_話
原初の魔女から出された命を果たす為に訪れた国で私は、青空など到底見込めない空を見上げ、溜息を吐いた。
リアンの故郷であるシルフォンは、人の国でありながら穏やかで美しい国だった。シルフォンに限らず、その周辺諸国はみな似たり寄ったりだ。
しかし、鉄の国は星を穢す。己が灰と赤錆に塗れるだけでは飽き足らず、世界を同じ色に染め上げる。色は、分かれているから美しいのだ。全てが混ざり合えば、黒ですらない欲だけが残った何かへと成り果てる。
鉄と油と煙と薬。服や食べ物は勿論、漂う空気そのものに染みついた臭いに辟易し、着いてそうそうに魔法を使った。シルフォンのような空気とまではいかずとも、それなりの透明感をもった空気が私の周りには漂っている。
星を詰まらせるが如き油によって稼働している、巨大な鉄の絡繰りが出す音もまた、ある程度は遮断した。
それでも、空は遙か遠い。粘ついた風とどす黒い雲の向こうにしかない空は、今日も汚れきった雨を降らせるだけだ。
ここは臭いも色も音もうるさすぎて、星が見えない。星の声も聞こえない。あえてそうしているのではないかと疑うほど、星の全てからかけ離れた人間の国だ。
油塗れの雨が降り続けるこの鉄の国は、路地裏にも大通りにも、大した違いはない。どこにいようと人はろくでもない咳をしているし、淀んだ目は下を向いたまま歩いていく。
私は少し入った路地から、そんな人間が流れていく大通りを眺めていた。
「……あの咳は、流行病か?」
私の隣に立って、同じく大通りを見ているリアンは、厳しそうにもつらそうにも見える瞳をしていた。そして私はどうでもよさそうな瞳をしていることだろう。
「流行病であり、この国の持病でもありますね。こんな雨が一年中続いて、こんな空気の中で一生を過ごすんですから当然ですよ」
数多の生き物の世界を根こそぎ奪い、壊し、穢し、殺した結果で紡がれた国だ。その他と共存できぬ生き物は自滅する。
それが星の理である以上、これは当然の末路だ。
「……この国は、他の国とは全く違った文化形態を作ってきたんだな」
リアンはきっと、他にも言いたいことは沢山あるのだろう。人間として、そして王子として、思うところはそれこそ山程。
だがここは穏やかな彼の国ではなく、遠く離れた異国の地だ。だからリアンは数多の言葉を飲みこんだと、分かるほどには一緒にいた。そして、それを指摘しない程度ならば、魔女にだって出来る気遣いなのである。
「そりゃまあ、周囲は全て人間以外の種族が根付く土地柄ですからね。それなのに、星より溢れ出した黒の油を欲し、無理矢理この地に国を開いたんです。醜悪な国となるは自明の理でしょう」
力を欲し、そして手に入れてしまったが故に、人間同士の連携を端から捨てた国がここだ。だからここは、星中に広がった人間の生息地域で築かれてきた国とは違い、一際特殊な形をしている。
鉄と油と煙と薬で生を繋ぎ、それらにより病み、死なぬが為に他を蝕む。
ここはそんな国だ。
「ここくらいですよ。人間がそれ以外の種族の国を侵略し、国土を広げていく国なんて」
だから多方面から恨まれ、羨ましがられ、煙たがられ、警戒されている。
この国は勢いがありすぎる。それも、生産と破壊にだ。
その二つに特化しすぎているからこそ厄介なのだ。人間の性質が剥き出しになっているのだから、危うくないはずがない。
その所為でこうして原初の魔女の命を受けた、二つ名の魔女が訪れなければならなくなったのだ。この国はさっさと勢いを弱め、周りの国から攻め入られて滅んでほしい。
今回の命がこの国の滅亡及び国民の殲滅であるならば、リアンを連れてくることは決してなかっただろう。
それはともかく、この国は珍しいものが多いのもまた事実。興味を引かれる存在は多い。空気も景色も悪いが、あれこれ動いている物は仕組みが気になるし、店頭に売られている商品にも目移りする。
仕様がない。魔女なのだ。
飲みこんだ言葉が苦かったのだろう。そういう顔をしているリアンの手を引き、歩を進める。リアンは驚いた顔をした後、大人しく強張った身体の力を抜いた。
「あ」
