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第三章-2

 前方が唐突に開けた。アルフリートが舌打ちする。

「そうか……」

 そこは、リシェルのために、庭師が開墾してくれた森の端。

 リシェルが来て、花が植えられ、元あった姿とは変わっている。

「リシェルがここを作ることも、計算のうちか?」

「いいや? 偶然だよ」

 柔らかく、鼓膜から脳髄を伝うような声が、いきなり響いた。

「お嬢さんが、城の設計図にはないものを作るというから、便乗して少し、私の魔法をねじ込ませただけで。お嬢さんは悪くない」

 リシェルが振り向くと、はたして、灰色の髪の紳士が、上着の裾すら乱れもせずに立っていた。

「さてアルフリート。君は、どうするつもりだ?」

「お前がさらった竜を、返してもらおう」

「できない相談だ。アレは私が使う」

「本人が嫌がっている。ロス・エルスは、竜を使った呪いを行わなくても、十分女王陛下から下賜された仕事をこなしているし、繁栄している。森に返してやれ」

「嫌だね」

 紳士の姿で、いっそ可愛らしい仕草で灰髪のレスタートは断った。

「君達に私を止めることはできないよ」

「どうかな」

「君は、私を捕まえて告発すれば済むと思っているのかい? 外交は全て私が行っているし、君は外部の人間に顔を見せておらず、信頼されていない。君の言い分よりも私の労苦を、諮問機関は理解して融通するだろう。では、私を殺す? 力で言うことを聞かせる? ナンセンスな話だ。私を害することを、そこのお嬢さんはきっと許せないだろう? 私がいかに悪者であってもね」

 知ったふうに水を向けられ、リシェルはいくらか、むっとした。

「私だって、ひどいことくらい考えます」

「どんな?」

 思いつかなかった。

 笑いを噛み殺したレスタートに、アルフリートが舌打ちした。

「よせ。リシェル、お前まで、あいつのような考え方をしなくていい」

「! 思いつきました!」

「えぇ?」

「学校に行って、子ども達にくすぐられまくるとか! です!」

 沈黙が降り積もるのをよそに、リシェルは勢い込んで、むせながら言った。

「どうですか! 嫌なことも悪いことも、考えつかないくらい、笑い転げて楽しいですよ。貴方の腹黒さも、洗い流されてすっきりします!」

 レスタートが、アルフリートよりも先に気を取り直した。

「……いや、昔からある、刑罰の一種のことかと思ったが……そうか、お嬢さんの発想では、それは幸せなことの部類に入るのか」

「いけませんか?」

「さぁ」

 レスタートは軽くはぐらかす。視線が、アルフリートへと舞い落ちた。

「私はロス・エルスの存続のために行動している。この城も、今はロス・エルスの傍系がおさめているが、呪いを掘り返して戦争の道具に使いたい連中も多く居る。もし本家の権力が緩めば、どうなることか分からない。本家は、もっと、きちんと、周りに能力を見せておかなければならない。……もちろん、隠れたところでも力を蓄えながら、ではあるけれど」

「お前も、呪いを掘り返して、強大な力を手に入れたい方の人間ではないのか?」

「私は、君が思うよりは随分小さな人間だよ。古い呪いは、封じておいて構わない。――可能であれば、それを自分の力と同化させてみたいと思わない魔法使いも、いないだろうがね」

「だからって、人を呪ったりそそのかしたり、死なせたりしなくたって! いいはずなのに!」

 リシェルは声を枯らして叫んだ。竜が呼応して鳴いている。すぐ近くにいるようだ。

 レスタートが喉で笑った。

「アズライルのことか? それとも、あの竜のこと? 君が助けようとした、あの一つ目のは虫類のことか? ばかだね」

 哀れみと愛おしさを込めて囁かれ、リシェルはぞくりとした。

「お嬢さん。結果的にこうなったことについて、遺憾ではあるけれど、私はそれでいいとも思うよ。皆、少しは身にしみて分かってくれただろうし」

「何がだ」

 アルフリートが問い返すと、レスタートはやれやれと肩をすくめた。

「君達の生活を維持するために私がしているあらゆることについて。そして、そのために必要な協力を、君達が拒んできた、ということについて」

「前者については、本家の当主代理として働いてきたお前に感謝する。だが、後者については、断って当然の話だ。ロス・エルスに攻撃を仕掛けてきた田舎魔法使いがいたようだが、それについては、少し脅せば済むし、防御していれば問題ない」

