ACD
結局美音は、7時半出社をすることになった。定時で帰る以上、それは美音の譲れない所で、7時か8時かを揉めて、間を取った。サービス残業になることを承知の上となるのだから、室岡もかなり反対したのだが、承諾せざるを得なかった。美音は意外と頑固だと、室岡は知る。
「杉浦さん、これ、どの辺まで頼めますか?」
「全体のフォームは作ります。細かい訂正は、お願いします」
皆が美音の置かれている立場を知るところとなり、考えながら仕事を頼むようになった。そんな毎日の小さな心遣いが、美音の心を解していく。自然に美音からも皆に声を掛けるようになっていた。
「村川さん、手伝えることはありますか?」
15分ほど前から、画面とにらめっこしながら固まっている村川に、声を掛けた。
「杉浦さん……、ここ、どうしても分からなくて……。どうしてこんな動きになるんですか?」
「ん……。ここはね、このタグだなぁ。コーダーさん、間違えちゃったのね。これ間違えやすいの。これを、こうすると……」
もちろん美音はデザイナーの仕事から離れて時間が経っているので教えられることが少ない。でも逆に、ベテランの皆に聞きにくい、新人らしい質問をぶつけられやすい相手だと安心させていった。ものを作る仕事は、分からないことを考えている時間が、一番無駄な時間なのだ。どんどん聞いて、どんどん進化していけばいい。抱え込まずに、先に進んで欲しい。
「村川さんはこの会社に入ったんだから、それだけで十分優秀なんだから、忘れないでね」
「杉浦さん……、ハイ!」
優秀な人材が多いこの会社は、入ってすぐに挫折を覚える。つまり、上には上がいるという事実。でもそれは、真実ではあるが、間違いでもある。皆1年も経てば、今度は新人から尊敬の眼差しを無条件に受ける存在になるのだ。「初めてを経験したことがない人は、いない」だ。自信を無くさずに、でも謙虚に、頑張ってと、エールを送る。
そして、私は私で踏ん張らなければならない。
「課長」
「はい」
「時間をいただけませんか?」
「仕事? プライベート?」
「後者で」
「了解」
LINEでアポを取る。室岡はあの時の言葉通り、会社では課長の顔を崩すことはなかった。まぁ、社外に出ていることが多くて、実質的に顔を合わせることも少なかったのだが。場所は恭介の店を指定しておいた。日程は、課長の方が忙しいのでお任せである。
「今日、スケジュール開けた」
LINEが届く。今日の、今日ですか……。普通に引いた美音である。はぁ、と、何故だか溜息が漏れた。
「いらっしゃいませ」
「どうも……」
「何にされますか?」
「水割りを」
室岡が先にラウンジに着き、カウンターに落ち着いた。恭介は今日も、非番ではないらしい。穏やかな態度で、以前睨み合ったことなどは、まるで感じさせない。一見すれば忘れてしまったかと思わせる様子だが、それはあり得ないだろう。
「お待たせしてしまって……」
美音が現れたのは20時前だった。指定した時間通りだ。耳元に、あのイヤリングを付けている。やはり、よく似合っていた。
「すみません、時間取っていただいて」
「いいよ、大歓迎」
美音が座ったところで、恭介が注文を取りに来た。
「いつもの」
「はい」
黙って下がっていく。思わず室岡は声にしていた。
「いつもの、ね……」
少し笑いながら横目で美音を見る。美音も苦笑いを隠していなかった。
「食事は?」
「済ませてきました」
「悪かったね。打ち合わせしながら夕食の約束があってね」
「ケーサー広告の件ですよね」
「ああ」
「お疲れ様でした」
「ん……。やっぱり、似合ってるね」
「……」
ちゃんとイヤリングの事だと伝わったらしく、少し困った顔をして、俯きがちにカウンターを見つめている。可愛いと思ってしまうのは、まぁ、しょうがないだろう。頬が緩むに任せて眺めていたら、恭介に水を差された。
「お待たせ致しました。モスコミュールです」
「ありがと」
室岡から見れば、羨ましいと思うほどの自然な笑顔でお礼を言われている恭介は、それには大して反応をせずに、室岡を真っ直ぐ睨んでいく。気持ちは分かるが、今日は美音からの誘いだからなぁと、自慢の様に内心で呟きながら、なんとか表情は冷静を保つ。
「仕事の話はしたくないけど、村川さんは大丈夫かな」
「ええ。課長の課の皆さんは、コミュ力が高い方ばかりだから、私の心配は心配で終わりそうです。他の皆さんが、ちゃんとフォローをされてます。やっぱり、上司がいいんでしょうか」
「ははっ。まるで褒め殺しだな。君が気に掛けてくれてるから、皆も任せていられるんだよ。新人教育は、一番面倒なことだからね。人の世話は、余裕がないとできないんだ。君の存在は大きい」
