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 東京の秋はひどく寒く、そして絡みつくような中途半端な熱気を、ビルの谷間からじんわりとこぼしていた。


 東京生活が始まって約二十年、私は専業作家として、都内のマンションで一人暮らしをしている。盆と正月以外は、ほとんど帰郷する事も出来ないほど忙しい。何が忙しいと言われれば、まぁよく分からないくらいにとにかく忙しくて、いつの間にか月日が過ぎてしまっているのだ。


 都内に用事がある場合は、ほとんど徒歩で回っていた。私が次の連載物のタイトルを思いつくまで帰らない、と宣言したその若い編集者は、コンビニで面白いスイーツを眺めていても、珈琲ショップで珈琲豆を買っても、どこだろうがついてくる勢いだった。


「先生、本当に沖縄の人ですか? せっかちな歩き方しますね~」

「君と同じ沖縄育ちだよ、クデケン君」


 クデケン君は、悪戯好きの顔で「へへっ」と笑った。髪先をちょこっと金髪にした癖っ気のある短髪に、すらりとした腰回りの細い体躯と整った顔立ちとあって、相手に警戒させない顔立ちで女性にも人気があった。


 ハッキリとした目鼻立ちをしているので、黙っていると威圧感が滲んで声をかけづらくなる。しかし、愛想笑いを浮かべて一口話し出すと、彼の性格の良さが分かってしまうので、大抵会話をすれば誤解も早々に解けた。


 彼――クデケン君――は、二週間前新しくやってきた新しい担当者だった。三十代らしいが、にっと笑った顔も思い出すような仕草も、まだ大学生が赤抜けていないように思えて、どこか年齢が掴めないところがある。


「それで。何か浮かびましたか、先生?」

「確か頭の中に、キーワードを用意しておいたと思うんだよ。君が資料をぶちまけてくれるまではね」


 ちょろっと嫌味混じりに言うつもりだったのに、私は不覚にも唇の端が『自前の笑い病』で引き攣りそうになって、わざと右手で顎をさする素振りをした。

 すると、新人のクデケン君は「おや」と言うように目を見開いた。


「あれ? だって先生怒ってなかったでしょ。むしろ、楽しそうだったのに」


 ストレートに言われた私は、この手は使えないらしいと知って「うむ」と手を降ろした。

 この新人が先程私の家に来たのだが、彼を書斎に招くのは初めてであり、その書斎入口に「そういえば段差があるんだよなあ」と思い出していたのに、私はニヤリとして黙っていたのである。


 案の定、彼は段差に足を引っ掛けたが、そこで私の予想外な事が起こった。彼が、きちんと閉めずに持っていた茶袋から、打ち合わせ用にと先にこちらから送っていたプロットや、世界感説明やキャラ構成といった物を含めた資料が、勢いよく飛び出したのだ。


 書斎でぶちまけられた用紙が、室内に回っていた冷房機の風で煽られて飛び交う様は非日常的で、私は「小説か漫画のワンシーンだな!」とゲラゲラ大口で大爆笑した。慌てふためく彼の様子もツボにハマった。

 だから「なぜ資料のクリップを、外したままにしておいたんだい?」と言う私の口調も愉快そのもので、笑いはしばらく止まらなかった。原稿がようやく部屋の床を埋め尽くすように動きを止めた後も、私は彼のそばで腹を抱えてひぃひぃ笑い転げていたのである。


「先生って、面白い事とか好きですよね」

「出会って二週間で言われると複雑な感じもするが、まあ確かにそうかもしれないな」

「絶対にそうでしょ。俺、先生のエッセイ読んでファンになったんですけど、めっちゃ面白いですもん。見る目が違うと言うか、面白い事を常に探しているというか――いや、先生の方がそう思っているから、珍事項が次々にやってくるみたいな?」

「私は一応、フィクション小説でデビューしたんだがなあ…………」


 エッセイは、デビューした数年後に、とある文芸雑誌の依頼を受けて『好きに書いていいですよ、明るい内容でお願いします』と言われて、それではと肩の力を全部抜いて気軽に好き勝手やったものだ。しかし、一度依頼されてそれを書き上げると、次から次へと催促されてしまうようになった。


 文章を書くのが好きで、いつかそれを専業にしたいと思っていたから、物書きとしては嬉しい事だ。しかし私としては、一人ゲラゲラ笑いながらも書き上げたりする小説の方も、読者の方には楽しんで読んでもらいたいと思ってもいる。


「まあ非凡な事も、誰もが体験した事がないような冒険だって、ありはしないけれどね、今こうして目の前にある事を楽しまないなんて、そんなのは考えられなくて。……うーん、なんと言えばいいのか、自分の中で『つまらない物だ』と決めつけて『何もない』なんて事にした方が、つまらないだろう。だから、色々と目と頭で探し求めてしまうのかもしれないな。昔から、よく変わった子だとは言われていたし」


 私は、特に行き先の予定もなく足を進めながら、このまま行くと目黒区の駅だなあとぼんやり考えた。相変わらず雑多とした人混みは、渋滞する車を押し退けんとする勢いである。


 隣を追って歩くクデケン君が、「ちょっと分かるかも」と頭を右に傾げた。


「俺も、そう思っていた時期があったんですよ」

「ほお。それで?」


 私は、広告を掲げたカエルの着ぐるみが通りにいる事に気付いて、心あらず相槌を打って、そちらへと視線を流し向けていた。なかなか長身のアルバイト君が中に入っているようで、人混みの中でそれが一際突き抜けている様子が窺えた。


