2度目の来店
「今日クラブに行くから」
翌日、店に到着した美音に、室岡からLINEが入った。「だから驚かないで」という暗黙のメッセージだ。
「どこまで、話したら……」
美音はスマホを見ながら独り呟く。残業の件であることは分かっている。そして、それを解決する術を、室岡が持ち合わせていないことも分かっていた。
「どうした?」
陸が不安そうな顔をした美音に声を掛けた。
「うん……。会社の人が、今日来るって……」
「大丈夫なのか!? そいつ、この間も来た奴だろ? 指名断るように、ママにお願いしてみたら」
「話の内容は分かってるから、大丈夫なんだけど……」
「俺が一言、言ってやろうか? 近づくなって」
「ううん、ちゃんと話せば分かる人だから。何とかする」
「困ったら、ちゃんと言えよ。俺じゃなくても、黒服だって、少しは役に立つ」
「うん、ありがと。今日は、この前のような音にはならないから、安心して」
「……それなら、いいけど」
この所、少し美音の表情が変わってきていたので、陸は様子を伺っていたのだ。生き生きとしている、と思っていた。それが、またあいつの出現で、元に戻ってしまうのは、あまりにも忍びない。ピアノも大切だが、人生を半分捨てるように生きてきている美音を、皆で見守りたいと思っているのだから。
「矢田に様子を見ていてもらうか……」
「いらっしゃいませ」
室岡のいるテーブルに、演奏が終わった美音がついた。ヘルプの女性と入れ替わる。
「今日は、ちゃんと止まりそうにならずに、弾けたか?」
「お陰様で」
「それは、よかった。また、陸君に睨まれても困る」
「また?」
「さっき、2人が出てきたとき、ガッツリ睨まれた」
「あらまぁ、陸ったら」
「……彼と付き合ってるの? あぁ、答えたくないなら、答えなくていいけど」
少し目を丸くしながら、美音は「思ってもみないことを」という顔をした。
「陸には、奥さんとお子さんがいます」
小さい声だった。周りには隠しているのだという。
「そうなの……?」
「奥さんはバイオリン奏者で、お子さんはバイオリンを始めたばっかり。5歳なんですよ。可愛らしいったら……ふふ」
「へぇ。彼、若そうだけど」
「いい男は、いつまでも女が放っておきませんから」
「じゃ僕は、例外だな」
「課長は、女達から逃げて回ってたんでしょ」
「見てきたかの様に言うなぁ」
「見なくても分かります」
笑い飛ばしながら、室岡は美音が入れた水割りに口を付ける。グラスを置く時には、仕事の顔になっていた。
「で、話を聞かせてもらえるんだろうな。ここなら、会社と違って余分な目も耳もない。一体、どうなってる」
「……いつものことです」
「誰なんだ。バックにいるのは」
「……それは……」
「言えないのか?」
「課長の手に負える方ではありません」
「……」
「今回は、私が悪かったんです」
「何? どういう事だ……」
「私、少し嬉しくて、仕事をしてしまいました」
室岡は、訝しげに美音の方へ顔を向けた。
「皆が私に仕事を頼んでくれた。しかも、何の遠慮もなく……」
美音の言葉を聞き漏らすまいと室岡は集中する。
「年甲斐もなく、そのことが嬉しくて、役に立ちたいと思ってしまって……。課長にまでご迷惑をお掛けしてしまいました。申し訳ありませんでした」
頭を下げる美音を見ることなく、大きな溜息と共に、室岡は腕を組んでソファに体を預けた。
「どうして、そういう理屈になるんだ……」
「来週からは、皆さんのお仕事は全て引き受けずに、ちゃんと定時間内で終わる量にします。ただ……」
「……何だ?」
「新人の村川さんの仕事だけは、今まで通りお引き受けします」
「……どうして?」
「課長、彼女は危うい。三隅さんの二の舞になる子です」
「っ!」
目を見開いて、美音と視線を合わせる。美音も迷うことなく、室岡を見つめた。もう1つ、大きな溜息を室岡は吐いた。