小さく微笑むと、また俯いてしまう。そうやって、黙って2人で飲んだ。その時間が、室岡には心地よかった。
「課長……」
「ん……」
「もう、本当に私のことは忘れてください」
「……」
「これ以上は、迷惑です」
「はっきり、言うんだな」
「はっきり言わないと、課長は粘りそうですから」
「……なぜ? 迷惑の、理由」
「課長のこと、尊敬してますけど、好きじゃありません」
さすがに、これはキツイと思われる言葉を選んだ。これで、いつもの様に、離れていってくれるはずだ……。
「……もう忘れた? その顔で言う言葉は、僕は信じない」
美音は思わず両手で自分の顔を確かめた。私は今、どんな顔をしていたのだろう。
「こんな窮屈な思い、いつまで続けるの? もう、10年だ。あの会社にいる以上、何もできないと思ってるんだろ? そんなことはないって、そろそろ試してみないか」
「……」
「デザイン、少し手伝う気はないか?」
「……」
美音は驚きのあまり、室岡の顔をヒタと見据えた。
「もう、随分デザインには関わっていないので……」
「君なら、すぐ思いだせるだろう。やってみないか?」
「でも……」
「他のメンバーには、僕から説明する。鈴沖さんが戻るまでは、本格的には無理かもしれないが、今から準備していけば、彼女が戻っても、君には引き続き僕の下で働いてもらえる。自分の能力を、もう少し信じてみろ。10年のリカバリーなんて、あっという間だよ」
「……」
「いいか、最初だけだ、きついのは。ほんのきっかけさえ掴めば、君ならもっと確実な居場所をすぐに作れる」
「……いいえ。私、庶務で十分です。これ以上、課長を巻き込むわけにはいきません」
室岡は表情を変えることなく、美音を見つめた。
「それが、本音だな」
美音はまた両手で自分の顔を確かめた。今度は、どんな顔をしていたのだろう。
「課長は……、本当の私を知らないんです」
美音は小さい声ながらも、きっぱりと言い切る。
「だから、知りたいと言っただろう」
そう言いながら、室岡の顔が少し緩む。カウンターに頬杖をつき、右手を美音の顔まで伸ばし、イヤリングに触れた。そのまま、掌で頬を包み込み、手前に引きながら指でつぅっとなぞった。美音の顔に、途端に血が上る。室岡は頬杖を外し、体ごと美音に向けた。
「僕は昔の君を知らない。もっと天真爛漫で、明るい人だったと聞いた。そんな昔の君を知らなければ、好きになってはいけないのか? 僕にとっては、今の小さな笑顔や、困った顔や、少し怒った顔で十分なんだ。それだけで君を好きになった。それでは、ダメなのか?」
心臓が、もうこれ以上、この人の言葉を聞いてはいけないと言っている。美音は、必死で恭介を探す。室岡の言葉が心に到達してしまう前に、ここから離れないといけない! すぐに気づいた恭介が来てくれた。
「どうした?」
「……帰る」
「助けを、呼んだか……」
室岡は小さく1つ息を吐いた。握りしめた右手を小さく震わせている美音を確認した恭介は、それでもバーテンとしての顔は保っていた。
「お客様、あまり無理強いはカッコよくありませんよ」
「……恭介君、だったな」
美音は驚いて、室岡の顔を見つめた。どうして、知ってるの……。
「君も10年前のことを、知ってる『仲間』なんだろ。じゃあ……、僕のやることに口を出すな!」
「何ですか、それ?」
いくら小さな声でやり合っても、雰囲気は周りに伝わってしまう。もう一人のバーテンが、後ろから様子を伺いだした。室岡もそれは分かっていたが、苛立ちを抑えることができない。美音に向かって、気持ちを抑えることができない。恭介をよそに、美音に言葉を掛け続けた。
「復讐、してやりたいと思ったことはないのか」
その言葉の強さに、美音はそのまま素直に答えてしまう。
「私の言う事なんて、誰も信じない……」
「マスコミにでも、自分が受けた苦痛を話せば、皆喰いついた筈だ」
「マスコミは……、証拠がないと動かない……」
「……君は、それを持っていると聞いた」
「えっ……」
美音の顔が、今度こそ真っ青になった。恭介がカウンターから出てきて、美音を庇う様に椅子の横に立つ。
「もう、止めませんか? 美音さん、もう帰って……」
恭介が美音に帰るように促した。美音も席を立とうとする。
「止めない」
すっと立った美音の手首を、室岡は掴んだ。まるで自分が苦しんでいるかのように、苦痛に歪めた室岡の顔を見つめながら、美音は呟く。
「課長も、あの人達と変わらない……」