折角歩き出してくれたリアンに悪いが、私は忘れていたことを思い出して立ち止まる。
まさかここで立ち止まるとは思わなかったのだろうリアンは、私に体当たりする寸前で、つんのめるように奇妙な停止を行った。
それでも殺しきれなかった勢いのまま、私を乗り越え、向かいの壁へと手をつく。しかしこの国はとかく汚れが酷い。空気同様、油と煙に塗れた壁はよく滑った。
その結果、降ってきた頭と呑気に振り向いた私の頭は、盛大に衝突した。
雨に濡れないよう魔法を使ってはいるけれど、それはこの場に張っているのであって、私達自体に張ったわけではないことが敗因であった。
「いっ――――――――!」
私は上から降ってきた衝撃に押されるがまましゃがみ込んだ。痛む場所を帽子ごと片手で押さえ、残った手で掴んだままの杖を支えに、しばしその体勢で呻く。
頭上からも同じような声が聞こえてくるので、リアンは呻いていることだろう。
「す、まん……」
先に復活したのはリアンだったようだ。頭上から謝罪が降ってきた。
「い、え……急に立ち止まったのは私ですし。ただ、他の魔女の場合、自分が原因であろうとなかろうとリアンは蛙行きだと思いますのでお気をつけを」
「……それは、蛙にされるのか、蛙の前に放り出されるのか、どっちだ?」
「どっちもあり得ますが、蛙の前に放り出される場合は大抵虫にされていると思います。あ、ただ小さくされている可能性もありますからお気をつけください」
「何をどう気をつければいいか、対応の説明を求める!」
それはそうだ。私は少し考え、頷いた。
「魔女に近づかないことですかね」
「対応策はないということだな……」
そうとも言う。
何せ魔女は、興味を抱けば勝手に近寄ってくる生き物だ。そして、いつ何時、何に対し、何故興味を抱くかは魔女本人にも分からない。
つまりはどうしようもないということである。
魔女に見つかってしまった不運を嘆くより他ない。
魔女の代名詞でもある大魔女。その実の息子であるリアンは、それらの事実を痛いほど理解していることだろう。大変可哀想である。
頭を抱えようとしたリアンは、汚れた手を見てそれすらも諦めた。私は杖をくるりと回す。次の瞬間、風に散るように、私とリアンに付着した汚れは流れていった。
ついでに障壁を張り直す。これでこの雨除けは私達と共に移動する。
「すまん。助かった」
「いえ」
こういう時、魔女は便利だなと思う。でも、遙か昔、畑仕事で泥だらけになった服を家族みんなで汗だくになりながら洗濯した楽しいだけの記憶は、呆れるくらい鮮明で。
それを振り払うように、もう一度杖を回す。
すると、リアンが少し近くなる。リアンは一歩も動いていないし、体勢を変えてもいない。だが確実に、先程よりも私に近い。
リアンもそれに気付いたのだろう。私と自分を交互に見た後、瞳を一度ゆっくりと閉ざした。次いで、長い長い息を吐ききった後、ぐわっと勢いよく目蓋を開く。
「説明を要求する!」
さっきまでの声とは質が違う高さを発したリアンを見ながら、私は久しぶりに見たリアンの姿を上から下までさっと確認した。
さっきより低くなった身長。華奢になった全体像。一回り以上大きくなった胸元。
完璧だ。
「リアンを王女にしました!」
これまで性別を変える魔法を扱ったことはほとんどなかったが、一度で完璧に仕上げられた自分を誇らしく思っていた私の頭に、すこーんと固い衝撃が落ちた。
「私は悪い魔女です」と書かれた木の板を首から提げ、私はふてくされた顔で杖をくるくる回す。上手に魔法を使えたのに、この扱いは納得がいかない。
そしてこの札、どこから出したのだろう。シルフォンからわざわざ持ち出していた事実もさることながら、魔女の工房を持たないリアンが逐一持ち歩いている事実に何より驚いた。
それはともかくとして、裏面の「私は駄目な魔女です」面ではないのだから、ふてくされる必要はないのかもしれないと思い直す。
基本的に、人間の感覚において魔女とは悪いことをする生き物であり、魔女の感覚においても魔女は誰かにとって都合の悪いことをする生き物だ。
つまり、何の問題もないのでは?
