もろびとこぞりて 一
今日も俺は部室にちょいと顔を出して、口頭で二、三、お嬢様から現状を伝えられると、もうそのまま家へ帰ることにした。
けがの程度の軽い生徒のほとんどが復帰を果たす中、まだまだカウンセラーを必要とする者も多いらしく、校内の雰囲気も、以前のように晴々とはいかなかった。
とはいえ、ふだんと少しも変わらないような青空も、あらためて見ると、雲が少なくたいへん澄み渡って、蒼穹と呼ぶのにふさわしいほどである。
二十四節気の暦でいうところの大寒の時期は、寒さが厳しくなるぶん、こちらの太平洋側は冬型の気圧配置の影響で、きれいに晴れ渡る日が長く続くらしかった。
生徒を装った向日葵ちゃんと一緒に、俺はぶらぶら校舎玄関前にまで行って、そこからまた雪崩のように出てゆく生徒たちの群れにまじって、往来へと出る。
そして、通りを渡ってどこにも寄らずにバス停の前へ立つのだった。
帰りのバスはすぐにもやって来る。めいめい乗って動き出してしまうと、俺と向日葵ちゃんだけが残された。
「お兄ちゃん、行ってくる」
「あいよ、ご苦労さん」
軽やかにスキップをする向日葵ちゃんの後ろ姿を、俺はそのまま見送った。
ふいに羽ばたく音がして、その小柄な姿は見えなくなる。それはコートを羽織るようになってから、この娘が跳躍した際に立てる音だった。
どうやら、また近くに野良の狗でもやってきているらしい。
このなんちゃって封印の掛けられた右手のおかげで、俺のいる場所を特定されることはなかったが、最近はほんとに増えたもの。希人が存在するというだけで、昔の妖怪じみた変異が野放図に広がってゆくというのだから。
こうした非常時には、次のバスが来たときにそのまま乗車する取り決めとなっていた。
しばらくするとそのバスが来てしまったので、路線を越えたあっちの道や細い通りなどを目で探したが、まだ向日葵ちゃんの姿は見当たらない。
それで、俺は仕方なくひとりで乗り込んだ。
アプリの入ったスマホを乗車リーダーにかざしてから、すぐ前に行ったばかりで乗客の少ない車内を渡り歩いて、一番後ろの広い座席に座る。
ここだと眺めも良くて、ひとりで何かあっても、心の準備くらいはできるからである。
としたところへ、他の席から腰を上げてわざわざ俺の隣へ越してくる中年の男性がいた。俺が少し身を避けるように尻を退けると、その人は黒いサングラスに指を当てながら、軽く会釈をして、腰をどっかり据えてくるのである。
「学校帰りに申し訳ない。私は公安の―――岩倉という者ですが」
「え、公安の人?」
俺が振り向こうとすると、その岩倉という人は、前を向いたまま自然に振舞うよう言ってくる。
「悪いね、職業柄、こうして話をしないと落ち着かないんだ」
岩倉氏は唇をいっさい動かさずにこれだけのことを言ってきた。腹話術でもやらせたら、一世を風靡しそうなその口前。
それから身分を示すものとして、コートの合わせ目から提示してくるもの、氏名は岩倉知己、俺もすこし吹き出しかける。所属先は〇〇公安調査局で、それから本人の顔写真、有効期限まである。
その下には身分証としてのシリアルナンバー。さらに権限規定(根拠法令)云々と、細かな文字が記されて、ぱたりと折り返したところには五三の桐だ。
昨年にまだ皇宮警察の身分だった芹沢先生から見せてもらった手帳と、まったく同じ紋章であった。
そのことを伝えると、「どうも」と軽く首をすくめ、その人はすっと手帳を引っ込めた。
身分を明かすとこの岩倉氏、今までの慎重さとは別に、様々に話しかけてくる。
横須賀で容疑者を確保したはずだが、その過程、詳細がいまだ上がってこないとか、現場の報告書には辻褄の合わないところが多すぎだとか、綿々として愚痴っぽいことばかり。
俺も思わず面喰らってしまった。
「なにも自分相手に役人の不満を言い募らないでも、と思っているだろう?」
その岩倉さんは口角を引き上げ笑みをつくる。