「どうして、君が巻き込まれなくちゃならなかったんだ。君のような人材を活かせないなんて、会社にとってどれほどの損失か……」
「課長、そんなこと言ってくださるのは、課長くらいなものですよ。課長は、10年前はどちらに?」
「大阪だ」
「そうでしたか……。私のことは、いつお知りになられました?」
「まだ、最近だ。それで、この前、初めてここに来た」
にっこり笑って、美音は子供に言い聞かせるかのように話す。
「もう、お忘れになってください。どちらにしろ、鈴沖さんが戻られるまでのことです。これからは、今まで通り、私のできる範囲でお仕事させていただきますから」
「それじゃ、ダメだろ!」
抑えてはいたが、明らかに強い感情が入った声に、美音はビクついた。
「どうして最初から話してくれなかった。やりようは、いくらでもあるんだ。部長にだって、根回しができたかもしれない。なんでも先手を取ったものの勝ちだ。情報がなければ、全てが後手に回る」
「……」
「室岡様、いらっしゃいませ。今日の綾ちゃんのピアノは、いかがでしたか?」
ママが、ゆったりとテーブルにやってきて、室岡に挨拶をした。室岡を挟む形で、美音の反対側に座る。剣呑な雰囲気を速やかに察知し、フォローに入ったという事だろう。
「ああ、ママ。すまなかった。少し、飲みすぎたようだ」
まだ1杯目で、しかもほとんど口が付けられていないことくらい、ママは承知している。美音も詫びを入れた。
「ママ、申し訳ありません。私が至らないばっかりに、お客様に不快な思いを……」
「す……、綾ちゃん。僕は怒っているんじゃない。呆れてると言った方が正しい。ママ、水を1杯もらえるかな。あと、もう少しだけ、2人で話をさせてくれないか」
「あら、私がいてはできない難しいお話ですの?」
顔に笑顔を絶やさず、しかし態度は2人キリにはさせないと示している。このままでは、美音を外されてしまうか、もしくは室岡が追い出される。
「……いや、そうだな。ママも聞いてくれていい」
室岡は、美音に向かい話を続けた。
「どうしてそんなに何もかも諦めるんだ。確かに前は、誰も助けてくれなかったかもしれない。だが今は、君も驚いたように、ウチのメンバーなら「普通」に君を同じ課の一員として、仲間として接しているはずだ。そもそも、君のことを「知っている」人すら少ないんだから、少なくとも僕はそう認識していた。皆が君を頼っていたし、君もそれに応えていたろ。大体、君が早く出勤してるのを心配して僕に教えてくれたのも、課のメンバーだ。そこ、ちゃんと分かってる?」
「……あら」
ママは、室岡が何に怒っているのかを知り、少し気張っていた姿勢を緩めた。
「なのに、一番肝心の君が、自分から蚊帳の外に出てしまう。これでは、戦いようがない」
「課……、室岡さん。私は戦うつもりはありません。争いは、傷しか残さない……」
「そうやって……。その傷を全部受け入れてきたのは、君ばっかりだろ」
「室岡さん。もう、本当に、大丈夫ですから……。受け入れてもいませんし、傷ついてもいません」
そう笑った顔は、あの雛人形の美音だった。室岡は、言葉の勢いを、一旦切った。そして、真正面から彼女を見据える。
「一体君は、誰の人生を生きてる」
美音の心臓が止まった音が、聞こえた……様な気がした。ママは身動きしない2人の代わりに、席を立つ。
「じゃ、綾ちゃん。ここは、お願いね」
ママの声に、我に返る。美音は、目から溢れそうになっているものを、室岡のグラスに着いた水滴を、テーブルの上の紙ナプキンで1巻きして拭うふりをして、何とかごまかした。室岡はそんな美音の一挙手一投足を捉え続けている。美音はまた、あの笑みを顔に纏った。
「私がなぜ、まだあの会社にいるか分かりますか?」
「辞められなかったと……、聞いた」
「課長……、よく考えてください。本当にそんなこと、会社ができると思いますか?」
「……」
「嫌なら、会社に行かなければいいだけだと、思いませんか?」
