第1章:1.1 豪雨の中の遠心力
台北の7月の午後。
アスファルトの路面は容赦のない日差しに焼かれ、かすかに熱を帯びていた。
陽炎がゆらゆらと昇り、空気が震えている。
たとえ一等地である信義区のオフィスビルの中であっても、その蒸し暑さはまるで目に見えない大きな手のように、ガラスのカーテンウォール越しに人々の喉元を力強く締め上げていた。
闕恆遠は、広告代理店の給湯室に立っていた。
古いコーヒーマシンが、重苦しく単調な稼働音を立てている。
このビルのセントラル空調は、今日の朝10時に故障していた。
修理業者が屋上で忙しそうに駆け回ってはいるものの、オフィス内の室温は30度前後で頑として動こうとしない。
彼が羽織っていた水色のシャツは、すでに汗でぐっしょりと濡れ、背中に張り付いていた。
不快な湿り気が、肌にまとわりつく。
布地と肌がこすれ合うたびに感じるその粘り気は、この街で生きる彼の現状を、静かに嘲笑っているかのようだった。
「闕恆遠」
「まだコーヒーを待っているのか?」
「午後の2時から会議だろう」
「資料は準備できたのか?」
そう話しかけてきたのは、戎柏睿だった。
彼は闕恆遠より2年早く入社した先輩プランナーで、濡れたティッシュで額の汗を激しく拭っている。
戎柏睿の口調には焦燥感が混じっていた。
今日のオフィス内では、それが当たり前の光景となっていた。
高気温は、職場に漂う苛立ちの火種を簡単に燃え上がらせる。
「もう少しです」
「あと少し、データの修正が残っていて」
闕恆遠は丁寧にそう返すと、熱いコーヒーが入ったカップを手に取った。
この蒸し暑い中でホットコーヒーを飲むのは拷問に等しい。
だが、昨夜わずか4時間しか眠れなかった彼にとって、これは脳を強制的に起動させる唯一の燃料だった。
カップの縁から立ち昇る湯気が視界をぼやかせ、彼を一時の間、不満が充満する世界から遮断してくれた。
参考書やサンプル品で埋め尽くされた、狭いオフィススペースへと戻り、闕恆遠は椅子に腰を下ろした。
キーボードの上に両手を乗せ、もう10回以上も修正を繰り返している企画書を見つめる。
胸の奥に、言葉にできない空虚感が広がっていった。
この会社の文化は、「絶対的な服従」と「終わりなき修正」を是とする。
直属のクリエイティブディレクターは極めて理不尽な人間で、クライアントの美的感覚のかけらもない突飛な思いつきに応えるため、いつも土壇場でそれまでのアイデアをすべてひっくり返すのが常だった。
彼はPCのデスクトップにある隠しフォルダを開いた。
そこには、大学時代にひっそりと作り溜めていたデザイン案が眠っている。
大胆な配色、物語性を秘めたコピー。
それらは今、画面に表示されている無機質で、商業的な俗っぽさにまみれたプレゼン資料とは、あまりにも鮮やかな対照を成していた。
あれこそが、自分の夢だったはずだ。
だが、現実という名の研磨機にかけられ、その尖った稜角は少しずつ、少しずつ削り取られていくようだった。
オフィスのスピーカーからは、韋禮安の優しい『如果可以』が流れていた。
キーボードを叩く音と低く響く愚痴が飛び交う環境の中で、その歌声はあまりにも皮肉に響く。
退屈なデータの修正を続けようとしたその時、机の上に置いていたスマートフォンがわずかに震えた。
画面が光り、ロック画面に未読のメッセージが2件表示される。
1件目は、姉の闕苡柔からのものだった。
「恆遠」
「お父さんが、今夜は時間があるなら実家でご飯を食べていってって言ってるよ」
「家業のテック企業との年間ブランドプロモーション案件」
「あなたの次姉のチームが、もう動き始めているからさ」
「もし外での仕事が本当にしんどいなら」
「いつでも戻っておいで」
闕恆遠はこのメッセージをじっと見つめ、画面が自動で暗くなるまで動かなかった。
あらかじめ敷かれた「後継者への道」は、まるで華やかな足枷のように、いつも彼の背後でじっと機会をうかがっている。
彼は深く息を吸い込み、胸の奥で渦巻く葛藤を無理やり振り払うと、再び画面を点灯させて2つ目のメッセージに目を向けた。
それは、幼い頃からずっと賑やかなままのグループチャット「五重奏」だった。
「恆遠、そっちはまだ暑い?」
「私のオフィスの空気清浄機が壊れちゃったんだけど」
「部屋中がほこり臭くて」
「鼻炎が発作を起こしそう……」
「はあ~、おうちに帰りたい」