「役所内ではどのような手順を踏んでそうした書類が回ってくるのか、待っているだけではただ時間を浪費するばかりなんだよ。これも昭和の時代から脈々と受け継がれてきた省庁間の非効率なところでね―――」
「ところで、何の用なんです?」
そのよく分からん世間話を遮って、俺は尋ねてみる。たいして聞き上手でもない俺は、話し好きな人のペースに合わせることがどうにも苦手だったのだ。
すると、なぜだか岩倉さんは意外そうな顔をする。
「あ、ああ、そうだったね、情報だよ。キミたちの把握していないことを伝えるよう、上の人から言われているんだ」
「情報…」
先生からの情報というのなら、いつもは慶将かお嬢様を経由してくるものだから、それがまた周囲を警戒するように、この人がじかに接触をはかってくるのはなぜなのか。
「キミがそう不審がるのも無理はない。公安といっても、いろいろと行政の区分があってね。ちなみに、キミと会うまで他ともいろいろ接触を試みたんだよ。けれども、欧米風の男子は恐ろしく隙が無くて、またあの女の子は人ですらないし、鷺ノ宮のご息女に至っては、恐懼の念さえ催してくるほどの俊傑ぶりで、どうにも近寄りがたい。とすれば、ほら、キミしか残されていないだろう?」
「まあ、俺が隙だらけってのは認めますけどね」
いやまったく、他の連中と比べられても困ってしまう。
「なに、お願いするのはたいしたことではないさ、書類の入ったこの封筒を受け取ってくれるだけでいい。ところで―――半田友則クンは、あの鷺ノ宮家のご息女とはどんな関係にあるのかな?」
「はい?」
これは意外である。そんなことなど知っているものとばかり。
「ああ、ええっと、クラスメートです」
俺がぽかんとありのままを言うと、岩倉さんは苦笑する。
「いや、そうではなく、キミも彼女たちと同じ組織にいるのだろう?」
まったくおかしなことを言う人だ。たかが高校の部活が、なにかの怪しげな秘密組織にでも見えるのだろうか。
「組織かどうかは分かりませんけど、俺は部活の、まあお嬢様の友達、いや、下僕といったところですかね」
「ほう、下僕…」
さまざまなクラスメートからの評価を鑑みるに、みんなが俺をそういう目で見ていることは明らかだ。
「本当に?」
「ええ、もちろん」
俺は自信たっぷりに答えた。
あまりにも勢いがあり過ぎて、岩倉さんも思わず仰け反るほどである。
「お、おう、そうか。まあキミがそれでいいのなら―――」
よくよく考えたら、自分が麗しきお嬢様の下僕だなんて、あまり堂々とよその人に話すべきことではないのかもしれない。そんなことを自ら言いふらすような男子がいたら、よっぽどのドMか、あるいは超のつくド変態―――まずいな、変なふうに思われたら、さすがに俺も不本意だ。
「あの、やっぱ友達ってことにしといてください」
「うん、それが健全だと思うよ」
岩倉さんはひとつ、咳払いをした。
とにもかくにも、面倒ごとなど御免被る俺さまである。公安のこの人は、なんだか妙な感じがしていたし、その封筒も受け取ったことなので、そろそろ話を切り上げてもらうことにする。
「ええっと、難しい大人の話はよく分かりませんけど、『イーッ!』ですべての意思疎通ができてしまう戦闘員その一みたいな俺なんかに、何を聞かれたって責任なんかもてませんよ。なんせ信仰する宗教にも反することですからね」
「ほう、そのキミの宗教の基礎となっているのは、なんなのかね?」
「怠惰、虚栄心、金銭欲ってとこでしょうか」
俺は肩をすくめて、おどけてみせた。
「ふむ、それはポンティコスの『人間一般の想念』かな。あと五つほど足りないが…」
岩倉さんは屈めていた腰を伸ばして、疲れたように息を吐く。
「ま、私も公僕だから、上から指示されたことだけをすれば良いのさ。それも評価のひとつにはなるからね。ところで―――」
お、しぶといな。まだ『ところで』がきやがりますか。
「大したことじゃないんだ。これに少し触れて欲しいだけでね」
そう言うと、岩倉さんは金属状の小さなケースを差し出してくる。ベンジンを燃料として暖をとるアレとそっくりなものに、触れてみろというのだ。