その言葉に、室岡は弾かれた様に手首を離した。
「悪かった……」
美音はイヤリングを外してカウンターに置き、そのまま店を出て行った。恭介はその場から動かない。室岡に追わせないつもりなのだろう。室岡は美音を掴んだ右の掌を目に当てて、俯いた。その指先が、頭に喰い込む。歪んだ顔は、誰も見ることはできない……。
「どうぞ」
新しいウィスキーの水割りが室岡の前に出された。恭介だった。ゆっくり顔を上げた室岡は、その顔に苦笑いを見せる。
「どうも……」
「お代は、ちゃんといただきますよ」
「……」
ふっと笑って、グッと煽る。そのまま飲み干した。
「ストレートをくれるか」
「かしこまりました」
グラスを出しながら、恭介が声を掛けた。
「どうして、泣かすんですか」
「彼女は泣いてないだろ。むしろ、泣きたいのはこっちだ……」
「課長」
恭介にそう呼ばれ、不快そうに室岡は名前を告げた。
「室岡だ」
「室岡さんは、美音さんの一体何を見てるんです。あんな美音さん、久々に見ました。全身で泣いてましたよ。分かりませんでしたか?」
くそっ、どうせ僕は木偶の坊だ……。
「はーっ、また僕は泣かしたのか……」
「また、なんですか? 最低ですね」
「そうだよ。最低だ……」
「……10年前の事とおっしゃいましたが」
「何か知ってるんだろ!? 教えてくれないか!」
喰いつく様に室岡の顔色が変わる。
「……知って、どうするおつもりなんですか、室岡さんは」
「どうするかなんて、分からないよ。ただ、彼女の人生を、もう一度取り戻したいと思ってるだけだ」
「取り戻す……」
「そうだ」
「それでは、この10年は、彼女にとってはなんの意味もなかったと?」
「……」
「必死に、息をするためだけに生きて来たこの10年を、否定するんですか?」
「じゃあ、聞くが、君は今のままでいいと思ってるのか? もう、飛べるかもしれないんだぞ。それを、いつまでも籠の中に押し留めて、手の中に入れて眺めているだけで、いいのか?」
よくもっ……! 人の気も知らないで……! 恭介は奥歯を噛んで、感情を抑え込む。
「その一歩は、彼女が決めるべきなのでは? でなければ、突き落とすことになるかも知れない」
「分かってるよ。だからこそ、知りたいんだ! その最後の一歩を留めているのが何なのか!」
いつまでも引かない室岡に、恭介はしびれを切らす。カウンターに両手を置いた。
「それ以上踏み込むことは、暴力と一緒だ。俺が、許さない……」
睨み合うように2人は動かない。先に口を開いたのは室岡だった。
「……そうなのか……。やっぱり君は、知ってるんだな」
「!」
小さく息を呑んだ恭介は、まじまじと室岡の顔を眺めた。わざと煽って、試したのか……。
「また、来る」
さっきまでの、感情を隠しもせずに話していた室岡とは別人かの様に、背筋を伸ばし会計を済ませ、颯爽と店を出て行った。もちろん、置き去りにされたイヤリングを内ポケットにしまい込んで。
「俺も、まだまだだな……」
恭介は小さく頭を振りながら、室岡のグラスを片付けた。
「杉浦さん、今日クライアントとの打ち合わせに、同行してもらう。庶務の仕事の方は大丈夫かな?」
「は……い」
同行? 何? 美音は、近頃よく話すようになった斉木に聞いた。
「斉木さん、同行って、なにするんですか? 他の部署では、言われたことがなかったんですが」
「色々ね。課長のスケジューリングだったり、システムの進行具合のチェックだったり、メンバーのスケジュールだったり」
「ACD(アシスタント・クリエイティブ・ディレクター)みたいなものですか?」
「う〜ん、普通はね。でも、庶務の人にそんなことは、させないんだけどなぁ。何か、考えてるんでしょうけど……。逆に何も聞かされてないんですか?」
「ええ……」
美音にとって一番助かっていることは、室岡は決して仕事では、「課長」の顔を崩すことがないという事だった。
「まぁ、広瀬さんも一緒に行くことだし、分からなければ聞けばいいんじゃないかな」
「……そうですね。ありがとうございました」
美音の心配をよそに、本当に一緒について回るだけで、特に何かを要求されることはなかった。しかも、1件クライアントとの打ち合わせが終わったら、「もう戻っていいよ」と言われ、美音だけ帰されたのだ。次の現場には、いつも通りそのまま広瀬と向かっていった。
それから、週に2、3回、何度も同じようなことがあって、美音は気が付いた。
――今から準備していけば、彼女が戻っても……
