塞翁の狗 六
はからずも二名の従者を手中に収めた、その翌日―――
通学時に崩れはじめた空模様は、風雨ともに相強まって、昼には嵐の様相を呈してきた。
その強い風にあおられて打ちつけられる雨の音を、俺はぼんやり窓越しに聴いていた。湿った空気がクレセント鍵でぴっちり閉ざされた窓の隙間からも流れ込んでくるようで、教室の空気をひんやりさせていた。
このような空の下、さすがに外へ弁当を持って出て行くわけにもいかないから、俺も仕方なく自分の席で弁当を広げる。その対面には飛鳥もいた。
なにかもう吹っ切れたように遠慮もせずに堂々と、前の席を借りて俺と膝を付き合わせていたのであった。
「これから、荒れそうだね」
そう言って、飛鳥は窓の外を仰いだ。
「んー? 天気予報じゃ、午後から上がるっつってるぞ」
俺は自分の弁当だけを凝視しての、もの言う素振りとなる。
本日のおかずは昨晩の残りをただ放り込んだだけのもの。豆ごはんに豆の五目煮に豆の甘露煮と、やたらと豆だらけなものだから、箸でつまみ難いのなんのって。
それでようやく箸の先につまみ上げた豆の一粒を、口に放り込む暇もなく、飛鳥が横からかっさらう。
目を丸くする俺の前で、こいつは箸につけた唇を可笑しそうに曲げていた。
「ボクは天候のことを言ったわけではないんだよ」
そして俺の箸から口を離すと、憂鬱そうにため息をつく。
その視線の先には、クラスメートに囲まれて優雅にお茶を喫するミカンコのお姿があった。
「そりゃあ、ひと荒れくらい、あるかもしんねえけど」
自分の箸の先を眺めながら、これを咥えて良いものかと、俺はひと悩み。
ま、希人としての心得などを説いてくれたのだったら、その真摯なご忠告、たいへん痛み入るものでございますが。
「ひと荒れ程度で済むと思ってるの? おめでたいね、ボクらの希人さまは」
そう、飛鳥は浮かない顔を俺に向け、皮肉めいた口調で言うのだった。
昨日も、あれだけの騒動を起こしたばかりなのだ。
幸いにも久場ご本人は誰にも見られずに済んでいたが、ミカンコの結界の切れた後、不審に思って集まってきた生徒らに、その痕跡までは隠し通すことができず、まるで天から使徒でも降臨してきたかのような大騒ぎとなってしまった。
「おいおい、いいのかよ?」
「何がだい?」
慌てる俺を前にして、慶将はあっけらかんとしていた。
「いや、この騒ぎ、どうすんだよ」
「どうもしないさ。こんなことに一々頭を悩ませていたら、そもそも希人なんてできやしないだろう? もちろん、君自身が後始末をするというのであれば、僕は止めやしないけれど」
めちゃくちゃになった駐車場跡地を眺めながら、そんなことを平然と言い放つ慶将を、俺はなかば呆れた目で見ていた。
「おまえ、狗のことをずいぶん言い散らかしていたけどよ、あまりよそのことは言えねーな」
「フフフ、謙譲の精神なんかでは、戦いに勝てないからね」
あとから学校側も警察に被害届を出していたようだけど、いったい誰があのクレーターと大仏の後始末をするのでしょうかね。理事長もそれはそれは渋い顔をなさってずいぶん苦り切っていたという、そんな噂話を聞かされてしまうと、むやみと口を開くわけにもいかず、俺もたいへん心苦しかった。
そしてなにより、これである。
「ねえ、ハンチ。キミからあのおっかない女に、それ、直してもらえるよう頼んでくれない?」
飛鳥が俺の右手を眺めながら言う。
あの騒ぎの後、ミカンコもよくよく気になったとみえ、それから間もなくあのぶっとい筆を谷間から取り出すと、
「少しの間、皆が落ち着くまで、基底状態に戻しておいた方が良さそうですね」
そう言って、俺の掌紋を再び見えなくしてしまったのである。