「それでは済まないから頼んでいたのに。いつもいつも、断るばかり。つまらない子だね、君達は」

 ――それが、彼の中に積み重なってきた、アルフリートやアズライルへの苛立ちを、悪意へと変える最後のスイッチになったのだろうか。

 真意を見せることなく、作られた笑みを浮かべて、レスタートは目の前に立っている。

「残念だねお嬢さん。私も、優秀な身内を失うのは、とても悲しいことだと思うよ」

「他人事のようですね……?」

「そうだね」

 竜が吼える。空気がびりびりと氷のように震動した。

「交渉は決裂したようだし、私は意見を取り下げるつもりもない。――命令には従って貰う。君達の最低限の自由のみ保証しよう」

「断る。ロス傍系とはいえ、私は城を継承し、女王陛下に伯爵の名をいただいた身だ。他の誰にも跪かない」

「では勝負、か」

 とん、とレスタートが、踵で、土くれの地面を蹴った。そこを中心として、見る間に闇色が広がり、楕円を描いてアルフリートやリシェルを取り囲む。

 アルフリートは慌てず、何かに命じる。火花が闇を切り裂くが、数度、庭の景色が見えただけで、すぐに穴は塞がってしまった。

 ぬるりとした感触がして、リシェルは悲鳴を飲み込んだ。真っ暗で何も見えない。だが、ただ暗いだけの闇ではない。でき損ないのプディングのようにたるみ、たわむ何かが、壁となってリシェルを押している。同時に、その壁に体が触れると、ぎざぎざしたものが飛び出してきて、全身に突き刺さろうとした。意識が吹き飛びそうになる。

(代われ!)

 目眩がした、リシェルの一瞬の隙を突いて、アズライルが体を乗っ取る。

 トゲだと思えたものは、全て、髪の毛ほどの細さの針状で、壁から何度も出入りしていた。アズライルがそれを焼き払い、あるいは凍らせて砕き落とした。

 激しい雷の最中のように、鋭い光が飛び交った。リシェルの意識も、アズライルと何度も瞬間的に入れ替わった。

(まるで蚊の口みたいなトゲ……? 血を吸われるのかしら)

 と考えながら、リシェルは、なすすべもなく、アズライルの動向を見守る。

「きゃ」

 リシェルの意識が、今度はいくらか長く戻った。そして自分の足がもつれて、バランスを崩した。

「えぇ!?」

 足下に地面はなかった。落下による浮遊感で、胃の腑が裏返った。

「待て!」

 アルフリートが手を伸ばし、リシェルと一緒に穴に落ちた。

 抱き込まれ、リシェルは思わずしがみつく。穴が狭い。背中にも足にも、何かがぶつかる。粉々に砕けた星のようなものが、ときおり辺りを照らし出した。それもすぐに消える。音さえ絶えて、リシェルとアルフリートは、ただ落ちていた。

「止まったな」

 アルフリートの声が響いた。手で足下を叩くと、確かに床があるようだ。目が慣れて、アルフリートの姿も見えた。

 片目を押さえ、アルフリートはしゃがみ込んでいた。膝をついて、リシェルは肩を支える。

「大丈夫ですか?」

「磁場負けした」

 その意味はよく分からない。ただし、いろいろなものがぶつかって火花が飛んだことはリシェルも知っている。

「目がちかちかするということですか? 見えますか、治りますか?」

「一時的に目を開けられないだけだ、視力は失っていない」

 おそらく、と、アルフリートからはいくらか自信のない返答があった。リシェルはアルフリートの顔を覗き込む。

「ここにいても安全ですか?」

「ここは、城の地下だろう。「扉」が、数多く眠っている」

 「扉」という言葉に、リシェルは、城に来たばかりの頃、踏み込んでしまった場所のことを思い出した。

「灰髪は、「扉」の管理を任されていない。故に、私を落とすことができても、代々の城主がかけた防御をかいくぐって、自分でここへは来られないだろう。灰髪から攻撃を受けないという意味では安全だが……あまり長居したくないな……当然だが、ここは異界に通じているから」

 リシェルは姿勢を低くしたまま、辺りを見回してみた。室内は薄暗い。いくつも、扉が並んでいた。

 部屋の壁についているものだけでもずらりと十数個。他にも、薄い姿見のようなものが、室内に乱立している。鏡として、リシェルやアルフリートを映しているものもある。だが、ドアとしての取っ手もついていた。

