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21:内側の闇


 千蔵と水族館デートから数日が経った、いつも通りの朝。駅のホームで決まった時刻に滑り込んでくる電車を待っていた俺は、車内にいる千蔵の姿を見て眉間に皺を寄せる。


「おはよ、(かぶち)

「……はよ」


 俺を見つけてにこりと笑う千蔵の目元にはくっきりとしたクマができていて、顔色だって心なしかいつもより悪く見えた。特にふらついていたりするわけでもないのだが、電車が動き出すと吊り革に掴まる男に改めて呼びかける。


「おい、千蔵。……千蔵?」

「……ん?」


 いつもならすぐに反応を見せる千蔵が、今日は少し遅れて俺の方を見る。考え事でもしていたのかもしれないが、なんだか反応が鈍いように感じられた。


「おまえ、大丈夫かよ? クマできてるし」

「ああ……ちょっと夜更かししちゃって」

「夜更かしって、珍しいな。なんかしてたのか?」

「ん-、海外ドラマ見始めたら止まらなくなっちゃってさ」

「ああ……それは俺も経験あるかも」


 学生の夜更かしなんて特に珍しいことでもないし、たまにあくびを漏らしていることもあったから本当に寝不足なのだろう。そう思うことにして、俺はそれ以上を追及せずに学校までの道のりを過ごすことにした。そうしていつも通りの学校生活が始まったはずなのだが。


「それじゃあ、この問題を……そうだな、千蔵。答えてくれ」


 眠くなるような数式の並ぶ授業の最中、教室内を見回した教師が回答者に千蔵の名前を挙げる。


「…………」


 しかし千蔵は一向に反応する気配がなく、クラスメイトたちの視線が一か所に集まっていく。


「……おい、千蔵?」

「え……?」


 少ししてようやく顔を上げた千蔵は、その時初めて自分が指名されていることに気づいたような反応をする。


「この問題を答えてくれるか?」

「あ……えっと……」


 教科書に視線を落としたかと思うと間を置いてから、苦笑いを浮かべた千蔵は頬を掻いて教師を見る。


「すみません、ちょっとぼーっとしてたみたいで、わかりません」

「なんだ、珍しいな? それじゃあ代わりに……筒井」

「えーっ、俺もわかんないですよ」


 続くクラスメイトの答えに教室内からは笑い声が上がるが、俺は千蔵から視線を離すことができない。教師の言う通り千蔵が授業に集中していないのは珍しいが、アイツの頭の良さを思えばその場で解けない問題でもなかった。だというのに千蔵はその場で問題を解こうともしなかったのだ。


(絶対……なんかおかしい)


 授業の終わりを知らせるチャイムと共に立ち上がった俺は、真っ先に千蔵のもとへと歩み寄る。


「千蔵、大丈夫か? おまえ調子悪いんじゃねーか?」

「橙……大丈夫だよ。ちょっと寝不足がたたったのかも」

「ったく、ちょっと保健室で休ませてもらってこいよ。倒れたりしたら困るだろ」

「……そうだね、ちょっと行ってこようかな」


 あくまで寝不足を貫こうとする千蔵。違和感を覚えつつその背中を見送ってから、俺は隣の教室へと足を向ける。幸いにも目当ての人物は廊下に近い席に座っていて、教室内の人間に呼び出してもらう手間を省くことができそうだ。


「おい、紫乃(しの)。ちょっといいか?」

「っ……!?」


 呼び出されると思っていなかったであろう紫乃は、大袈裟なほどに肩を跳ねさせてからこちらを見る。クラスメイトから見てもそれは珍しい光景だったのか、「あれ誰?」と声をかけてくる女子を適当にやり過ごし、ものすごい形相で紫乃がこちらにやってきた。


「ちょっと、いきなり何の用!?」


 小声ではあるが全力の抗議を向けられて、その迫力に少しだけ後退りしてしまう。けれどここで引き下がる選択肢はない。


「悪い。けど、千蔵の様子がおかしくてさ」


「…………」


 それだけで何かを察してくれたらしい紫乃は、俺を押しのけて廊下に出ていく。


「来て」


 短く告げる紫乃の後に続いていくと、他に生徒のいない階段の踊り場へと連れて行かれた。


「なあ、紫乃。アイツ目の下にクマ作ってるし、なんか反応鈍く見えるし、でもなんも話してくれねえんだけど、絶対なんかあっただろ……!?」

「ちょっと落ち着いてくれない?」


 一気に(まく)し立てる俺を面倒くさそうな顔で見た紫乃は、大きく溜め息を吐き出してからこちらに向き直る。


「ちょっと前に、父が過労で倒れたの」

「えっ……それ、大丈夫なのか?」

「問題ないわ。しばらくは安静でってことだったんだけど、母が亡くなってから必要以上に気負ってたから、一気に疲れが出たんじゃないかって」

「そうだったのか……」


 そんな話を千蔵から聞いたことはなかったが、母親が亡くなってからの家の中は、俺の想像以上に大変な状態だったのだろう。


「それからは父だけに負担がいかないように、家事とか他のできることはもっと兄と分担できるようにしてたんだけど……父譲りなのか、紫稀(しき)はああいう性格だから余計に自分が頑張らなきゃって思ったみたいで」


 どこか不服そうにも見える彼女は、ある意味では俺と同じようなもどかしさを感じているのかもしれない。ましてや一番近い家族という存在なのに、父親も兄も抱え込みやすい性格をしているなんて。