「もちろん無理に触れなくてもかまわない、手を近づけるだけでもいい」
「なんですか、これ?」
こう問い返しながら、俺は内心ひそかに、その妙なケースはあのお嬢様の想定を超えるものでは決してなく、俺にも無害なもので、なにも起きるはずがないと踏んでいた。
ただ、触れたときのこの人の顔が、さも意外そうだったので、それが可笑しかっただけなのだ。
「どうです?」
俺は平気な顔で岩倉さんに問いかけた。それがこの人の、いわゆる奥の手というヤツらしかった。
つまりは、なんでこんな平凡そうな小僧なんぞが、誉れ高き鷺ノ宮家に関わっていられるのか―――それで俺がなにかの重要な対象の一つにされていたのに、金属には何の反応も現れず、また本人がまったく頓着していないようなので、それで十分だったようである。
「すまないね。私の見込み違いだったらしい」
そう言って丁寧に詫びごとを言うと、岩倉さんは降車ボタンを押す。これも社交儀礼なのだろうが、立派そうな大人がこうも頭を下げてくるとは、俺も恐縮してしかたがなかった。
帰りしな、またお辞儀が続けられ、そして思いついたように名刺を渡される。何か気がついたことがあったらと言い含めて俺の手に渡し、ようやく降車口から出てゆくのだった。
「――ってことがあってよ」
俺は次のバス停で降りると、もうそのまま学校へ取って返した。
そして部室の扉を勢いよく開け、驚いている慶将へ名刺と封筒を放り投げると、今まであった事をさっそくペラペラと喋り散らかすのである。
「他に、なにか申したことはございまして?」
ミカンコは俺の顔を探るようにして、訊いてくる。
「俺か? いや、とくになんも。なんか不自然な感じもあったし、こっちが余計なことを言うと、大人の話ってのはいやに長くなるからな」
俺は、それだけをしっかり答えた。
「言わなくて正解ですよ」
お嬢様の静かな言葉に、ちょっと喉が詰まったが、突然の来訪であることを告げると、
「ほんと、なんて無作法なのでしょう―――」
お嬢様はこういう表現をして、怒っていた。
「あれ? 先生の同僚とか、そういう人じゃないの?」
「違いますよ」
「えっ、でも公安て…」
向こうで慶将が笑っている。
「芹沢先生の方は警視庁の公安部―――対して、岩倉氏の公安調査庁は法務省の外局で、組織的な成り立ちがまったく異なるものなのさ」
「へえ」
さすがは物知り慶将くん。
ともに治安維持のための組織『公安』には違いないが、俺を含めて、一般人にはたいへん分かり難いものである。
「つまり、大阪府と大阪市のような二重行政みたいなもん?」
「同じような活動を行って、ずいぶんと非効率な税金の使い方をしているようだけど、本人たちによれば、それぞれ違いがあるそうだ」
「あ、でもあの人、以前に芹沢先生が見せてくれた手帳の紋章と、同じモン見せてくれたぜ?」
それには、お嬢様の方から返答があった。
「鳳凰の寄る木とされる五三の桐は、法務省と皇宮警察の両方で使用されております。先生は公安の方に異動されましたから、今はまた別の紋章になっているのではないでしょうか」
「そうなんかい」
つか、なんたる偶然。マジで紛らわしい。
「俺、あれでてっきり、先生関連かと思っちまったじゃん」
「とんでもございません。むしろ先生と競合するような組織でございますから、面会するにしても、こちらに一言あってしかるべきなのです」
お嬢様はまだお冠のよう、俺はほっと息を吐いた。「余計なことを言わずに済んで、よかったぜ」
慶将は頬杖をついて、そんな俺を面白そうに眺めている。
「ああいう人たちは情報を集めることに長けているからね。そこでキミが、よくぞ尻尾を出さなかったものだと感心するよ」
「なに、揶揄ってんの?」
「そうではなく――」
ひとしきり、慶将は喉の奥で笑いをくぐもらせると「とにかく、希人だってことはバレていないんだろう?」
「あ、そうそう、俺が希人だって知らなかったようだな。なんか最後、確かめていたみたいだけど」