「……これは、全て異界に繋がっているんですか?」

「そう。竜の呪いでねじれてできたものだけではない。……かつて魔法使いどもが、呪いを試しては、次元を切って、手に負えないものを捨ててきた」

 呪い。

 その言葉だけで、危ないということはリシェルにも分かった。

 呪いとは、幼い頃のリシェルの心に、穴を開けたもの。竜を苦しめたもの。人や他の生き物の命を奪い、恨ませるものだ。

「出口は分かりますか?」

 アルフリートは、魔法使いとして優秀かもしれないが、今は万全ではない。リシェルは逃げ道を探すべく、立ち上がった。

「下手に動くな、場が乱れるだけで「向こう」から押されて開く「扉」がある――」

 アルフリートの小声の制止に、リシェルはふと足を止める。ふすー、と鼻から息をして、待機していると、いいから戻れ、とアルフリートに呼ばれた。

「すみません、急に動いたりして」

「いい。近くに居ろ」

 闇色の服装のせいで、アルフリートはあまり目立って見えなかった。リシェルは彼にぶつかって、引き寄せられて座り込んだ。

「ご、ごめんなさい……!」

「いいから静かに、」

 前触れはなかった。

 いきなり、がちゃりと、「扉」の一つが開いてしまった。

 以前リシェルの入った、有象無象の住まう場所へと通じる「扉」とは、違う。

 「扉」の内側は真っ暗に塗りつぶされている。何も見えない。群れ咲く花の気配がするような、強い違和感が、冷たく、こちら側へと吹き込んできた。

 白い花びらが、リシェルの頬に張り付いた。

 こつ、と石床を叩く物音がする。

 「扉」の奥の闇が破られた。真っ白なものが頭を下げ、蹄を鳴らして室内にしずしずと踏み込んできた。

 馬に似ているが、額には、長く鋭い角がある。

「……ユニコーン?」

 伝説で聞く生物にとてもよく似ている。だが、アルフリートが片目を押さえたまま、残る方の目で睨み据えている感じからすると、そう清らかなものではないのかもしれない。

「扉の内側へ帰れ」

 ぽつりと、アルフリートが命じる。ふわりとした銀色の風が起こって、ユニコーンの周りを回ったが、それだけだった。

 ユニコーンのようなものは、少し首を巡らす。ふと気づいたように、こちらに視線を固定した。

 何を考えているのか分からないほど、澄み切った青の瞳。

(アズライル様も、青い瞳。でも、それとはきっと違う)

 アズライルは、冷たかったり優しかったりする。ものを考えて、人の言葉や道理を理解できる思考を持っている。

 リシェルはアズライル本人と面と向かったことはない。けれど、日記帳でのやりとりで、彼の丁寧さ、几帳面さ、優しさを知っている。多分、このユニコーンのように、ガラス玉の目でものを見つめることは、ないだろう。そう思える。

 どちらかというとこれは、灰髪の紳士の眼差しとよく似ている。

 頭を下げて、ユニコーンが近づいてくる。

 ユニコーンは、聖なるもの以外に触れると死んでしまうと言われている。ユニコーンに似たこの生物が、同じなのかどうか分からない。だが、角を下げて近づく仕草は、牛などが相手を気に入らなくて、角で突き上げる前の様子によく似ていた。

「だめ」

 リシェルはアルフリートの前に出た。両手を広げ、飛びかかられたらしがみついて邪魔をしてやる、という意思を表示する。

「よせ!」

 アルフリートの声に、我に返る。そして思う。

 どうか、この目の前のものが、優しい生き物でありますように。

(とっさに前に出てしまったけれど、私は死ぬつもりなんて、これっぽっちもありませんから……!)