その効果によって、従者であるこいつらは、超常的な力をすっかり失ってしまったらしく、俺がその不平不満の矢面に立たされることになる。
ちなみに今の俺の背景は壁でも黒板でもなく、やっぱりそのことに不満を持つ久場の広大な背中なのであった。
「僕からも、彼女にお願いしてくれるよう、頼むよ」
などとおっしゃられても、元々はテメェがやらかしてくれたことだろう。
このように、希人の掌紋はふたたび消されてしまったが、これでしばらくの間、俺の身の回りで妙な騒動が起きる心配もなく、一週間後に試験さえ控えていなければ、ひどく穏やかな日々の連続となる。
「でもさ、なんでおまえらまで力が消えんの?」
それはしごく真っ当な俺からの問いかけだ。
「知りたい?」
「たりめーだ」
「簡単に言うとだね、希人は電池みたいなものなんだよ」
「ほんっとに簡単だなっ」
なにかこう、古くからのもったいぶった複雑な因縁話でもひけらかしてくれるのかと思いきや、こうなのである。
「それはボクらの原始からの、根柢にあるものだからね」
「原始?」
また分かんねーことを言う。
「そう、昔のボクらはたいへんシンプルでね。能力もたった一種類しかなかったんだよ。それが、あるとき突発的に変異が起こる。永い存在のあるときに、環境に影響された変異が突如生じて、様々な能力を持つ狗が生み出された。そうした特殊な力を持つ狗は、力のない普通の人間に比べ、よく不気味な形態になることが多かったようだけど、おかげで強大な力を持つ有利さも享受するようになった」
「うん? 久場はともかく、飛鳥はあんまり変わりなくね?」
「ボクはそんなに力がないからね。見た目は、普通の人とまったく同じだよ」
「ふうん」
力があればあるほど、その外見も人間離れしてくる。久場が姿を現したとき、なにか飛鳥が羨んでいたのもそれが理由らしい。
「つまり、希人が存在することで基礎能力が与えられて、タッチすると能力開花、そして今のおまえたちはさらにバフが乗じた感じ?」
「ま、そんな感じだね」
飛鳥は小さく肩をすくめてみせた。
「だからハンチが覚醒すればするほど、ボクらの能力も底上げされるわけさ。久場くんなんか、基礎能力だけであの滅茶苦茶ぶり。魔人クラスの狗を警戒して、いつでも封印を戻せるようにしていたようだけど、ほんとあの女狐め、そうした悪知恵はよく働く」
そう言い放った後、飛鳥は慌てて周囲を見渡した。
それは慶将の報復を恐れてのものらしいが、幸いにも教室にはいないらしく、ほっと安堵の吐息などをついていた。
知りたいことは山ほどあったが、それを他の生徒たちの耳のあるところであまり喋っていると、症状の収まった中二病の再発、あるいは慢性化などと疑われかねない。
それで放課後になって、俺は情報分析部とやらに足を向けた。
昨日、あの謎の砲撃についてお嬢様に尋ねたが、まだ詳しいことは分からないという、当然といえば当然か。なにせあの一件だけは、スピリチュアルなものに相応しくない現実味が感じられていたのだからな。
さて、なにか新しい情報でも入ってりゃあいいんだけど。
そんなことを期待しながら、内閣執務室のような扉を開けて、「ちわ~」と声を掛けながら中へ入る。大卓の前に立つと、奥の目隠しカーテンから荒川ちゃんが出てきて、可愛く迎えてくれた。
この彼女も、部員名簿に名を連ねたひとりであった。
ミカンコはなにかもう目についた人物を片端から勧誘していたらしく、今現在、登録されているのはこの俺と、お嬢様、荒川ちゃん、そして今もどこかで女とよろしくやっているにちがいない金髪イケメン小僧に、アリオの五人である。