「……紫稀、最近は早朝に新聞配達して、夜もたまに単発でバイトに出てるの」

「はぁっ……!? 冗談だろ!?」

「バカでしょ。うちはそこまでお金に困ってるわけじゃないし、あたしだってバイトするって言ったのに、おまえは勉強に専念しなさいって」


 まさか千蔵がそんな状態で生活をしていたなんて。今朝のアイツの姿を思い返して、俺の方が眩暈がしてきそうになる。


『兄はただでさえ大変だったのに』


 初めて紫乃から呼び出しを受けた時、彼女はそんなことを言っていた。もしかするとあの頃から千蔵は、ずっとそんな生活を送っていたのかもしれない。


「まあ、さすがにやりすぎだって父にも怒られたんだけど……その父が先週末にまた倒れて入院して」

「えっ……!?」


 先週末は千蔵と水族館に行ったばかりだが、帰り際の千蔵の強張った表情が脳裏に浮かぶ。


「命に別状はないの。入院も検査のためで、医者にはきつくお灸を据えられてるみたいだけど……父も今度こそ働き方を変えるって言ってるし」

「おまえもなんか……大変なんだな」


 淡々と話してくれているが、紫乃にだって色んな負担がかかっているのではと心配になる。


「あたしは別に。父や兄と違って自分のキャパは理解してるから、必要な時は人に頼れるし」


 けれど兄妹揃って先回りが得意なのか、俺の考えを察した彼女はそう付け加えてくる。


「ただ、紫稀が……ちょっと耳が聞こえづらいみたいで」

「え……?」

「病院にも行ったんだけど、心因性の難聴じゃないかって」


 その言葉に、反応の鈍かった千蔵の姿が思い浮かぶ。寝不足で頭が回っていないのかとも思ったが、そもそも声が聞こえづらかったからあんな反応になっていたのか。


「一時的なものだって話だけど……多分、父が倒れたことで、母の姿が重なったのかなって」

「…………」


 俺の知らないところでたくさんのものを抱え込んでいる千蔵に、言葉を失ってしまう。


(俺、そんなの全然知らねえで……ずっと負担かけて、デートまでして……)


 そんな状況下でも千蔵は、ずっと俺のことを気遣ってくれていたのか。デートだと呑気に浮かれていただけの自分が恥ずかしくなる。


「……あたしがなんで真宙(まひろ)にこんな話したかわかる?」

「え……そりゃ、俺が聞いたから……?」


 急な問いかけの意図が掴めずに、疑問符を浮かべたまま俺は彼女を見る。


「紫稀にとって、あたしはどこまでいっても妹で、”頼れる兄”の姿しか見せてくれない。家族だから話せることもあるだろうけど、家族だからこそ見せない顔もある」


 そう口にする紫乃はどこか寂しげにも見えたけれど、レンズ越しの千蔵に似た瞳がまっすぐに俺を見据える。


「でも真宙になら、紫稀は甘えられると思う」

「っ……」


 そんなにも大層な役割を、俺が担うことができるのだろうか? 自信などひとつも無いのだが、他の誰よりも千蔵を一番間近で見てきた紫乃が、俺を頼ってくれている。俺の背中を押してくれている。それが自信に繋がらないはずがなかった。


(俺が千蔵の支えになれる……?)


 無意識の言葉ではなく、今度は俺自身の意思で。千蔵が保健室から戻ってきたのは放課後で、しっかり眠ることができたのか、顔色は朝より随分良くなっているように見えた。


「千蔵、調子どうだ?」

「心配かけてごめん、もう大丈夫だよ」


 大丈夫と言って笑う千蔵は、やはり自ら本心を見せようとはしない。


「あのさ、おまえの妹から色々聞いたんだ。……勝手なことして悪いけど、俺にも何かできることねえかなって」

「……!」


 家庭の事情が俺にまで伝わると思っていなかったのか、目を丸くした千蔵はすぐに取り繕うみたいに笑う。


「……ありがとう。けど、これはうちの問題だから」


 千蔵から明確に線を引かれた。そう認識した瞬間、俺は身動きが取れなくなってしまう。少しだけ期待をしてしまっていたのかもしれない。俺にだけは頼ってくれるのではないかと。「帰ろうか」と話題を打ち切った千蔵に、やっぱり俺には何もできないのだろうかと胸が締め付けられる思いがした。


「ただいま……」


 落ち込んだ気持ちのまま帰宅すると、家の中に作業着を着た見知らぬ男性がいる。


「おかえり真宙。ちょっと水漏れしててね、今直してもらってるのよ」

「あー、そうなんだ」


 どうやら水道業者のようで、キッチンでガチャガチャと作業をしているらしい音が聞こえてくる。キッチンから一続きになっているリビングに向かうと、見当たらないと思っていた愛猫のきなこが、猫ちぐらの中に避難しているのが見えた。


「きなこー、ただいま」

「シャーッ!」

「うわっ、そんな怒るなって」


 怯えた様子で俺を相手に威嚇してくるきなこは、突然やってきた業者の人間の存在に警戒しているのだろう。何かあれば飛び込む猫ちぐらの中は、きなこにとって絶対的な安全地帯なのだ。


(……ああ、千蔵もこんな気持ちだったのかな)


 自分の殻に閉じこもってしまった千蔵と、今のきなこの姿が重なって見えてしまう。猫ちぐらは隠れ場所でもあるけれど、安心できるゆりかごのような場所でもあるはずだ。千蔵にもきっと、そんな居場所が必要なんじゃないだろうか。


 電車の中で俺を助けてくれたあの日からずっと、俺は千蔵に救われ続けている。たった一度線を引かれただけで、あっさり引き下がれるはずがない。


(今度は俺が、千蔵を助ける番だろ)


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