 願いながら、リシェルは思いっきり、ユニコーンを睨みつけた。青い目が、リシェルを静かに見つめ返した。

 どれくらい睨み合っていただろう。

 ユニコーンは首を上げて、ふんと勢いよく鼻息を吐いた。そして来たときと同じように、こつこつと蹄を鳴らして、「扉」の向こうに戻っていく。

 風が吹き、「扉」が閉まった。

 夜とクローバーの薫りが残った。

「呆れたな……お前は、メアリアンを助けたときにも、アズライルを睨んで追い払おうとしたと聞いたが……」

「まっ、まさか……っ、逃げてくれるなんて……あぁ」

 今更ながら、膝ががくがく震える。くずおれたリシェルを、アルフリートが後ろから抱き留めた。

「あり得ないことではない。アレは「鏡」だ」

「鏡?」

「あの「扉」は、人の内側の闇に通じている。究極的には、死への恐怖。……ある意味アレは、お前の内側の「穴」とも通じているのかもしれない。そういう、闇だ」

「私が畑の遺体を見てしまったときの、心の怪我ですか?」

「そう」

「……では、あのユニコーンを、抱きしめて、撫でてあげたらよかった」

 リシェルは何だか残念に思う。あれが自分の内にいる者であるなら、そうすればよかった。

「そうか。では元気があれば、また来ればいい」

「そう簡単に来られる場所ではないみたいですけれど」

「そう。だが、ソレはお前の内側にある」

 楽しげに笑って、アルフリートはリシェルの肋骨を軽く指で突いた。

「! 伯爵、女性に向かってそれは失礼です」

「は? あぁ、それは」

 うやむやに、口の中で言葉を転がしてごまかして、アルフリートはどうにか立ち上がった。

「そういえば伯爵。どうして、あれが私の、……私の「扉」と呼んでもいいのかしら、それだと分かったんです?」

「私は、城の「扉」の区別はつく。闇を見せる「扉」だと、すぐに分かった。そして、私は既に、己の「扉」と相対したことがある。いつかお前も見ることがあるかもしれないが――あんなふうに、美しい夜の世界になど、住んでいないよ。あれはお前のものだろう」

 なぜだか胸が苦しくなって、リシェルはアルフリートの腕を取った。

 歩き出す。

「伯爵。目は大丈夫です?」

「あぁ、もうあいつに受けた魔法の残滓はない。むしろやり返すいい方法を思いついた」

「……貴方は。そういう、悪巧みをするような方でしたか?」

 呆れたリシェルに、アルフリートはかすかに笑いをこぼした。

「お前が私の、何を知っているというんだ」

 それはまぁ確かに、リシェルは、ある日いろいろな経緯から、城にやってきただけの人間だけれど。

 アルフリートは、自信に溢れた声で言った。

「案ずるな。いつであれ、最後にお前を助けるのは私だ」

(何て傲慢な言葉!)

 リシェルは思わず笑い出す。城に来たときは、さほど近くなかった人が、今はこんなにも近いと思える。

 暗闇の中で繋いだ手が、もやい綱のようだった。ゆらゆらと心が揺れている。


 闇がうっすらと晴れていき、やがて見慣れた、城の廊下に出た。

 どんな魔法か分からないが、アルフリートと手を繋いでいたら、あまり怖くない道のりだった。

 外へ出て、再び庭を抜ける。竜を連れて逃げられているかもしれない、と思ったが、竜はまだ、リシェルのことを呼んでいた。

「役に立たないかもしれないが、防御魔法を与えておく。アズライルも借りていくから、気をつけて行けよ」

「はい。伯爵、きっとやり遂げてみせますね」

 いったんアルフリートと別れて、リシェルは一人で、竜の声のする方へ向かった。

「伯爵とはぐれてしまったわ!」

 わざとらしく言いながら、リシェルは生け垣に頭を突っ込む。

「リシェル?」

 真正面に、リオの顔があった。

「あら、リオ! 大丈夫?」

 手を伸ばすと、ざらついたものが肌に触れた。竜の首に、荒く編んだ縄がかけてある。

 ほどこうとしていると、急に生け垣がぐしゃりと左右に分かれた。地面に転がり、リシェルは急いで起き上がった。

 泥だらけのまま、微笑んでいるレスタートを睨みつける。

「貴方はさっきから、直接、殴りかかったりしてこないんですね」

 これほど近くにいるのに、魔法を使い、それすらリシェルを直接傷つけきらない。

「自分の手を下すのが、そんなにお嫌なんですか? なぜ、穴に落としたりしたんです。ちゃんと伯爵にぶつからないの!」

「君は誰の味方?」

「質問に答えていただけないんですか?」

「相性が悪いからさ」

 レスタートの答えは、単純で明快だった。

「アズライルは力が大きすぎて、自滅する。私が手を下すまでもなかった。アルフリートは城を防衛しなければならないという制約上、城に施された歴代の防御魔法の恩恵を受ける。城を離れていてもそれは基本的には有効だ。城内で力をぶつけるには、アズライルが好適だった」