「いや、ウチなら、どんな手段を使ってでも、君を出社させると思うが」
美音は、目を伏せてふっと笑う。この顔には、ちゃんと本音が潜んでいる。室岡はその微かな感覚を頼りに、言葉を繋げていく。
「そうじゃないと……、君は言うのか?」
「私が、選びました」
「……」
「ここで生きていくと……」
「どうして……」
「お金が必要だったんです。父が入院していて、長引いていました。手術を何度かして、転院も繰り返した。お金が……、必要だったんです」
「それだけか……?」
「……、それだけです」
もう、室岡の目を見なくなった美音に向かい、室岡は静かに呼び掛ける。
「こっちを、見てくれるか」
言われて、室岡の方に顔を向けた。まっすぐ目を見つめながら室岡は美音の頬に手を延ばす。触れられた瞬間、美音は思わず体を強張らせた。
「僕には、とてもそれだけとは思えない。今、君に触れたときに見せた顔が、君の本当の顔だ。この顔意外で話す言葉は、僕は信じない」
「課長……」
室岡は、手を離した。それでもまだ、視線を外してくれなかった。この目を見ていると、縋りたくなる……。美音は思わず、目をギュッとつむった。
「僕はここでは、客だな」
そう言ったかと思うと室岡は、瞳を閉じたままの美音の体を、首に手を伸ばしグッと引き寄せた。
「本当の君を、僕は知りたい」
「……」
耳元でそう囁き、ゆっくり体を離した。美音は小さく目を見開く。
「会社では、今の言葉は忘れてくれていい。だが、1人の男としては、君に覚えていて欲しい」
「課……長……」
今日までのことはいい。問題は、これからどうするかだ……。室岡は気持ちを切り替えた。
「じゃ、帰るよ」
美音に言葉を預けたまま、室岡は席を立った。見送りに出ようとする美音に、「見送りはいいよ。ピアノの時間だろ」と一言残し、そのまま出口に向かって行く。ヘルプの女の子が、急いで室岡の後ろから付いていった。美音は一歩も踏み出せないまま、その場に佇んだ。代わりにママ達が、見送りをしてくれた。
「あんた、名前は?」
女性陣達が見えなくなった所で、室岡にどこからか声が掛かる。声のする方を見れば、陸がいた。
「室岡だ」
「室岡さん、美音をどうする気だ。中途半端な気持ちじゃ、余計に彼女を傷つけるって、分かってるんだろうな」
「……分かっている」
陸はゆっくりと室岡の前まで進んだ。美音がピアノを弾いている間、こいつが美音に注いでいた視線は充分に熱っぽかった。でも、それだけでは、美音を託すにはまだ足りない。
「じゃあ言うが、10年前、俺達は何もせずに手をこまねいていたわけじゃない」
俺達……。美音の仲間ということか……。
「理不尽な会社の対応を、訴えようとしていた。マスコミの伝手も用意していた。証拠の音源だって、彼女は持ってるはずだ。まだ世間が騒いでいた頃だから、あの時なら十分に彼女は有利な立場に立てたはずだ。彼女は無能でもなければ、臆病でもない」
室岡は意外な情報に、更に疑問が深まる。ではなぜ、今、こんなことになってる……。
「なら、どうして今も彼女は、あんなに苦しい思いをしてるんだ」
痛い所を突かれたかのように、一瞬陸の眉が歪んだ。
「……最後に手を引けと言ったのは、美音だ」
室岡の体が小さく引かれ、「なぜ?」という思いに目を泳がせながら、考えを巡らせている。そんな室岡の二の腕を掴んで、陸は小さな声で耳元に囁いた。
「だから室岡さんも、ここで引くんだな」
「……」
彼女の当時の唯一の味方であっただろう仲間に、「引け」とはどういう事だ。考えられる理由は、これ以上進んでも得られるものはないか、逆に、進んではこちらが殺られるかの、どちらかだ。
「まさかな」
少し笑った室岡に、陸の顔が真剣になった。ここで引くなんて、ありえないと笑ったか……。じゃ、これが最後通告だ。
「美音は、取引をしたんだよ」
陸の顔を見つめて、室岡は当然の疑問をぶつける。