もっとも、ギャル子ちゃんだけはその身なりに相応しいお付き合いなどが放課後にはあるらしく、今まで顔を出したことすらないらしいが。
ミカンコ嬢は春の入学以来、その容姿、社交的立場からもたちまちに白百合の君などという尊称を皆から推戴されることになった。
意外なことに、お嬢様のファンは男子よりも女子のほうが断然多かった。気品があり、理知的な明眸のその美しさに女子一同は憧れたのだという。
そしてこの荒川ちゃんも、今ではそのファンの一人となっているのである。
俺を張っ倒した故由のようで恥ずかしいらしいが、そのおっちょこちょいの性格が、またお嬢様に気に入られたようで、今ではいろいろ頼まれていた。
俺が大卓の隅っこに座ると、土産物のような包み菓子が、荒川ちゃんによって運ばれてくる。
「え、いいの、こんなおもてなし受けちゃって?」
「ミカンコさんが、部室にいらしてくれたすべての方に、だそうですよ」
「へえ」
俺も同じ部員ではあったが、そもそもの用事がなければ、部室に寄ったりはしない。荒川ちゃんに会うためだけに寄ってもよかったが、そうした下心はいとも容易くお嬢様に見抜かれそうで、自然と足は遠のいてしまうのだった。
「あれ、ミカンコは、いないの?」
「はい、なんでも、お家の方から理事長さんにお話があるとかで…」
また後日来るよりも、今回のような不可解な一件は手早く片付けてしまいたかった、これから試験勉強もあるのだし――俺はそのつもりで来たのだが、どうやらひどい空振りのようである。
ミカンコに用件があったからと遠慮をするも、「もうっ、せっかく淹れたのですから」と、荒川ちゃんに可愛く睨まれてしまった。
それで鼻の下を伸ばしているうちに、「さあさあどうぞ」と勧められ、藍地に銀粉の散らされた美しい茶碗を押し付けられる。
それがまあ、やたらと風格のありそうな焼き物なのである。
お盆を胸に抱えたまま、ひと仕事を終えた荒川ちゃんが、俺の対面に座ってくる。その瞳の中には、ちょっと悪戯めいた好奇心。
「ハンチさん、昨日、なにかたいへんなことがありましたでしょう?」
「ああ、なんか体育館のとこで、あったらしいなあ」
俺は空とぼけて言う。
あの後、警察を呼んで規制線まで張られて、今朝は地元紙の三面記事にまで取り上げられていた。
「噂では、この学校の職員が、なにかの宗教に傾倒して、あんなものが運ばれてきたとか、なんだとか」
「へえ…」
あんなもの、とは、聞かないでもわかる、久場お手製の大仏のことであろう。
「それでそうなると、今までこの学校をご贔屓にしていた大学や企業からも、いろいろ説明を求められることになるでしょうと、本日はその件で、学校の後援をしていた鷺ノ宮さんの家の方も、参られたようなのです」
噂好きの女子というものは、いつの時代でも、どこからか与り知らない情報を仕入れてくるものである。
つまり鷺ノ宮家としても、娘を預けて後援までしていたのに、妙な騒動を起こされて、その不名誉を返上しないまま、このまま突き放しても気分の上ではよろしくない。設備、予算、教員など、せっかくの資源もあるのだし―――と、荒川ちゃんのその噂話には、かなりの大掛かりな感じが含まれていた。
ただの噂話にしては、妙に理知の裏付けを持つ、ものの感じ方、解釈の仕方である。
あの滅茶苦茶な後始末の多くを説明せずに、ぴたりと落ちるべくところに落とすような話には、誰かの意図的な工夫が感じられていた。
「なるほどねえ。そんなことが」
どうやらそれにはお嬢様ご本人が一枚嚙んでいるらしい。
俺は物わかりの良い顔で頷いてみせた。
荒川ちゃんはそれに応えて、満足げに微笑んでいた。自分の拾ってきた噂話で俺を納得させたことが、たいそう嬉しいようだった。