 竜が――リオニールが低い声でうなる。リシェルは視線をやって、竜の牙と爪の鋭さに、改めて驚いた。

 初めて見たときは犬くらいの大きさだった。次に現実世界で見たときにはベッド一つを占領できそうな大きさだった。今はそれよりずっと、大きい。飼える代物ではないことがはっきりと分かった。リシェルの夢の中で寝そべっていたのは、竜だったからなのだろう。

「さて、お嬢さん。アルフリートは一体何を企んでいるんだい?」

「何もありません。はぐれてしまったから、どこにいるかも分かりませんし」

「いけないな」

 灰色の目が、すうっと細められた。リシェルは腹に力を入れた。

 竜は、後退した生け垣を睨んでいる。そこにいるのがきっと、彼なら。

「貴方は、私を直接、ぶったりできる人でしょうか?」

「何を急に?」

 リシェルは、一歩踏み出した。

 両手を広げる。

「私、武器は持っていません」

「そのようだね」

 また一歩、リシェルは踏み出す。竜が警戒するように吼えた。レスタートがそれに気を取られた隙に、リシェルは彼に駆け寄った。

「! 何を!」

 リシェルに抱きつかれ、レスタートは振りほどこうとして、もがいた。アルフリートと違って涼しい、香水の香りがした。その底に、薬草の妙な匂いがしみついている。

 こんなにひどい人なのに、体温は人並みにあるらしく、温かい。

「兄上」

 茂みを分けて、彼が現れる。

「……アズライルか?」

「兄上」

 それは、まだ若い学生程度の、少年に似せた人形だった。大きなガラス玉の目が、青々と輝いて填められている。まだ動き慣れておらず、一歩進むと膝ががくんと落ちてしまう。首も反対側に曲がった。

 リシェルは、レスタートに抱きついているので、「兄上」の表情が見えなかった。ただ、硬直していることは分かった。

 アズライルが片手で、自分の頭を前に押し戻した。

「利用されたことは、私が愚かだったので仕方ありません。勉学に逃げて、家の仕事を避けたのも、私が悪い。でも、兄上は、私が死んでも構わないと思うほど、怒っておられたんですか」

 アズライルの口元は全く動いていない。空洞の胴に、直接声が響いて、広がる。

 アルフリートが先日、メアリアンに指示して持ち帰らせた物だ。アズライルの、代わりの体。アズライルの本来の体は土に返されたが、その土を、精巧な等身大の人形に混ぜこみ、魂を呼んで「よりしろ」とした。リシェルは、さっき、アルフリートに口頭で聞いたけれど、目の当たりにすると恐れを抱いた。

