七話 過去の足音(後)
ルチルの捨て身の妨害で公安の男の手から逃げおおせたルピス。
息も絶え絶えになりながら、なんとか宿へと辿り着くことができた。
宿についてもその足は止まらない。もつれる足でアセビと滞在している部屋まで駆ける。
公安部隊の男の足止めを買って出たルチルが危ない。
アセビならなんとかできるかもしれない。その想いで部屋に入るや否や念波を飛ばす。
《アセビ……ッ!》
しかし、そこにルピスが期待していた人物はいなかった。
無人の部屋。
いつものように開かれた窓から風がカーテンを揺らしていた。
――そんな、どうしたら!?
焦る気持ちがこみ上げてくる。
こうしている間にも、ルチルが危ない目にあっているかもしれない。公安部隊は魔法使いのエリートたち。彼らに商人であるルチルが勝てるとは思えなかった。
そして、ルピスを逃がすために彼らへ逆らったルチルがどんな目に遭うのか。それは考えるだけでも恐ろしかった。
思考を巡らせるルピスの背後、部屋の外から足音が近づいてくる。
近づいてくる足音に心が弾む。
――アセビ!
足音が部屋に届くと、その顔を見るまでもなく助けを求めた。
《ルチルが危ないんだ! 助けて――》
そして、部屋に足を踏み入れてきた相手の顔を見て凍りついた。
外見は年齢を感じさせないほど若々しい、赤みがかった金髪をもつ碧眼の青年。
だが、普通の青年たちと違うのはその迫力。カーカスは外見以上に威圧感のある風格を纏っていた。
鋭く大きな碧色の瞳、眉間によった皺、一文字に固く結ばれた唇。
「これが我が孫だとは情けない。冒険者風情に寄生してまで生きるなど貴き血の風上に置けん」
ルピスをファトス家から追放した声の持ち主がそこにはいた。
ルピスは息を呑んだ。
――お、おじいさま。
その者の名はカーカス・ファトス。
ルピスの祖父であり、歴史あるファトス家の当主を務める者。
カーカスの鋭い瞳に睨まれたルピスはその目を見開いて固まった。
「いらぬ手間をかけさせおって」
それは若々しい容姿に反して重みのある声。
続いて鼻から大きな息を吐きだしたカーカスに、ルピスはびくりと肩を震わせた。
カーカスは軽蔑した視線を隠そうともせず、
「ドラ息子もドラ息子なら、そこから生まれてくる子もやはり碌でもない」
本人を前にしてこの言いよう。血縁の情などはカーカスには微塵も期待できない。
最後にその姿を見たときから、会話を交わしたときから何一つ変わっていない。
記憶の中にある初めてあったときから変わらない。どこまでも冷たい視線。
長きにわたりファトス家の家長として君臨するカーカスこそが、ルピスを閉じ込めていた鳥籠の主。
一度は鳥を捨てた持ち主が、利用価値を見出して野に放った鳥をもう一度捕まえに来たのだ。
「コレを欲しがるなんて世の中には好き者もいたものよな。しかし、そのおかげでお前の生まれた価値があったというもの」
薄っすらとその顔に冷たい笑みが浮かんだ。
カーカスにとっては家族すらも政略道具の一つに過ぎないのだろう。
その例がルピスとルピスの父親であった。
カーカスがドラ息子と呼んだ人物こそルピスの父親。本来であれば、次期当主となるはずであった人物。
ファトス家の屋敷では、なかなか喋らないルピスを表立って周囲から庇ってくれた庇護者。
そんなルピスの父親は、ルピスが物心ついて早々にカーカスにより家系から追放されていた。
ある日呼び出しに応じて祖父の書斎に足を運んだ先で言われたのは、
『お前に父親はいない。お前は儂の子として扱う』
一方的な通達であった。
理由も、その後の父親の行方もその口から語られることはなかった。
その決定に疑問を挟むことすら許さないファトス家の支配者、それがカーカス。
家族で唯一の庇護者であった父親。それは支配者によって一方的に奪われた。
ファトス家お抱えの医師により、ルピスが先天性の失声症と診断されてから幾ばくも無い時期の話。
