塞翁の狗 五
この状況で久場が起死回生の一手を打って出るには、もう希人と接触して本来の力を取り戻すしかないのだろう。
ところが、あいつは右往左往するばかりで、俺を狙ってこようとはしないのだ。
それはおそらく、久場の特性にもあると思われた。
「今の彼は、音しか聞こえないからねっ」
飛鳥も跳びまわりながら、俺の意見に賛同する。
ようするに潜水艦と同じで、飛鳥がむやみと騒ぎ立てているせいで、地中に潜ったままの久場は、俺の正確な位置を把握できずにいたようなのである。
「いずれにせよ、彼は行き詰まっているのだろう。仮にこの状況を打破できたとしても、そのままの日常生活を送るのは、もう不可能だね」
濁流のようにうねったアスファルトを眺めて、慶将は笑った。声色はおだやかでも、言葉は辛らつである。
「それが分かってんのに、なんで久場はああも抗ってんだ?」
「そりゃあ、彼だって男なんだから」
俺は露骨に舌打ちをした。
「自分で言うのもなんだが、男ってめんどくせえんだよな」
そのうちに、やっぱり久場も大人しくなった。
飛鳥は大きく跳んで、アスファルトの敷地から外へ出る。
「ハンチ、引きこもり君はようやく出てくる気になったみたいだよ」
ちょうど駐車場を挟んでの対面から、飛鳥が声を張り上げ俺にご注意をしてきた。
とたん、風が出てきて、いっせいに木々の枝葉を騒がせてくる。
アスファルトの表面が赤褐色に変化して、そこからかなりの物塊が蒸気を噴き出しせりあがる。周囲に敷かれたアスファルトも、まるで潮の引くように音を立て、陽炎にゆらぐ中央部へと吸い込まれていった。
そこからの熱波は、遠くからただ見ているだけの俺の顔面にも迫ってきた。
「熱っち! なにこれ、赤外線?」
こうなると俺も見物どころの話ではなく、焼けるような謎の熱線を浴びながら、両手で顔面を庇うようにじりじり後退した。
なにかアスファルトを大きく変化させるのに、久場はこうして熱を利用しているらしい。
飛鳥の驚嘆した声が、激しい振動のうねりの中で途切れ途切れに聞こえてくる。
「相即する前でこれなのか…」
こまかな砕石をぱらぱら落としつつ、やがて人のカタチをした像がそこに建ちあがった。
全身が緋色に焼け爛れた、校舎の屋上ほどもあろうかという、巨大な上半身の完成である。
「はぁ、なんだってまた…」
口をぽかんと開けたままの俺の首根っこを、慶将が掴んで引き寄せる。
「ほら、もっと下がって!」
さすがの慶将とて、素手であれを葬ることはできないのだろう。巨人の像はいかにも意思のあるもののごとく、その双眼を光らせ、空から覆いかぶさるように睨みつけてくる。
「ハンチくん、もし僕を従えたいのなら、きちんと納得させてほしいんだな」
巨像の口から、そんな挑戦じみた声がこだました。
駐車場を設置するにあたっての広大なアスファルトを、すべて使い切った上でのその威容。久場が変化した恐ろしい巨像が、天からこの俺を凝視している。
「どんな方法でもいいよ。この僕を打ち負かしてくれたなら、すこしは納得できると思うんだ。ホントは嫌なんだけど」
わずかに遅れて、また地鳴りのような唸りが再開した。
「ハンチくん、何をやってる!」
慶将が叫んだ。
巨像の輪郭でできた巨大な影が、辺り一面を覆ってゆく。こいつはその直立した姿勢のままに、この俺へ向けて倒れ込んでくるつもりらしかった。
「マジかよ!」
ここでようやく、俺の足が動いた。
いくら希人の特性があるとはいえ、この莫大な質量を前にしては、無事でいられるはずもない。
倒れ込んでくる巨体に背を向け、俺も必死になって走り出す。この俺の慌てぶり、とても間に合いそうになかったが、走らなければ助かるものも助からない。
「くっそ、間に合えっ!」
とにかく、地面に伸びる影の先、明るい陽のあたる安全な場所にむけて、俺は全身を投げ出した。
そこに無様に着地した俺を、さらに先行していた慶将が引っ張った。
直後、思考すら麻痺させるほどの衝撃だ。