 アズライルは、死んでいるのだ。生きていないモノの体を借りて、うつろな声で喋っている。そのことは、理屈ではない、恐怖だった。

「兄上」

「まだ、アズライルを入れるための準備が整っていないため、無理矢理、今だけ入れてみた。よかったな、そいつはお前を祟りたいわけではないらしい。安心しろ」

 アルフリートが声だけで笑う。

「どこだ」

 リシェルを張り付けたまま、レスタートはぐるりとその場で回った。アズライルが近づいていく。

「あにうえ」

「どこにいる!」

「あにうえええぇえ」

 アズライルがあっという間に距離を詰めた。すぐ近くに、息の通わぬ体がある。冷気が肌を撫でる。リシェルは思わず目をつぶった。

「どうして、もっと、叱ってもくれなかった」

 泣き声で、アズライルはレスタートにしがみついた。リシェルは離れ、場所を譲った。

「どうして……! そこまで」

 アズライルの青い瞳は、ガラスでできていて、涙は出ない。ただしがみつく腕の強さ、必死さは伝わってくる。

「私を殴りもしないのか……アズライル」

「兄上のことを、ずっと、尊敬していたから……だから、私は、どうしたらいいんですか? 呪いも恨みも、もう、たくさんだ」

「そういう素直なところが……憎みきれなくて、利用するには最適だったよ」

 レスタートが微笑んだ。アズライルの頭から首を、緩く撫でる。アズライルがびくりと痙攣し、地面に落ちた。陶器なのか木なのか、軽く、壊れやすい音が響いた。

「――このまま私の傀儡として操るには惜しいくらいに」

「そういう性格だから、王宮でも貴族相手に腹黒合戦ができるんだな」

 アルフリートが呟いた。竜の縄をほどいて、庭の片隅に捨てているところだった。

「アズライル。遊んでないで働け」

 アルフリートはステッキを持ち上げた。レスタートに支配されたかに見えたアズライルも、腕だけをゆらりと上げる。

「呪いをかけることは、私やアズライルにとって不得意分野だが、お前の専売特許でもないんだよ!」

 青紫の強い光が、流星となってレスタートに降り注いだ。リシェルの肩にも落ちる。熱くはない。冷たい、氷のような星だった。

 リシェルは怪訝に思い、目を上げた。

「? 伯爵、これは一体」

「私は「扉」を管理し、「封印」を行う者」

 アルフリートは晴れやかに笑う。

「そして呪いを行う一族において、それを解く者である。そのことを忘れかけた私を、リシェル・カーライルが引き戻してくれた。私は彼女に、感謝しなくてはならない。そこでこの後、本件について意見を求めたい」

「えっ? 何をおっしゃって――」

 ぽん! と、コルク栓を抜くような、花の開くときのような、軽い音がした。

「えっ?」

 レスタートの姿が見当たらない。代わりに、子猫のような小型の竜が、ちょこんとその場に座っていた。リシェルが助けた竜よりも、遙かに小さい。

「ロス家の者には竜の血が流れている」

 アルフリートがいくらか重々しく言った。

「今回のカタチは、封じて封じて、器を制限したものだ。……まさか、灰髪の能力を制限した結果として、竜型になるとは思わなかったな」

「キャ!」

 レスタートは人語を話せず、竜の声で文句を吐いた。ぼ、と小さく炎が出る。だが、それは見かけ倒しのようで、燃え広がりもしなかった。

「実際に竜になっているのではない。見た目だけだからな。浄化の炎など扱えまい」

 アルフリートは、倒れたアズライルにステッキを向けた。人形はふっと姿を消す。

「さて、奥方」

 おどけた口調で、アルフリートがリシェルに聞いた。

「この竜を何とする?」

「よかったですね、命までは取られなくて」

 戻してやれと言うには、レスタートはひどいことをしすぎている。考えあぐねて、リシェルはレスタートの頭をそっと撫でた。

「お願いですから、分かり合えないとしても、お互いの存在を否定しないで。貴方は人間です、人を思いやるという気持ちを、持っておいでの筈です」

「では、本件はこれまでとする。レスタートは我々に悪意を持つとき、この姿になるような呪いを与える。無論、そこの大型の竜に、灰髪が手を出そうとしても、防衛できるだけの魔法も絡めてある」

「これはいいや!」

 大きな翼を広げて、竜が楽しげに手を叩いた。

「リオ。怪我はない?」

「リシェル。これで僕は自由になれる。僕はもう行くね。会いたくなったり、用ができたら、夢で呼んで。もう人間に見つからないくらい、森の奥に行くつもりだけれど、夢でならすぐに会えるよ」

「ありがとう、リオ」

「あのさ、リシェル。結局、君、僕のことを選ばないの?」

 竜は、ちょっと照れくさそうな声で聞いた。アルフリートの肩が、ぎしっとこわばる。

「ん、そうね。ごめんなさい。私は人間だし、自分の生まれ育った街のことも愛しているの。貴方については、行けないわ」

「だよね」

 じゃあ、と竜は、大人しく飛び立った。


 庭木を元に戻す。迷路が解かれ、玄関付近までよく見えるようになった。

「よ!」

 玄関先で、ルーベンスが血塗れの剣を提げて、手を振った。

「ルーベンス。お前は何をしてたんだ」

「俺? 大変だったよ。何しろようやく、ただの人間の集団が来て、執事を襲ったりし始めてくれたんだぜ? 俺、大活躍!」

「分かったから、剣をしまえ」

「血糊を拭かないと、錆びるから嫌だ」

「じゃあさっさと拭け! 教育上よくない」

 アルフリートの牽制に、ルーベンスはリシェルを見た。にこ、と屈託のない顔で笑う。

「いいじゃん別に!」

「お前はっ……」

「あの、メアリアン達も無事ですか?」

 リシェルの問いに、ルーベンスは顎で建物を示して見せた。

「中。元気なんじゃない? 執事が点呼取ってたけど、負傷者も出てないみたいだし」

「よかった」

 ほっとしつつ、リシェルはアルフリートに続き、建物に入った。

 覚えていろとも言えないで、灰髪――レスタート・ロス・エルスは、竜型のまま箱に詰められ、馬車で実家に送り返された。

 ときおりポン、と箱の中で火を出す音がしていた。

 その後、自力で魔法を解いたようだ。仕事の場には、人の姿で現れていると言う。ただし、完全ではない。くしゃみや咳の際に、一瞬にして、あの可愛らしい小さな竜に化けてしまう。社交界でその姿を披露して、たいそう恥をかいたそうだ。