悦清禾から送られてきた文字を見つめながら、闕恆遠は彼女の姿を脳裏に思い浮かべた。
デスクに座り、赤くなった鼻をこすりながらも、資料の数字を前に眉をひそめているその姿が目に浮かぶ。
悦清禾は大手コーヒーチェーンの本部で企画の仕事をしている。
自分の好きな業界とはいえ、そこの上司である霍承允は筋金入りの面倒な人物として有名だった。
彼女は今頃、部屋中に充満するほこりに耐えながら、限界に近づく鼻炎と戦い、眉間に深いシワを寄せているに違いない。
「私はまだカラーバランスの調整中」
「モニターの熱で、顔が焼け焦げそう」
「恆遠、この前買ってくれた冷茶が飲みたい」
伊凝雪のメッセージはいつも短いが、そこには闕恆遠にしか読み取れない独特の甘えが滲んでいた。
彼女は映像会社でビジュアルデザイナーをしている。
先輩の冉宜芳が、一番面倒で雑な編集作業をいつも彼女に押し付けていると聞いていた。
伊凝雪は普段、きれいに高い位置でポニーテールを結っている。
そのすっきりとした佇まいは、荒波のような職場に立ち向かうための防衛機制だったが、闕恆遠の前にいる時だけは、カラーバランスの狂いに悩まされるただの女の子に戻るのだった。
闕恆遠が返信する間もなく、別のメッセージが次々と飛び込んできた。
「助けて!」
「今日のイベント会場、ヤバいクライアントがいるの」
「美顔フィルターをマックスにした自撮りを何度も撮れって言われて」
「笑顔が引きつりそう!」
「恆遠、仕事帰りに迎えに来てくれる?」
「お願い!」
千慕羽の弾むような口調の裏には、PR業界の泥臭い世界で生き抜く疲弊が隠されている。
彼女の鮮やかなロングウェーブの巻き髪も、今のロケ現場の暑さで少しパサついていることだろう。
そして、グループ内では比較的物静かな玥映嵐も、それに続くように1枚の写真を送ってきた。
そこには、汗だくになりながらウェディングの撮影現場でレフ板を担ぐ彼女の背中が写し出されていた。
「やっと面倒な新人の撮影が終わったところ」
「この天気でウエディングフォトの撮影なんて、もはや拷問だよ」
「恆遠、そっちの会社のエアコンは直った?」
「気をつけてね、熱中症にならないで」
玥映嵐はいつもこうして誰かを気遣う。
自分がどれほど猛暑の中で苦しんでいようとも、真っ先に相手を思いやる優しさを持っていた。
写真に写る彼女の上品なハーフアップの髪型は少し崩れていたが、そこには揺るぎない芯の強さが宿っている。
この4人の女の子たちから届いたメッセージを眺めているうちに、猛暑と仕事のプレッシャーで苛立っていた闕恆遠の心は、奇跡のように穏やかになっていった。
彼ら5人は、まるで「社会」という名の巨大な迷宮ではぐれてしまった子供のようだった。
それぞれが異なる場所で泥臭くもがき苦しんでいる。
それでも、この小さなスマートフォンを介して、互いの魂はしっかりと結びついているように感じられた。
彼はコーヒーカップを置き、指を動かして画面をすばやくタップした。
「みんなお疲れ様」
「今日の天気は本当におかしいから、水分をたくさん取ってね」
「今夜はまだ会議があるから」
「それが終わったら、いつもの場所で集合しようか?」
「美味しいものを差し入れするよ」
送信を終えると、闕恆遠は深く息を吐き出した。
彼は顔を上げ、窓の外に広がる信義区のどんよりとした空を見つめる。
厚い雲が立ち込め、激しい雷雨が今まさに訪れようとしていた。
遠くでごうごうと響く雷鳴が、胸の奥で渦巻く感情と重なり合っているようだった。
「闕恆遠!」
「総監がミーティングルームに来いって」
「資料を持って!」
鋭い声が、彼の思考を現実へと引き戻した。
総監の秘書である常沁宜だった。
彼女の口調は相変わらず高慢で、いら立ちが混じっている。
常沁宜が履く極細のハイヒールが、カツカツと床を鳴らす。
その一歩一歩が、闕恆遠の張り詰めた神経を逆撫でしていった。
闕恆遠は背筋を伸ばし、ずっしりと重い資料ファイルを掴むと、個別の空調が効いているにもかかわらず外の暑さよりも冷たく息が詰まる会議室へと足を踏み入れた。
会議室の中には、総監の他に何人ものベテラン営業マネージャーが座っている。
彼らが議論していたのは、次なる大口顧客である上官一族のテック企業に対して、どうアプローチすべきかという件だった。
「今回の案件だがね」
「クライアントが求めているのは、『絶対的な効率』と『究極のコスパ』だ」