あの言葉通り、次の仕事の準備を始めている。クライアントの打合せの仕方、企画営業との話の擦り合わせ方、スケジュールの管理、仕事の流れ、肝となるアイデアの掴み方、そんな諸々を、見せて覚えさせようとしている。しかも、デザイナーというよりディレクターの仕事をだ。
鳥肌が立った。課長は、本当に10年を飛び越えようとしている。
どうしよう……、どうしよう……。執着ができてしまう。ダメだ! どうしたらいい……。美音は自分の予想を遥かに超えていく室岡に、手も足も出ない。本当にこのままでは、私の計画が変わってしまう! 毎晩自分に、これ以上仕事に心を取られないよう、室岡に心を掴まれないように、必死に言い聞かせて眠る日々を過ごした。
2ヶ月程経ったある日、やはり同行をしろと言われ、広瀬に時間等確認しようとしたら、今日は広瀬は別行動だという。室岡に確認すれば、間違いではないとのことで、少し不安を感じながら会社を後にした。
「広瀬を、そろそろ独り立ちさせようと思っててね」
クライアントに向かう途中、室岡がそう切り出した。
「僕のアシスタントを始めて、もう2年以上になるから、1度1人で何もかもやらせてみたい。本人も、張り切ってるよ」
「そうでしたか。楽しみですね」
「ああ」
美音はこっそり室岡の顔を盗み見る。部下のことをこれ程嬉しそうに語る上司を、頼りにしない部下はいない。
「というわけで、これ」
そう言って歩きながら渡されたのは、新品の名刺1箱だった。「アシスタント・クリエイティブ・ディレクター 杉浦 美音」とある。足が止まっていた。1歩先に進んでいた室岡は、その美音を見返りながら微笑んだ。
「正式にね」
「あっ……」
名刺から顔を上げれば、室岡はまた歩き出していた。
「今日から、クライアントにも挨拶する様に」
「……あの、はい。……あの」
室岡に追いつくために、美音は小走りになる。こんな話は、聞いていないし打診もなかった。これは美音の計画の中には、ない。逆に足枷になる要因だ。断るつもりで話し掛けようとした。が、先手を打たれてしまう。
「君に、断る選択肢はないよ。会社の方針だから」
「嘘です! そんなはずありません。私、庶務のままでって……」
室岡が足を止めた。ゆっくり振り向いて、怪訝そうに美音を見据える。
「杉浦さん。それ、上司に対して言ってる?」
「……っ! いえ……、すみ……、申し訳ありませんでした」
頭を下げる美音に、声を掛けることなく、また室岡は歩き出した。しばらく、無言で歩いた。美音も室岡から半歩下がって、黙ってついて行った。
「悪かった……」
沈黙を破ったのは、室岡の方だった。
「さっきのは、パワハラだな」
「……いいえ。私が、悪かったので……」
美音は自分が甘えていたと自覚した。室岡だから、あんな言い方ができたのだ……。
「いや、僕が……」
室岡は足を止めて、美音に向き合った。髪をかき上げたかと思うと、少し困惑した顔で続けた。
「もう少し、喜んでくれるかと思ってたんだ。自分の感情で叱った。申し訳ない」
そのまま頭を下げた。美音は、少し狼狽えながら慌てて室岡の腕に手を添える。
「課長、頭上げて下さい。ホントに私が悪かったんです。課長は、すぐに謝り過ぎです」
「君だからだ」
「はい?」
「君だから、謝るんだ。……これ以上、嫌われたくない……」
いきなり、美音の頭を片手で引き寄せ、胸に抱き抱えた。突然のことで、美音は驚くこともできない。室岡の香りが、ほのかにした。
「課長……、人が見ます」
美音の言葉で、やっと解放してくれた。
「これは、セクハラか……」
「ふっ……」
美音が笑い出した。どうしてこの人は突然、こんな子供の様な顔になるのだろう。よく見れば、先程かき上げた髪が、1ヶ所元に戻らずに跳ねていた。そっと、そこを直してあげた。
「……」
室岡が固まっているのが更に可笑しくて、美音は素直に礼を言った。
「課長が私のためによかれと思ってしてくださっていることは、よく分かっています。本当にありがとうございます」
「うっ……、ちょっと、タンマ」
いきなり今度は美音を制するように、小さく片手を上げた。
「ちょっと、待って……。今、課長の顔に戻るから。今のは、ちょっと、キタ……。時間、くれ」
そう言うと、歪んだままの顔で目をつむって、大きく深呼吸を何度かした。「タンマ」って……。美音はやっぱり可笑しくて、笑ってしまう。
「杉浦……、今度また、クラブに行ってもいいか?」
「ダメです」
「何で? 指名料、入るんじゃないの」
「要りません」
「はーっ、つれないなぁ。たまには、1人の男に戻らせて」
「ダメです」
今度は美音が先に歩き出す。慌てて室岡がその後を追った。課長の顔には、暫く戻れなかった。