どちらが天かも地かも分からない砂埃の中を、俺はひたすら転がされていった。何かがガツンと背に当たり、それでまだ生きていることを実感したが、痛みで息ができない。砂埃が激しく立ち込めて、口を開けるとその砂がとびこんでくる。
俺は地面に身体を丸めたまま、しばらく呼吸を保つので精いっぱいだった。
そんな俺の腕を掴む者がいる。
「ハンチっ!」
俺は飛鳥に吊り上げられて、ふらふらと頼りなく立った。
「ほんとに、潰されたかと思ったよ、このクソマヌケ!」
そう言うわりには、両眼に涙まで湛えて嬉しそうだ。感情が表に出やすい質なのか、俺は素直に詫びごとを入れた。
そこへ、どこからか久場の声。
「そこにいるんだね、ハンチくん」
周囲が砂塵で薄暮のように翳る中、校舎の側溝の脇に、顔面を地に埋没させた巨大な久場の上半身が、そこにでんとあった。
肩から伸びた一本の腕だけが、生身のクレーンように、滑らかに動いている。
それは上空へいちど高く振り上げられ、左右にゆらゆらとしていた。
「やめろ!」
飛鳥だけでもさっさと逃げればよいものを、俺を庇って前に立つ。
このとき、俺に死を恐れる気持ちは微塵もなかった、と言えば嘘になるけれど、あの久場という平和そうな男の人格が、安易に人を殺せるはずもない、そうした思い込みがあった。
だから、それがゆっくり頭上から振るわれたとき、俺は自身の判断の甘さに大いに後悔することになる。そして、なにか自分の頭の根っこの方で、助力を請う知らない声を聞いた気がした。
―――栞雫、頼むぜよ!
今まさに落下を開始しようとしていた巨大な腕の一部が、刹那、ごっそり削り落とされる。ついで爆圧で空気が揺れ、こまかな破片を地面にざあっとぶちまけた。
飛鳥も俺も、唖然とした。
そしてまた、ヒュン! と何かが擦過する不気味な音が続く。
俺たちは反射的に眼を閉じ、首を引っ込めたが、何かが上で炸裂するたび、この髪に背に、砕けた小石が降り注ぐ。そのひとつが襟口から背中に入り込み、俺を我に返すのだ。
こりゃまさか、砲撃か?
「――ってか、熱っち! これ、熱っち!」
「ほらハンチっ、今のうち!」
後ろのシャツを大きくはだけさせ、熱した小石を摘み出しながらの俺の手を、飛鳥が強引に引っぱった。
撃ってきているのは、おそらく大きな河川側の開豁地、そこから射撃を加えている。それ以外では遮蔽物が多すぎて、射線はまったく通らない。
「お、止まった?」
砲撃が止んでからも、山彦のように鼓膜が錯覚する中で、ようやく俺たちは振り返ることができていた。
そこでは、みずからの重量に負けた巨像が、側溝脇に斜めにめり込んでいる。地に着いた片腕の一つは、砲撃によって肩より先が消し飛んでいた。その中空の肩からは、今も蒸気がもうもうと沸き出していた。
そして、巨像の頭部の頂には、片膝をついてこちらに笑いかけてくる金髪の男が。
「慶将…」
なんだか久しぶりにこの男を見るような気がした。
「希人どの、即席のペアでよくぞここまでできたものだね。称賛に値するよ」
慶将は白い歯を見せて笑った。
まったくその忌々しい余裕ぶり、なにがどうしてこうなったのか、俺にもさっぱり解らないのに。
「今、いったいなにが―――」
「あれこれの詮索は後回しだ、先にこれを片付けよう」
慶将は懐から半紙のような紙切れを取り出すと、それをおもむろに足元へ貼り付けた。
飛鳥も思わずあっと叫ぶ。それこそが妖鬼封咸印。これで久場を従わせるための下準備が整ったというわけである。
「先にこうして、観念した彼に相即を行えばより安全だろう。ほら、ハンチ君」
慶将は偉そうに顎で催促してくる。
腑には落ちなかったが、とにかく、俺は巨像へ向けて素直に右手を差し出してみせた。
これでプラズマでも発生すれば画にもなろうが、あいにくと、現実はぺたりと押し当てるだけの地味なもの。
「これで、彼も味方になってくれるだろう」
無事お役目を果たしたらしい慶将が、顔をほころばせる。
やや熱を持つアスファルトと土くれの混じった塊からは、なんだかひどく恨めしそうな気配が感じられていた。




