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第5章 奪われた心、選んだ力3

***


 神殿上空。黒が、ゆっくりと渦を巻く。それは暴走ではない。制御され、選ばれた方向へ圧をかける“意思ある穢れ”だった。


 上空で渦を巻く黒のせいで石畳が軋み、空気がゆっくりと沈む。地下で観測していた神官たちが、次々に膝をついた。


「王子の圧力、さらに増幅!」

「結界、限界です!」


 老神官は、一瞬も迷わずに告げた。


「聖騎士を出せ」


 地下の扉が開く。現れたのは、レオンハルト・ヴァイス・グランディア。 無表情で静かな瞳がそこにあった。神殿で管理された彼の心は、常に安定している。当然、波形は正常値を維持した。


「任務内容を」


 平坦な声で問いかける聖騎士に、老神官は命令する。


「王子の威圧を中和せよ」

「了解」


 それだけで、十分だった。


 レオンは振り返らず、塔へ向かう。階段を上る足音が、規則正しく反響する。その足取りに乱れはない。


 最上階の私室、アシュレイは部屋の中央に立っている。背後で黒が揺れる。内側には熱を孕んだ怒りがあるのに、表面は氷のように冷たかった。開け放ったままにしてる扉から、こちらに向かってくる足音が聞こえて振り向く。


「……レオン」


 その名を呼ぶ声だけが、柔らかい。レオンは形式通りに片膝をついた。


「王子殿下」


 聞き慣れないその呼称でアシュレイの瞳が細くなり、表情が険しくなる。


「来ると思った」


 レオンは、何も言わずに立ち上がる。そして、音もなく剣を抜いた。迷いがないこと自体が異様だった。


「威圧を確認。中和を開始します」


 足元に加護陣が展開する。部屋の中に白い光が広がり、黒と白がぶつかる。その衝撃で空気が裂けた。ほんの僅かに、アシュレイの圧が削られる。


「……本気で、私を止めるのか」

「任務です」


 レオンが即答したその瞬間、黒が大きくうねる。


「私は、お前から奪われた」


 アシュレイは一歩、レオンに踏み込む。


「お前の感情を――」

「記録にありません」


 無機質な声を聞くだけで、アシュレイの胸の奥が軋む音がした。


「では聞く」


 声が低く沈む。


「今、私を見て、お前は何も感じないのか」


 小さく開いた窓から、風が吹き込む。それでも黒と白は交わらない。ただ、ぶつかり続けるのみ。


 レオンの瞳が、わずかに揺れた。一瞬、胸に鋭い痛みが走る。理由は分からない。


「……対象、確認」


 声が、ほんの僅かに掠れる。


「異常なし」


 だが、足が動かない。剣を振り下ろせない。加護陣が、微かに歪む。


「聖騎士側、波形乱調!」


 アシュレイは、確信する。完全に壊れていない――まだ、残っている。


「レオン」


 加護陣の隙間から、黒が彼を包む。攻撃ではない、そっと触れるだけ。心の中の空洞に、静かに沈むように。それだけでレオンの呼吸が乱れた。


 頭の奥で、何かが軋む――夜の回廊・触れた温度。


《離したくない》


 断片的な映像が、脳裏の奥で流れ始める。


「……っ」


 加護陣を作っていた剣が落ち、石畳に重たい音が響いた。アシュレイがゆっくりとした足どりで、目の前に立つ。


「レオンに命じる」


 低い声は震えているが、ハッキリと告げる。


「思い出せ!」


 レオンの瞳が揺れる。感情はない――はずなのにジリジリと胸が焼ける。心の空洞が悲鳴をあげた瞬間、神殿の結界が軋む。


「後退させろ!」


 地下で観測を続けていた老神官が叫んで距離をとらせようと試みたのに、レオンは動かない。アシュレイから視線が逸れない。彼の手が、レオンの胸に触れる。


 鼓動が速い。あり得ないほど――。


「私は、お前を求めている」


 静かに、心を込めてアシュレイは口を開いた。


「今もだ。永遠に変わらない」


 その言葉が――レオンの封印に亀裂を入れる。地下にある水盤の術式が歪む。水盤の中の水が大きく揺れる。


「干渉強度を上げろ!」


 だが削れても消えない。レオンの唇が震え、声にならない声が何かを告げる。それは痛みか――それとも。


 黒と白が、塔の上で渦を巻く。これは戦闘ではない。奪われた心と、取り戻す意志の衝突。


 神殿は、ようやく理解する。この二人は、同時には制御できないことを。

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