あのような情報組織で訓練を受けた人たちは、各々がその専門家であるという。
たとえば、相手の考えを見破るコツは読心術にあるとされている。「キミは希人なのか?」と第三者から問われても、我が身の安全を考慮するなら、当然、俺は素直に答えるはずもない。
「そうしたときは、彼らは肯定や否定の言葉などではなく、キミの眼球に現れる微妙な変化を読み取ろうとするのさ。そして第六感を働かせ、こちらが意図しないことまでも読み取ってゆく。とんでもない専門家たちの集団なんだよ」
ところが、俺自身はまったく勘違いして、なにを聞かれても平気の平左であったので、プロであるはずの岩倉さんも、かなり面喰らっていたようなのだ。
「キミが希人であると知っているのは、清澄さんを含めてこの部活に関わる者と、キミの従者、鷺ノ宮の侍従の人たち。それから、外部では先生のチームだけだから、岩倉氏が知らないのも頷ける。しかもその人は、月詠に関わる人物であると見做すこともできる」
「なして?」
俺が問うと、慶将はお嬢様へ視線を向けた。
「彼は火廣金の欠片を用いて、あなたを探ろうとしていたのでしょうから」
その言葉は、もの静かだが、それだけに底に張りがあった。
「へえ、あれ、火廣金だったのか」
「昨今の騒動で国が確保した分は、里見さんの管理下に置かれているはずですから、それ以外ですと、当家か、月詠くらいしかございませんので」
ふだんは控えめなお嬢様も、月詠のひとことが出ると、とたんに角が生えてくる。
「あ、でも、あっちのミカンコ幼女は、俺が希人であると知っていたぜ?」
「だからこそ腹立たしいのですわ。おそらく、月詠の総代が先日に申していたことは、すべて嘘偽りが無いということでしょうから」
「なんのこと?」
「つまりはハンチくん、月詠の上層部は一貫して、君臨すれども統治せず、の立場を守っているってことなのさ。希人が誰なのか教えていないってことは、彼らの宗徒たちが勝手にやらかしているという証にもなるからね」
そうすれば、何が起ころうとも宗徒のひとりを切り捨てれば済むことで、宗派としてはいっさいの責任から免れ得るわけである。
「なんかそれ、ずるくね?」
こうした話を厭う俺などは、大人たちから見れば、まだまだぜんぜん青いらしいが。
「ところで、火廣金を持っていると、なんで希人だって分かるんだ?」
「一種の共振みたいなものです」
ミカンコが奥のカーテンをさっと開けると、窓の外には向日葵ちゃんがいた。
「この通り、あなたがどこにいるのか、すぐに分かるのですよ」
「おいおいおいっ」
俺は慌てて窓辺にかけ寄ると、鍵を開け、すぐにも向日葵ちゃんを引き入れた。二階の窓なんぞにへばりついていたら、もう外から目立って仕方がないのである。
「欠片程度では、ハンチさんに掛けられた私の呪法を突破するのは難しいのでしょうが、この娘ほどにもなると―――」
ミカンコは、ぼんやりしている向日葵ちゃんを愛おしそうに抱きしめる。
「―――他では、魔人と呼べるほどの強者でなければ無理でしょう。もちろん、希人と直につながっている従者たちには、私の呪法も及びませんが」
彼女は上品に微笑んだ。
そのまま、向日葵ちゃんを連れて奥の間仕切りカーテンの向こうへ行くと、しばらくしてから、紅茶の香りの漂うカップをふたつ、盆にのせて戻ってくる。
慶将は封筒の封を開けてガサガサ取りだしていた。
上等そうな保護フィルムで丁寧に覆われた写真のひとつを、すっと引き抜くと、眉をひそめて凝視する。
お嬢様も盆を抱えたまま歩み寄って、カップを慶将の前に置くと、その後ろから覗き見ていた―――あっと叫んで、その写真を手に取った。
「これは――」
そこには、古い日本の陸軍の制服を着た、ある将校の姿があった。
ミカンコは写真の中に顔を突き入れるようにして、黙したまま、動かない。
俺も声をかけてみたが、返事すらなかった。
それはまた、彼女のよく知る人物でもあったようなのだ。