 どうやら、その着ぐるみには特定のファンがついているらしい。人垣まで出来ているのを見て、私は好奇心を引かれて、そろりそろりと進路を変更した。その間も、ぴったりついてくるクデケン君の話は続く。


「学校通って勉強してどうなるんだー、とか、なんでもやる事に対して駄目っていう世間の態度が、許せなかったんですよ。んで、バイク乗り回して、公共物に落書きして」

「ふむ。なるほど、なるほど」


 相槌を打つ私は、カエルの着ぐるみの人気の秘密を少し掴みかけていた。彼が掲げている広告は、どうやら近くにある雑貨屋のもので、文面からすると『カエル』はそのマスコットキャラクターであり、同時にパフォーマーでもあるらしい。


「十六まで無免許で先輩のバイク乗り回して、十七歳の時にようやく免許を取ったんです。バイトで貯めた金で原付バイクを買って、友達と夜の街を走り回るのが楽しくて、俺達はここにいるぜって格好つけるみたいに、ペイントしまくってですね」

「ほお、なるほどね」


 カエルの着ぐるみが宙返りを披露して、続けて頭を地面についたかと思うと、両足を高く上げてくるくると回り始めた。


 確か、テレビで紹介していた『ブレイクダンス』なるものだろう、と私は思った。ああいう技を、テレビに映っていた少年がやっていた記憶がある。


「描く腕だって、随分上がったんですよ。後輩に『描いて』って頼まれるくらいだったし、それなのに近くの空き地に描いた時、白いスプレーで駄目出しされたんです」

「――え、なんだって?」


 私は、その時になってようやく、彼の話に意識を傾けた。


「十七歳の時なんですけどね、勝手にペイントした自信作のロゴに、勝手に駄目出しされたんです。苛々して、はじめは『こんちきしょう、なんだよどこのどいつだ』って感じだったんですけど、そいつちょっと変わってて、点数つけていくんですよ」


 振り返った私が、これまで話そっちのけだった事にも気付いていない様子で、クデケン君がやや低い目線からこちらを見上げて、手ぶりを交えて続ける。


「それを繰り返しているうちに、だんだん俺たちの目的がずれてきちゃって、こうなったら文句を言わせない作品にしてやるって、バイクで走り回るのもそっちのけで取り組んでいて。途中から、点数付けていくそいつも、実は俺たちみたいに楽しんでいるんじゃないかって思ったりして」

「どうしてそう思ったの?」

「正直、俺たちもすごく楽しくなっていたからですよ。馬鹿みたいに学校行って、クラスの奴らが面白いっていうイラストを研究したりして」


 そうだったのか、とは言わず、私は彼に話を続けさせた。


「俺たち、本当に夢中になっていたんです。でも、突然それが終わる事になると知って、最高の作品にして最後を飾ろうって熱が入って、馬鹿みたいに毎日学校行きながら皆でデザインを考えたんです」


 沖縄から出るらしいと、そっけない別れの言葉が残されて、これにも終わりが来るのだと悟った。それと同じように自分たちも、いつまで経っても反抗期の子供のままではいられないのだろう、と。


 そう語るクデケン君は、「でも、いざ本気でやろうとしたら、技術も何もない事に気がつきました」と苦笑を浮かべた。


「工作室から、いらない板をもらって、みんなで遅くまでペイントの練習をしたけど、普通の絵なんて初めてで、ちっとも上手くいかなかった。それでも、まだ間に合うよなって皆で励まし合って、計画の当日に練習した通りに描いてきました」


 そして後日、彼らはドキドキしながら見に行ったのだという。


「相変わらず文字はそっけなかったですけど、『百点満点』って書いてあって、馬鹿みたいに嬉しくなって、はしゃいじゃいましたね。――あの頃は、本当に若かったなあ」


 クデケン君が、若い横顔でしみじみと言葉を噛みしめて、空を仰いだ。


 そんな言葉を呟くのはまだまだ早いぞ、と思い掛けたが、私も同じように頭上を見上げて「やれやれ」と肩をすくめていた。

 あの頃は『若い』なんて言葉をまるで実感出来なかったのに、彼の呟きも、耳に響くその言葉も、今ではよくよく理解出来る気がしていたからだ。


 随分前に聞いていたそのラジオ番組の名前を、私はもう覚えていない。けれど、リスナーからの手紙で状況を知って、居ても立ってもいられなくなって例の空き地へと駆け出した事は、今でも鮮明に覚えていた。


 そこに落書きされた、大小様々の「ありがとうございます」の字に、私は仕舞うはずだった白いスプレー缶で「じゃあな」と書き殴って、それを空き地へと放り投げた。もう沖縄から出るのだと実感が込み上げて、柄にもなく泣いたのだ。



 あの頃は、だらしのない『おっさん鳩』がいて、実は女の子だった可愛いマルチーズの『白太郎』がいた。十円ハゲのような白い模様が背中にあった『兄貴分の鳩』と、幼くして仲間入りをしたオスの仔犬の『ゴールデン』がいた時代だった。


 癌で亡くなった母は、当時まだ元気で可愛らしく、そんな母を追うように急性の心筋梗塞で亡くなった父も、まだまだマラソンを現役で走っていた頃だ。



 頭の上に白い花を差されたりしたあの日々を、私はまだ覚えている。不思議と、思い出すたびに、その光景は私の中で新鮮に蘇るのだ。


「――確かに、あの頃は私もまだ若かった」


 噛みしめた言葉が、じんわりと胸に響いた。

 疾風の如く駆け抜けたその後の長い年月よりも、あの日々が切々と思い出せるのは何故だろうかと、私はそんな事を思ったりした。

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