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千夏とのキスの余韻に浸っている時間はなかった。考える余裕もなくひたすら山道を自転車で登り、耕太は家の勝手口から室内に入った。そのまま自分の寝床に直行し、一分も経たないうちに眠りの中に落ちていった。
目が覚めたのは午後六時。
「マジっすか」
ドラえもん目覚ましがとうとう壊れたかと思ってphsでも確認したが、やっぱり午後六時だった。一日寝て過ごしてしまった。
「耕太どうしたの? こんな時間まで寝てて。冬休みだからって自堕落すぎよ。おなか空かないの?」
障子を開けて、母が呆れ声で話しかけてくる。
眠りすぎたせいか、頭がぼんやりしていた。耕太はあくびをしながら台所に向かった。
「まだ夕飯の準備できてないわよ。おなかが空いてるなら、適当にそこにあるもの食べてなさいよ」
「父さんは?」
「さあ? 一人で将棋でもしてるんじゃない?」
忙しそうに母がサラダ野菜の水をザルで切っている。キッチンのコンロでは、てんぷら鍋から油が飛んでいる。話しかけづらい雰囲気だ。
耕太は自分の畳部屋に引き返した。やることがとくに浮かばない。台所の隣の居間に行き、絨毯に座ってテレビを見る。チャンネルは街のローカル局だった。六時のニュースだった。この番組は、地元密着のコアな事件を扱うことが多く、それなりに視聴率も高かった。耕太はたまに見ることがあった。
『皆さんこんばんは。今日は木在町のとある工務店の前に来ております。こちらの工務店、一軒家のリフォームをメインに行っていたのですが、つい先日倒産して、請け負っていた工事を途中で放棄し、お客さんと連絡を絶つという非常に悪質な行為を行っておりまして――』
リポーターの話を聞いているうちに、耕太はハッとなった。
――これって、うちの親が契約した工務店じゃないのか?
耕太は立ち上がってテレビに歩み寄った。中腰になって画面に顔を近づける。。
画面の右上には『Live』のテロップ。生放送だ。
『この時間に元社長がやってくるという情報を入手し、現在に至ります。果たして元社長は現れるのでしょうか』
ずいぶんアバウトだな、と耕太は思った。その情報がガセ、もしくは、元社長の気が変わってこの現場にやって来なかったら、番組が成り立たない。こういうローカルの緩い所が面白いのだが。
耕太はあまり期待しないようにしつつも、テレビ画面から目を離さなかった。もし本当に元社長が現れたら、彼が今どんな気持ちでいるのかわかるかもしれない。
『あ、来ました! 来ましたよ皆さん!』
リポーターの声が興奮で裏返った。なんとか番組の面目が保たれたようだ。
元社長らしき男の顔は、絶妙なカメラワークで影になっていて見えない。服装は上がセーター、下がチノパンだ。体格は良さそうだ。
『すみません! 社長! お話をお聞かせください!』
建物に向かって坂道を降りてきた男に、カメラマンと音声、そしてリポーターが駆け寄った。
『なんだよお前たちは』
男の首元がズームアップされる。顔はやはり隠すようだ。
『お客さんからもらった前金は返さずに、工事をストップしてそのままにしているそうですが、これからどうするんですか? 返金する意志はありますか』
『そりゃあ返したいのは山々だけど、今は手元に金がないんだよ。金がないから倒産したんだし』
『じゃあ返金は不可能なんですね』
『だからぁ、返したい気持ちはありますよ。でも今は無理なんだよ。追々ですね、金の目途がついたらお客さんに誠意をもって対応したいと思ってます』
『お客さんによると、そちらと連絡が取れないとか』
『電話止められてるんでね。じゃあ』
リポーターと元社長のやり取りを聞いているうちに、耕太は腹が立ってきた。
――誠意なんて一ミリもないだろ、こいつは。
元社長が顔を隠しながら、建物を目指して走り出した。レポーターがしつこく後を追ったそのとき、坂を降りてくる車が画面に映った。よく見る車だ。メタリックブルーの車体は暗がりによく映えた。――そう、週一回汲み取りに来るバキュームカーだ。
――なんでこの現場に来るんだ?
その疑問の回答は、すぐに得られた。
カメラの照明が、一瞬だがバキュームカーに当たる。フロントガラスに作業員の顔が映った。
――あいつだ。あの、態度がひどい年配の。
バキュームカーは、報道陣に向かってゆっくり、ねちっこく近づいていく。
『なに、くさっ』
カメラマンか照明が声を上げた。
カメラが引いた。バキュームカーの臭さに及び腰になったのか。
――やっぱりあいつもグルだったんだ。母さんに悪態を吐いて、リフォーム意欲を煽ったんだ。
工務店、バキュームカーのおっさん、そして日野の爺さんが結託していたのだ。
――ふっざけんな、この……! お前らのせいで俺の家は九百万も。
額がかあっっと熱くなった。歯を食いしばり、拳を作る。
――こんな奴ら、世の中に必要ない。死ねばいいんだ。
画面の隅に、元社長の靴先が映った。バキュームカーが坂道を徐行している。
――ふざけんじゃねえ。
心の中で叫んだ瞬間、ドン! と体の中で音がした。
テレビの中で、バキュームカーが元社長にぶつかった。
耕太は喉元を押さえた。体が発火したように熱くなる。こめかみがズキズキと痛む。
テレビの中で、バキュームカーが横転した。と同時に、何か黒いものが、車についたドラム缶から噴出した。
『きゃああっ』
リポーターの声。
耕太は絨毯に尻もちをついた。
頭が痛い、歯が痛い。全身が熱い。鼓膜が破れたんじゃないかと思うほど耳が痛い。
テレビ画面はピーという音を立てたあと、ブラックアウトした。