「闕恆遠」
「お前が提出した企画書には、『人間味のある配慮』が多すぎる」
「そんなものでは1銭も儲からない」
「すべて削り落とせ」
総監は冷ややかな目を向け、彼のファイルをテーブルに放り投げた。
鈍い音が会議室に響く。
その瞬間、闕恆遠は、自分が3日連続の徹夜で絞り出した血と汗の結晶が、相手の目にはただの紙くずのようにしか映っていないのだと感じた。
プロジェクターのスクリーンには、冷徹なデータと利益率だけで埋め尽くされたスライドが映し出されている。
手のひらが熱を帯びていた。
それは怒りであり、同時に拭いきれない悔しさでもあった。
彼には、色合いの調整に苦しみ目を赤くさせている伊凝雪の姿が思い浮かぶ。
資料の数字と格闘してアレルギーの鼻をすすっている悦清禾。
強引な要求に笑顔を引きつらせる千慕羽。
そして、厳しい直射日光の下で重いレフ板を担ぐ玥映嵐の姿が。
彼女たちはみな、「美しさ」や「誠実さ」に対するわずかな誇りを守り抜こうと必死にもがいている。
それなのに、この会議室ではそのすべてが全否定されていた。
「総監」
「あの『人間味のある配慮』の部分ですが」
「ブランドの長期的な顧客ロイヤルティを築くためには必要不可欠で……」
闕恆遠は最後に抵抗を試みたが、静まり返った会議室でその声はあまりにも頼りなかった。
「ロイヤルティ?」
「闕恆遠」
「お前はまだ学生気分が抜けていないのか?」
向かい側に座っていた営業マネージャーの卓宇珩が冷笑を浮かべ、ファイルを手荒くめくりながら、場数を踏んだ者特有の高慢な口調で言った。
「上官家が求めているのは、来月の数字だ」
「お前のファンタジーに付き合っている暇はない」
「そんな非現実的な夢物語は」
「大学のサークルにでも戻って語っていればいい」
周囲から軽蔑の入り交じった冷笑が漏れる。
常沁宜は傍らに立ち、その口元には薄ら寒い嘲りが浮かんでいた。
闕恆遠はそれ以上何も言わず、ただ黙ってファイルを自分の手元に引き寄せた。
その瞬間、自分の胸の奥で何かが音を立てて砕け散るのが聞こえた。
会議室を出ると、オフィスエリアのムッとする熱気が再び肌を包み込んだ。
だが不思議なことに、その熱気の方が、先ほどの冷え切った会議室よりもよほど血の通った温もりとして感じられた。
デスクに戻ると、再びスマートフォンが震える。
今度は悦清禾からの音声メッセージだった。
イヤホンをつけると、少し鼻声の、柔らかくも疲れを隠しきれない悦清禾の声が耳に飛び込んできた。
「恆遠……」
「さっき、課長に怒られちゃった」
「私の企画は優しすぎて、攻めの姿勢が足りないって」
「でも、私は」
「コーヒーを売るってことは、ただのカフェインを売ることじゃなくて」
「誰かに寄り添う温もりを届けることだと思ったの……」
「私って、やっぱり頭が固いのかな?」
その声を聞きながら、闕恆遠は目頭が熱くなるのを覚えた。
悦清禾が今頃、オフィスの給湯室か、誰もいない階段の踊り場で、こみ上げる悔しさを懸命に堪えながら自分に話しかけている姿が目に浮かぶ。
「君は間違ってないよ」
「わからない連中が悪いんだ」
マイクに向かってそっと呟いたその声は、自分でも驚くほど優しかった。
午後5時。
台北の空は、長い間溜め込んできた湿気に耐えかねていた。
激しい豪雨が、前触れもなく一気に降り注ぐ。
雷鳴が轟き、この街が抱える息苦しさをすべて吐き出しているかのようだった。
闕恆遠はスマホの画面に目をやり、それからデスクの上に置きっぱなしにした却下された企画書を見つめた。
もう二度と、こんな修正には従わない。
胸の奥で、静かだが確実な決意が固まった。
それは二人の姉たちから見れば狂気の沙汰だと思われるかもしれないが、自分が「生きている」という実感を再び取り戻すための決断だった。
彼はグループチャットを開き、いくつかの文字を打ち込む。
「すごい雨だね」
「でも、今夜の集まりは中止にしないでおこう」
「みんなに話したいことがあるんだ」
「迎えに行くよ」
席を立ち、上着を引っ掴むと、後ろで驚きの声を上げる戎柏睿を無視してエレベーターへと歩き出す。
エレベーターの鏡面扉に映る闕恆遠の顔は、若さの中に確固たる意志と覚醒の色を宿していた。
激しい雨粒がオフィスのガラス壁を激しく叩きつける。
ロビーを出た闕恆遠は傘を開き、混沌とした風雨の中へと踏み出した。




