第75話 カール=キリトという男
『眠らぬ月の下で』
自由連邦の設立が正式に宣言された夜。
祝宴の余韻が残る執務室で、私は一人、窓の外を見つめていた。
遠くの空に、月が浮かんでいる。
淡く青い光が、まだ新しい旗――自由連邦の紋章を掲げた塔を照らしていた。
「……心ここにあらずって顔してるな、テイシア」
背後から聞こえたその声に、私は振り返らず微笑んだ。
「あなたには、いつも見透かされてしまうのね」
「隠しごとが下手だからな、君は」
苦笑交じりの声。やがて、彼――ラインは私の隣に並ぶ。
「……祝宴の真っ最中に席を抜け出してきたのかしら?」
「お偉方の堅苦しい話に付き合うより、君の横の方が落ち着く」
「お世辞ね」
けれど、私の頬はほんのりと緩んでいた。
この男が、私の心をほぐす術を知っていることに、少しだけ悔しさすら感じながら。
*
「……ライン」
「ん?」
「フリューゲン王国は、どう動くと思う?」
その名を出した瞬間、彼の身体がわずかに――ほんのわずかにだが――緊張したのを、私は見逃さなかった。
「自由連邦が成立して、周辺諸国は様子見に入ったわ。
でも……フリューゲンだけは、黙っていない気がするの。
あの国は……“理想”に敏感だから」
「……ああ。確かに、そういう国だ」
「……まさか、関係があるの?」
私は恐る恐る尋ねた。
この話題に触れるべきではないと分かっていながらも、知っておきたかった。
彼の過去。彼の根っこ。
「……キリト。フリューゲンの将軍。
今や“蒼狼将”と呼ばれてる男。あなたと……何か、因縁が?」
その名を告げると、ラインはふっと口元を歪めた。
苦笑――というには、少しだけ寂しすぎる笑み。
「……あの国に、俺の居場所はなかった」
「……え?」
*
ラインは、ゆっくりと窓枠に背を預けた。
「あの場所で俺は生まれ、そして、育った。血を分けた家族もいる。
けど、あの国には……俺が“剣”として生きることをあきらめさせた過去がある」
「……!」
「キリトとは……蒼狼将のことではない。キリトとは、カール=キリトのことだ。剣聖だ!本物のな。
彼には勝てない!俺とは違って彼の強さは、無敵、誰も勝てない! 俺が選んだのは“自由”で……彼は、“強さがすべて”だった」
その言葉には、痛みがあった。
過去を断ち切った男の、決して消せない記憶。
「……いずれ、決着をつける時が来るかもしれない」
「……!」
「でも、できれば会いたくない。いや、正確には会わせる顔がないのか」
その横顔は、まるで夜の月のように淡く、そして遠かった。
*
「……私は、怖いわ」
「テイシア?」
「自由を掲げたこの国が、また誰かの“正義”によって砕かれるのではないかと。
あなたが、過去に囚われて傷つくのではないかと……怖いのよ」
私は彼の手を取る。
その手は、いつも通り温かかった。
「私が王女だった頃、魔術を取る理由は“国”のためだった。
でも今は違う。……私は、あなたのために戦いたい」
「……ありがとう」
「カール=キリトって伝説の剣聖様よね? そんな伝説とあなたが知り合いだったことは驚きだけど、
でもね、ライン、今、あなたの隣には私がいるのよ。わたしが守ってあげる。カール=キリト、
わたしが倒してあげるわよ」
ラインは驚いたように私を見つめた。
そして――その瞳が、わずかに潤むのを、私は見逃さなかった。
*
「もし、フリューゲンが動くとしたら……」
「……カール=キリトは、正面から来る。卑怯な真似はしない男だ」
「あなたに、会いに来ると思う?」
「……いや、どうだろうか」
ラインは静かに首を振る。
「次に会うときは、きっと戦場かもしれない。……そして俺は、その時、生きていられるのか……」
「そんなに強い相手なの?」
「それでも。……必要ならば戦うしかないか、いや、むしろ戦いになるのか?」
月光が、彼の銀髪を照らしていた。
その姿が、なぜか神話の英雄のように見えて、私は胸を打たれる。
過去を乗り越えようとする男。
過去と向き合おうとする男。
私はその隣に立てることを、誇りに思った。
*
「……私も、会ってみたいわ。その人に」
「……カール=キリトに?」
「ええ。あなたと剣を交えるというのなら、なおさらね。
だって――」
私は微笑む。
「私の大切な人を、過去に縛ろうとする者なら……
この手で、解き放ってあげるもの」
「……それは、怖いこと言ってるんだぞ?」
「ふふ、冗談よ」
でも――その瞳は、冗談ではなかった。
私がこの命をかけても守りたいと思った人。
それが、ライン=キリトだった。
どれほど過去に傷を負っていても。
どれほど深い闇を背負っていても。
私が、この人を連れて行くのは、光の中だと――そう、信じている。