ルピスが原因であろうことは子どもながらに想像に難くなかった。
父親という最大の庇護者さえ、カーカスの前では無力であった。
また、自身のせいで父親が家を追われたという過去は、ルピスの人格形成に拭えない影を落としていた。
今もまた同じこと。
カーカスは一方的に用件を伝えるのみ。
そしてまたルピスから奪い去ろうとしていた。屋敷の外でやっと手に入れた新生活を。アセビという庇護者の存在をものともせずに。
「先方は婚約後、お前を引き取ると言っている。お前は先方にただ尽くせ。先方の情夫として生きて――そして死ね」
逃げ帰ってくるなど許さん、と一方的に言い切ると、カーカスはくるりと踵を返した。
それに対し、ルピスはこれが精一杯の抵抗とばかりにその場から動こうとはしなかった。
見送る背中に、心臓が早鐘を打つ。
カーカスもそれに気がついたのか、すぐに足を止めて振り返った。
「……何のつもりだ?」
それは祖父へみせる初めての抵抗。
《ぼ、ぼくはどこにもいかない……》
「ほぅ。念波を使えるようになったという報告は誠であったか」
カーカスはルピスの念波に小さな唸り声をあげた。
《ぼくはッ、ぼくはアセビと一緒にいるんだ!》
カーカスはルピスの精一杯の抵抗を、
「アセビ? あぁ、お前を買ったとかいう身のほど知らずか……。馬鹿な女だ。ドブネズミは大人しくドブの中で生きていればいいものを……」
鼻でせせら笑った。
カーカスの発言に不穏な気配を感じたルピスは、
《ア、アセビに何をしたの……!?》
アセビが簡単にやられるような女性だとは思えない。
それでも、ルピスを縛り付ける象徴であるこの祖父の存在は、そんなアセビでさえもなんとかしてしまいそうで恐ろしかった。
焦るルピスにカーカスは悠々と、
「儂はなんもしとらんよ――ただ、ここのところ大きな戦もなく家の者の体が鈍っておってな。ドブで跳ねている鼠に虎の狩りにつきあってもらっているまでよ」
《そんな……》
高位貴族の抱える私兵は、帝国軍の一軍にも匹敵する。
中でも魔法使いの名家であるファトス家の私兵は精強であることで知られていた。
かつて父親の腕に抱かれ、彼らがファトス家に仇なすものを実際に誅する光景を目にしたこともあった。
「それよりルピス。儂に口答えするなど……少し見ない間に偉くなったものだなぁ、えぇ?」
ファトス家では、当主カーカスの言うことは絶対。
カーカスの決断に口を挟むことは許されない行為だった。
カーカスの放つ覇気がその力を増す。
ルピスは怖ろしくて、もう祖父の顔を見つめることができなかった。
小さく震える手足。手足が冷たい。
自分の体が自分のものではないようにすら感じる。
「お前の使い道は私が決める。そこにお前の意思など関係ない。行くぞ」
事実、もうルピスの体はルピスのものではないようだ。
過去はどこまでも追いかけてくる。それはルピスにとって呪いのようにすら感じられた。
過去を消すことはできない。
過去を忘れようとしても、過去が忘れさせてはくれない。
傷が瘡蓋となり、癒え始めていたなか、再び傷がじくじくと痛みだす。
癒え切っていない瘡蓋が剥がれ落ち、そこから溢れ出るのは恐怖と言う名の黒い血潮。
恐怖は反抗の意思をいともたやすく奪い去った。
カーカスは再び歩き出す。今度は振り返ることはなかった。
カーカスとはルピスを縛りつける過去そのもの。
かつて彼が敷いた道の上を走っていた。その道が途中で棄てられ、その先でアセビという新しい道を見つけた。
それが今度はカーカスの道が、ルピスの立つアセビという道を呑み込まんとしていた。
ルピスは、強張った体でカーカスに追従する。
これ以上カーカスに逆らうことはルピスにはできなかった。
こうしてルピスは再び過去に囚われるのであった。
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