逃げる
もう深夜なのだろう。館に人の気配はなかった。足音を消し、鍵のかかっていなかった扉から外へ出ると、そこは中庭のようだった。
薄暗がりの中、白い大理石の道だけが浮いて見える。
庭自体はぐるりと高い壁で囲われていて、外をうかがうことはできないが、壁の外の篝火で空が赤黒く見える。
大理石を追いかけて四阿まで辿り着くと、反対側へ伸びる道と、その先の扉を発見した。
壁に設えられた扉のようだ。そこからなら、出られるかもしれない。
出て、ここがどこで今がいつで、何が起こっているのかを聞かなければ。
足音を立てないように気をつけながら扉に急ぐ。しかし、木の扉には赤錆びた鍵がかけられていた。回そうとしてもがっちりサビが食い込んで動かない。
庭をぐるりと見回して、壁の側に壁より高く伸びた木がないか探す。木から飛び移れれば、壁を超えるのは難しくない。……降りるのさえなんとかなれば。
蔦の絡まった太い木を見つけて、ファローンは木をよじ登った。体重でしなる枝にそろそろと足を進め、壁に取り付いた。
「うわっ」
手がすべりかける。足元に取っ掛かりになりそうな場所を探すが、小さな突起がいくつかあるだけだ。それでもないよりはまし。
右手を壁の上に戻して、足を動かす。ようやく登り切ったところでファローンは次の難関にため息をついた。
壁の向こうは別の館のようだ。しかも窓には明かりがついていて、人もいる。庭には篝火が焚かれていて、見張りが立っている。
さっき思わず出た声に気づかれていたら逃れようがない。
足を止めたまま、目眩ましの魔法を自分にかける。庭にいる者達の声は聞こえないが、こちらに来る様子はない。
ほっと胸を撫で下ろすと、腰をかがめて壁の上を道の方へと歩く。
壁の切れ目はそれほど広くない路地だった。それでも篝火が焚かれている。ちょうど見張りの交代かなにかのようで、人はいない。
彼らの見張るものが自分でないなら、通りすがりの者として見逃してくれるかも知れない。
でもそうでないなら今までの苦労が水の泡だ。
このまま立ちすくんでいても、いずれは見つかる。なら――。
ファローンは道に降り立った。壁の高さに心が怯みはしたが、そんなことは言っていられない。
膝についた砂を払いのけ、館とは反対の方向に素知らぬ顔で歩く。と、前から傭兵らしい装備の男が二人、こっちに向かってきていた。
――平常心、平常心。
二人はファローンに気がついたようだが、大して気にもかけていない様子だ。
「交代か? おつかれさん」
「……おつかれさまです」
すれ違いざまに挨拶を交わすと、ファローンは走りたいのを必死で押さえ、次の角までそのまま歩いた。
角を曲がると、そこはもう少し広い道だった。街の大通りからは外れているらしいが、馬車が通れる程度の広さはある。
普段なら開いているだろう店はどれも雨戸を閉め、明かりを落としている。
町人が歩いていれば、と期待して店のある方へ道をたどる。篝火はあちこちに焚かれているので視野に困ることもない。
「坊や、あんたみたいな子供がこんな時間にうろちょろしてんじゃないよ」
不意に声をかけられてファローンは振り返った。先ほど通り過ぎたばかりの小さな店の扉が開いて、女性が立っていた。薄物一枚しか身につけていない。篝火に照らされて、真っ赤に見える髪が本当の炎のように見える。
「あ、あの」
「それともあんたも傭兵かい?」
「いえ、違います!」
「じゃあとっとと帰りな」
女性はそれだけ言うと店に戻ろうと背を向けた。
「あの! 教えてください」
「ん?」
「あの……ここはどこなんでしょう?」
女はファローンに向き直ると、眉を寄せた。
「あのねえ……こんな時に冷やかしは困るんだけど」
冷やかしという言葉がわからずにファローンは首をかしげた。それを見て女性はため息をついて頭を振った。
「だから坊やはいやなのよ……」
「あの、申し訳ありません……」
怒らせてしまったか、と慌ててファローンは頭を下げた。女性はバツが悪かったようで、頭をかいた。
「あーもう、いいって。で、なんだって?」
「ここ、どこですか? その、こんな時って、どういう意味ですか?」
「ここは娼婦の館。こんな時ってのはね……戦が起きてるんだよ」
「戦!?」
ファローンは声を上げた。女性はチッと舌打ちすると、ファローンの口を手で抑え、襟首をつかんで店に引きずり込んだ。




