している。平川祐は、明石の家にあったハンティングナイフで、恩田顕人と宮下香織は、はしって逃げようとしているところを、明石のときと同じ散弾銃でうしろから撃たれている。
このとき恩田は、親からの借金で購入したというトヨタセダンの改造車でここまで来ており、賢護と友香は、それに乗ってその場から逃走、宮下の着衣が乱れていたことから、賢護が彼女への暴行を試みたのではないかという予測も当初あったが、その後の調べで、宮下香織への暴行を行なったのは恩田顕人だったということが分かっている。
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ここですこし、賢護と友香の関係について話しておこう。
彼らは恋人同士であった。彼の家族も彼女の家族も知らなかったが、彼らは、事件の三年前、彼が十六、彼女が九つの年に、結婚の約束をしていた。賢護の言葉を引用してみよう。
「彼女が十六才になったら結婚しようと決めていた。プロポーズは僕からした。彼女はぼく以外の誰とも結婚しないと約束してくれた。婚約指輪も渡している。ダイヤのはいった小さな指輪で、それは亡くなった祖母の宝石箱から盗んだものだ。彼女はそれを、とてもよろこんでくれた」
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次に殺害されたのは芹沢仁美という中年女性だった。彼女は、両親の実家で留守番をしていたところを襲われ殺されている。彼女の実家は土地持ちの資産家で、家には多くの現金と貴金属類が置かれていたからである。仁美の母・清美は帰宅後ナイフで、父の要人は、例の散弾銃で殺されている。要人の手には車のキーが握られており、賢護と友香は、ここでふたたび、車を乗り換え、要人が所有していた白のスカイラインで住み慣れた土地を離れている。
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薪谷友香の実父が誰か? それははっきりとしていない。
と言うか、それを言うなら、彼女の兄三人の父親も詳しいことは不明で、彼ら四人は全員、おそらく、父親ちがいの異父兄妹であった。
彼らの母親のみどりは、頭も悪ければ顔も姿も醜かったが、いわゆるカッコ付きの“恋多き女”で、高校で初めて、こちらもいわゆるカッコ付きの“彼氏”とやらが出来てからは、男を切らしたことがなかった。
母親も兄たちも醜い顔をしていたが、唯一の例外が友香だった。
「ぼくは彼女以外の誰にも恋をしたことがない」とは賢護の言葉であるが、なるほど、事件当時の彼女の写真を見ると、彼がその美しさにこころ奪われたのも分からない話ではなかった。
年齢はどうあれ彼女には、一種浮き世ばなれした優美さ、態度、雰囲気があり、大きな目と口、しろい肌、肩まで伸ばした髪の毛は、ときには赤く、ときにはブラウンに見える様子であった。
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芹沢のスカイラインが特定されたことを知るとふたりは、幹線道路沿いで車中泊をしていた会社員・小此木裕樹のホンダ・フリードを強奪した。目を覚ました小此木裕樹は逃げ出し、ライフル銃で背後から撃たれた。さいわい弾は貫通し、彼は九死に一生を得ている。
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最初の殺人の前夜、もう明け方近かったが、新井賢護は、突然はっとしたように目を覚ますと家を出た。はだしで、うす闇のなか、花をいっぱいにつけた木々の下を歩いた。とおくに沈みかけの月が見えた。なにかが彼の足もとにひざまずき、助けて欲しいと言った。
「いいよ、もちろん」彼が願いをききいれた次の瞬間、大地からにぶい呻きが聞こえ、大きな振動がそれに続いた。
沈みかけの月に血の色が混ざり、震えがおさまると彼は、自分がはだしで、寝巻き姿で、明け方ちかい夜の道をひとり歩いていることに気付いた。突然、とてもきまりわるい気持ちになり、急いで家へ、自身の寝床へともどった。
さいどの眠りにつくまえ彼は、先ほどあったことを想い出そうとして、誰も知らない秘密、けだものだけが知っているであろう秘密に気付いた。
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小此木裕樹のフリードは一代目で、パワー不足と横揺れ、それに斜め前方の視界が極端に悪く、運転慣れしていない賢護は接触事故を起こした。相手は中年の自営業者・池田耕作が運転する青の軽バン、周囲に人通りはなく、ふたりは激しい口論となった。
しばらくして賢護はライフルを抜くが、そこに巡回中の警察官・三浦孝志が通りがかった。明石一家やガソリンスタンドの件はすでにひろく知られており、三浦は賢護がその犯人、容疑者ではないかと判断、彼にいくつかの質問を投げかけるが、発砲されて左肩を負傷、賢護と友香は、池田耕作の軽バンに乗り換えると、さらなる逃走を続けた。
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薪谷友香はほとんど笑わない子どもだった。近所の友人やクラスメイトが数人、なんとか彼女を笑わそうと試したこともあったが、それでも彼女はことさらに笑わなかった。
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池田耕作の軽バンに乗り換えてから数時間後、とうとう彼らは捕まった。賢護は、割れた窓ガラスで右の頬を深く傷つけ、急停車の衝撃で軽いむち打ち症にもなっている。
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警察の取り調べに対して賢護は、終始、一貫して、彼が薪谷友香を誘拐したこと、一連の殺人に彼女は一切関与していない旨の供述をくり返した。殺人の動機については、ずっと口を閉ざしていたが、それでも最後には、おおむね次のようなことを語っている。
「彼女の母親は狂人だった。気が狂っていた。彼女は、彼女の恋人が娘を犯しているのを知っていてそれに気付かぬふりをしていた。いや、それどころか、彼女の美しさに嫉妬し、そのことで彼女をいじめ、なじっていた。彼女の兄たちも狂っていた。彼らは、母親や他の兄弟がいないときを見計らっては、代わるがわるに彼女を犯していた。彼女は、それを誰にも言えずにいた。そう。やつらは死んだ方がいい人間だ。ひとのこころを殺す人間は死んだ方がいい人間だ。絶対に、絶対に、絶対に。九回殺しても殺し足りないタイプの人間だ。もしも神さまなんてものがいて、ぼくにもう一度やつらを殺すチャンスを与えてくれるなら、ぼくはためらわずやつらを殺すだろう。何度でも、何度でも、何度でも」
誰かが賢護に訊いた――それでは、
「それでは、他のひとたちは? 彼らに罪はないのでは?」
「ああ、うん」彼は答えた。「わらってくれたんだよ」と。「彼女、ぼくが誰かを殺すたび、わらってくれたんだよ」と。しずかに、ちいさく、笑みを浮かべて、「声を上げてさ、うれしそうに、楽しそうに」
だから殺した?――誰かが訊いた。
「うん。そう」彼は応えた。「ほかに、どんな理由が?」
(おしまい)




