第五話 キリアンの過去
「クリスティーヌ、幸せに暮らすんだよ」
結婚式の翌日。これから帰国する父が、そっと私を抱きしめてくれた。
「あなたの幸せを願っているわ」
そこに母が加わる。私は胸が苦しくなって、二人を抱きしめる腕に力を込めた。
「お父様、お母様。私はここで幸せになります」
「クリスティーヌぅ……」
父の鼻をすする音が聞こえる。「しょうがない人ね」と母が笑った。
「護衛に我が家の騎士をつけます。どうか気をつけてお帰りください」
お義父様が父に声をかける。涙を拭った父と固く握手を交わした。
「……公爵閣下」
「……キリアンとお呼びください、義父上」
「ひっ」
鋭い視線を向けられて、父が一歩後ずさる。それでも父は負けじと踏ん張り、キリアン様を見上げた。
「キ、キリアン殿! 娘のことを頼みましたぞ!」
「ないがしろにはしません」
そこは「幸せにします」のほうが、父も安心できると思うのだけれど……。そう思ったが、もちろん何も言わない。
「お父様、お母様、お気をつけて!」
両親を乗せた馬車が出発する。名残惜しくて、いつまでも手を振ってしまう。やがて馬車が見えなくなった頃、誰かが私の肩を優しく叩いた。
「ねえ、クリスティーヌ。よかったらこれからお茶でもどうかしら?」
お義母様が微笑みながら、お茶に誘ってくれた。その目には私を労わるような色がある。
「それはいいね。ぜひ僕も同席したいな」
お義父様もにこやかに笑いながら話に混ざってきた。残るキリアン様はというと――。
「キリアンもどうだい?」
「いえ、私は政務があるので」
「おや。少しくらいいいだろう?」
「……私がいても楽しくなどないでしょう」
そう苦々しげに言うと、キリアン様はくるりと背を向けて城に帰って行ってしまった。
「あーあ。我が息子ながら拗らせているなあ」
お義父様が苦笑しながら、肩をすくめて見せる。お義母様は私の手を取り、困ったように眉を下げた。
「ごめんなさいね、クリスティーヌ。あの子、あんな態度だけれどあなたを嫌っているわけではないのよ?」
「え、ええ」
昨夜のキリアン様を思い出す。抱っこもさせてくれたし、一緒にも寝た。たしかに嫌われてはいないと思う。
「そうだ。お茶は庭のガゼボにしよう。君の好きなバラが咲き始めているよ、オルタンス」
「まあ、素敵ね。それにガゼボならキリアンも近いわね」
キリアン様が近いというのはどういう意味だろうか? 尋ねる機会を逃したまま、庭のガゼボまで移動した。
ガゼボでは、使用人たちが素早くお茶会の準備を進めてくれていた。その中には、アンヌの姿もあった。
「アンヌ、ご苦労様」
「クリスティーヌ様! もうすぐ準備ができますので、少々お待ちくださいね」
アンヌは城の使用人たちとうまく連携を取っているようだ。居心地が悪かったらどうしようかと思っていたけれど、これなら心配しなくてもよさそうだ。
「お待たせいたしました。どうぞこちらへ」
アンヌに椅子を引いてもらい、テーブルに着く。テーブルの上には急いで準備したとは思えないほど、色とりどりのお菓子が乗ったティースタンドが置かれていた。
「こうして義娘とお茶をするのが夢だったのよね。叶ってうれしいわ」
オルタンス様が満面の笑みでこちらを見る。大輪の薔薇が咲いたような笑みに、同性でも思わず見惚れてしまった。
「あの子ったら、二十六になってもずっと縁談を断ってばかりだったのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。仕事が忙しいって、そればかり言ってね」
お義母様がティーカップを持ち上げてお茶を飲む。私もそれに続いた。
「キリアンはあの事件以来、結婚に消極的だったからなあ」
「何かあったんですか?」
「クリスティーヌは、キリアンのあの姿はもう見たかい?」
あの姿とは、子フェンリルのことだろう。頷いて見せれば、お義父様は昔を思い出すように遠くを見つめた。
「小さい頃の話さ。我が家で夜会を開いたときに、当時キリアンに恋をしていた令嬢がキリアンの部屋まで押しかけてしまってね。それでフェンリルの姿を見られてしまったんだ」
「城に大きな悲鳴が響いてね。駆けつけてみれば、部屋の隅で小さくなったキリアンと、『化け物を見た』と泣き叫ぶ令嬢がいたのよ」
「まあ……」
それはなんとも言えない話だ。私から見れば子フェンリルは撫で回したくなるほど可愛いけれど、まだ幼い令嬢から見れば怖い生き物に見えたのかもしれない。でもそれより気になるのは、「化け物」と呼ばれたキリアン様が傷ついていないかだ。
「その、旦那様は……」
「もちろんショックを受けてしばらく引きこもったわ。夜なんかは、私たちと会うのも拒否していたくらいよ」
昨夜の怯えたような目をしていたキリアン様を思い出す。きっと私にも気味悪がられると、内心怯えていたのかもしれない。
「それからよ。何かと理由をつけて誰とも会おうとしなくなったのは。だから結婚できるかずっと心配していたの」
「我が子ながら繊細に育ったからねえ」
「そうそう。だからあなたに結婚を申し込みたいとキリアンから言われたときは、聞き間違いかと思ってしまったわ」
お義母様の目がキラキラしている。ロマンチックなおとぎ話をねだる子どものように、期待に満ちた目でこちらを見ていた。
「あなたたち、どんなふうに出会ったの?」
「え? 出会っておりませんが?」