「まぁ、いい気味だな」

 書斎でお茶を飲みながら、アルフリートが呟いた。レスタートの近況を聞いて、ルーベンスはクッキーを口から離した。

「でもさ、あいつ、社交界のお嬢さん達には、可愛いって言われてるんだろ? むしろプラス要素なんじゃない? キャッチーさが付け足されてんじゃないの?」

「灰髪が私に悪意を持ったときには、竜もどきの姿に戻るようにと呪ってある。不完全であれ、竜化の呪いが残っているというだけでも、清々する……!」

「ふうん。魔法使いっていうのはアレだな。おかしいよな。殴り合ったり、すぐに決着がつくもんじゃないせいで、ややこしいな」

 リシェルも小刻みに頷いた。追加生産分のバラのジャムを、お茶に入れて口に運ぶ。

 アズライルも、人形へ定着するまでに時間がかかるそうだ。兄であるレスタートと和解するまで、さらに時間がかかるだろう。人形に憑いたら、リシェルの「穴」を塞ぐか、あるいは防御するための魔法開発をすると言っている。それまでは、眠っているリシェルの近くにいて、悪いものを追い払ってくれるそうだ。

「あぁそうだ。リシェル」

 何気なく呼ばれ、リシェルはアルフリートに振り向いた。

「何でしょうか?」

「女王陛下から、ご両親とリシェル宛に手紙を預かっている」

「……じょおうへいか?」

「バラのジャムのできがよかったので、先日いくつか献上した。その礼だろう」

「! そうなんですか?」

 ひとまず受け取る。リシェルはルーベンス達に覗き込まれ、半信半疑で封筒を開いた。透かし入りの薄紙は、指先にふわりと柔らかい。

 バラのジャムについて、優しい口調で褒めてあった。

「あら、もう一枚あります。伯爵宛だわ」

「何」

 アルフリートが眉をひそめる。

 ――お前の妻は、とても気の利く娘のようですね。

 と軽やかな筆跡に乗せて女王は知らせる。

 ――アルフリート伯は、いつも仕事を嫌がっているふうでした。このまま、呪われた地の封殺を辞めてしまうのではないかと危惧していたけれど、大丈夫でしょうね。これまでは、身内のいずれをも城に置かなかったけれど、妻は、お前が諦めようとする局面でも支えてくれることでしょう。

 一枚きりの手紙だが、いちいち釘をさしている。

「私……妻ではないんですけれど」

 読み上げたリシェルは、伯爵宛の薄紙を、アルフリートの手に返した。

「そう簡単に役目を投げ出せるものか」

「いちいち真面目なんだからもー。苦労ではげても知らないよ」

「横から口を挟むな」

「同じ部屋にいるんだから仕方ないじゃん。そうじゃん。しょうがないじゃん」

「机から下りろ」

「やだっ、旦那様があんな横暴なことを言う」

「可愛い子ぶるな」

 軽快なやりとりに対し、メアリアンが冷ややかな視線を送っている。

 リシェルはふと、表情を改めた。

「伯爵。いろいろとお世話になりました」

「これが最後のように言うな」

「そうだそうだ。まだ結婚式も挙げてないのに」

「お前は黙っていろ」

 机の上には、バラのジャムの空瓶が置いてある。陽光を浴びて、きらきらと輝く瓶には、水糊のシールが貼られている。

 ロス伯爵夫人のバラのジャム。気の早いネーミングに、今は皆が苦笑するけれど。

「伯爵」

「何だ」

「いつか、伯爵の「扉」を見てみたいです。それまで、ここにいてもよいですか?」

「……、そうだな、いつか」

 アルフリートは、つかの間躊躇うが、最後には頷いて、微笑んだ。

 ――未来のことは、分からないのだ。


 了


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