そう思い至り、私は誇らしげな顔で杖を回した。
そんな私に一瞬怪訝な色を浮かべたリアンは、すぐに不機嫌な顔へと戻した。
「説明を要求する」
威圧感のある雰囲気ではない、ただただ不機嫌さで構成されている表情だ。それを見てふと、リアンは最初以来、威圧感を私に向けないなと思った。どれだけ怒っていても、だ。
王族としての振る舞いが出来る人だということは、ジェイナの騎士団へ向けた対応で知っている。しかし更に考えれば、誰に対してもあまり威圧感を向けていなかったように思う。
つまりは、そういう人なのだろう。だからリアンは最初からずっと怖くなかったのかもしれない。
「キトリ、説明!」
「はあ。ここは魔女狩り……と言いますか、人間以外の人種を異端と呼んだ異端狩りが盛んな国ですので、魔女である私の同行者は多少なりと外見を変えておいたほうが無難かなーと。シルフォンに抗議が飛んでも面倒ですし」
要求通り説明したのに、リアンは不機嫌そうな顔を険しいものへと変えてしまった。
「ですが私は他者の外見を弄くる魔法はほとんどしたことがないので、見たことがある形へ変化させてみました。虫とかになら沢山変えたんですけど、外見を変える魔法は練習すらしてなくて」
ディアナスとの生活に必要な魔法にばかりかまけて、それ以外が疎かになっていたともいう。興味が無かったことも大きい。
「ですがこれなら見たことありますし、たぶん出来るなーと思いました。それで、やってみたら出来ました。完璧です。どこからどう見ても、呪われた時のリアンです!」
説明しながら、折角だから私も服くらい変えておこうかなと思い至る。他者の外見を弄る魔法同様、こちらもあまり練習してこなかった。魔法の腕を上げるには、練習あるのみだ。
後は命の危機とか、なんかそれだ。大抵師匠により放り込まれた危機によるものだった。おかげで命の危機を脱する魔法は嫌というほど練習したが、それ以外の諸々を犠牲にした感が否めない。
この国の有り様は好かないが、文化形態自体には興味がある。人々の服装も同じだ。
この国では、あれもこれもが機能的であればあるほどいいらしい。その為か、ズボンを履いている女も多い。動きやすいからだろう。服の形は、身体に添った物と大きく膨らんだ物、どちらも同じほど多い。形は様々だが統一感があるのは、使用されている色がどれも似たり寄ったりだからだ。
黒や濃茶が特に多い。他の色もあるにはあるが、どれも深い色をしている為、遠目にはどれも同じに見える。
これだけ空気が汚れていては、汚れても目立たない色にしたほうが便利なのだろう。そして肌を曝す服装が極端に少ない理由もまた同様に。
しかし、そのほうが私にも都合がいい。何せ私は魔女なのだ。
黒は魔女の友である。
杖をくるくる回し、大通りを歩いている人間の中、同じ程の年齢の少女に狙いを定める。上半身は身体に添った服の形態をしているが、スカートは膨みが大きい。ドレスのようでもあるが、それよりずっと動きやすそうである。何より形が面白い。
私の服は、自身の魔力で編んである。一度解除して新たに作り直したほうが簡単ではあるが、ここで下着姿になればリアンが怒るだろう。それに、簡単では練習にならない。
くるりと杖を回し、今着ている服を解除せず、そのまま変化させていく。
私の服が変化を始めると、リアンは慌てて上着を脱いだ。それを私に被せたいようだが、私の魔法はそんなに愚鈍ではない。
リアンが、被せようとした外套ごと私の背に腕を回しきるより先に、私は服の変化を終えた。変化中、多少腹やらが出ていたので、そこは練習あるのみだ。ディアナスならば、肌を一切出さず、瞬き一つの間で変化させられるだろう。
足元から胸元まで確認し、揺らした杖で髪を移動させながらリアンに背を向ける。
「どうです? どこかおかしな箇所はありますか?」
問うてから、元の向きに戻る。
「……お前の行動以上におかしな箇所はないように思うぞ」
「まあ魔女なので」
魔女の行動が人間にとっておかしくないわけがない。何せ魔女なのだ。
そう思っていることが分かったのか、リアンは自身の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。そうして大きく息を吸うと共にぴたりと動きを止め、一気に吐き出した。
「多少慣れてきたとはいえ、突拍子もない行動には未だ反応が追いつかん! せめて一言言ってからにしろ!」
「王子を王女にした後、私の服を変えました」
「事後報告すぎるんだよな……」
溜息をついたリアンは、ずれた剣帯をつけ直す。その後ぐるりと腕を回し、その場で二回ほど軽く跳ねる。
「自分の意思で動かせるとはいえ、使い慣れん身体であることに変わりはないな。踏み出した際、重心がずれそうだ」
「慣れたほうがいいですか? それなら普段から呪いますが」
「そんな斬新な善意があるか!?」
慣れたいのか慣れたくないのかどっちなんだろう。人間の繊細な機微は分からない。何せ魔女なのだ。
この件については、リアンが結論を出してからどうするか決めたほうがよさそうだ。ただし、必要とあれば勝手にする。面白そうだと思って勝手にする。何せ魔女なのだ。
私は頭を抱えているリアンの前で、今度はくるりと回った。若干スカートが重い。重さを調整する為に、杖を振る。薄くなりすぎると下にもう一枚何か別の形を構えなければならないので気をつけようと思ったが、それはそれで面白いなと考え直す。
結局、ズボンを一枚追加して、上のスカートは薄く透けさせた。レース状にしたので、かなり面倒だった。しかしいい練習にはなった。これからしばらくの間は、練習を兼ねて、毎日服装を変えるのも有りだな。
魔女は気まぐれだが、気が向けば命尽きるまで没頭する生き物だ。私の気まぐれがどこまで続くかは、私にも分からない。
自分の服を弄っている様子を、人間の繊細な機微から立ち直ったリアンは黙って見ていた。杖を動かす度に興味深そうにしているので、退屈しているわけではないのだろう。だが、見ていて面白いものでもないだろうから、早々に切り上げる。
「何だ、もう終いか?」
「これでも手をかけたほうです。基本的に、いつも同じような型を使用していましたし」
「今までは服に興味が無かったのか?」
「まあそうですね。ディアナスの指示以外で基本形を変えることはほとんどありませんでしたから、あまり得意じゃないんです。それもどうかと思うので、これからは練習も兼ねてちょくちょく形を変える予定ではあります」
薄いレース状のスカートを摘まみ、指先で擦り合わせる。
「…………母はよく、私に色んな服を作ってくれました。だからきっと……そういうの、好きだったんだと思います」
私は、母の好きをあまり知らない。恐らく、嫌いはもっと。母も父も、そしておそらくは兄も、私に嫌いを知られないようにしていたように思う。
まだ理解ができないから。それだけが理由では、きっとなかった。
幼い子どもに、綺麗なものだけを与えてくれていた。
そう、今なら分かる。
けれど私は、皆の嫌いを知りたかった。好きはもっと。
私にはもう永遠に、それらを知る機会は与えられない。教えてもらうことも、自ら気付くことも、決してないのだ。
最近よく、そんなことを思う。リアンと会ってから、家族を思い出すことが多くなった。
どうしてだか、リアンに会ってから、痛くなった。
お母さんと、お父さんと、お兄ちゃんにもう会えないことが、不意に、強く、蘇る。
「キトリ、ほら、店を見たいんだろう?」
柔らかな声を紡ぎながら、リアンの柔らかな手が私の手を取った。リアンは温度までも柔らかい。
繋がった手から、視線を上げる。リアンは、笑顔も柔らかい。そう、私は知っていた。
「――はい。でも、魔女には見せてくれないかもしれません。この国での異端は、奴隷か恐怖の対象かの二択しかありませんから」
魔女は後者だ。
しかし、魔女は魔女である自分を偽ることはない。魔女の掟もそれを許さない。
そして何より面倒だし、その必要を感じないし、更に言うなら面倒だからだ。
「だから、見せてくれなかったら蛙にしますね!」
「俺の話術に機会を与えてくれると嬉しく思う!」
確かに、旅を始めてからリアンはどんどん交渉がうまくなっているように思う。
話術が鍛えられて損はない。一国の王子であるリアンなら尚のこと。
だから私は、ひとまずリアンが満足してから行動に移そう。そう、リアンに手を引かれながら大通りに出た途端、通りすがる誰もが傘を投げ出して上げた大絶叫を聞きながら思った。
私は、リアンに会って痛くなった。寂しくなった。
けれどリアンといられるとちっともつらくない。
だからきっと、カナンの魔女が番人に堕ちる未来は、まだ遠い。