「誰と、何のだ!?」
「最後までそれは言わなかったさ。美音を問い詰めた時、彼女は一言だけ言った」
――悪魔に、魂を売ったのよ……
「悪魔……」
「もう、それからは何を言っても美音は動かなくなった。それと一緒に、心もどこかに沈めてしまった。だから、室岡さんがしようとしていることが、美音にとっていいこととは限らない」
「……」
「俺達は、そのことを心配している」
「陸さん! 時間です」
店の方から、黒服が呼びに来た。陸はそのまま店に戻っていく。取り残された室岡は、ざわめく気持ちをどうすることもできない……。
だが、美音を引き寄せた時のあの顔を見た後に、それを引き出した自分が、ここで諦めるわけにはいかないと、室岡は歩き出した。
「綾ちゃん、今いい?」
「はい」
翌日、美音は陸と新しい曲を合わせようと、営業時間前にクラブに出勤していた。音合わせが済んだ頃、ママに呼ばれてソファシートに座った。
「昨日、綾ちゃんのピアノ聞きに来てくれた、……室岡課長さんだったっけ?」
「はい」
「綾ちゃんはどう思ってるの?」
「……」
美音は即座に答えることができない。ママは、そんな様子を眺めながら、言葉を続けた。
「まぁ、口出しするつもりは全くないんだけどね」
「……はい」
「人はね、一生のうちに強い絆を結べる人は、一握りの数だけしかいないのよ」
「……ママ」
「こんな仕事を30年以上も続けてきたんだもの、多くの人とご縁は結んできたわ。でもね、それでも心に残る絆は、そんなにないのよ」
ママは最初、美音の顔に視線を合わせて話をしていたが、どんどん美音を越えた遥か遠くを眺める瞳に変わっていった。
「私の愛した人はね、33歳も年の離れた人だったの」
さすがに美音も驚く顔を見せた。
「27歳の時に出会って、彼は60歳。あっという間に恋に落ちたのよ。ふふっ」
思い出すように、ママは小さく笑う。それは日頃見せる流麗な笑顔でもなく、艶やかな微笑でもなかった。ごく普通の、1人の女性としての笑い顔だ。
「もう出会ったときからね、あとどれくらい彼と一緒にいられるかって、いつも考えてたわ。毎日毎日、あと10年くらいかな、あと9年かな……って。それって、凄く幸せなことだと思ってた。だって、あと何年って分かってるから、本当に一生懸命彼に尽くす事ができたから。ちょっとした面倒なことでも、毎日の同じような繰り返し事でも、あと何年って思うと、本当に無駄にできなくなるの……。必死になれるのよ」
「……あぁ」
美音は、想像してみる。確かに、終わりが分かってしまえば、大切なものをより大切に、そうじゃないものは、どんどん捨てていくに違いない。
「結局ね、20年一緒にいられてね」
ママは微笑みながら、美音に視線を戻していた。
「最後までちゃんと看取らせてくれて、本当に優しい人だった」
「……」
美音は黙って、ママの顔を見ていた。きっと「夫婦」という関係ではなかっただろう。なのに、幸せな顔をしている……。
「室岡さんはね、とっても真摯にあなたに向き合ってると、思うのよ」
少しだけ、美音の顔が変わる。不安げに目が泳いでいる。
「これだけ多くの男性を見てきたんだもの、私の見る目は信じてもらっていいわよ」
「そう、ですか……」
美音の顔が俯いてしまった。
「それに、綾ちゃんも心が動き出してる」
「……っ、それは……」
「綾ちゃんの素顔が引き出せる人なんて、陸君意外に始めて見たわ」
「……」
「いますぐ、どうしろって言うつもりもないし、私が言ったところで綾ちゃんの気持ちが変わることはないかもしれないけれど」
ママは美音の手を両手で握った。
「大切にして欲しいの。この絆は」
「ママ……」
「あとどれくらい2人の時間が残ってるかなんて、誰にも分からないのよ。室岡さんはそのことを、ちゃんとよく分かってる。昔から、よく言うわ。『馬には乗ってみよ、人には添うてみよ』ってね」
「人には……、添うてみよ……」
「そう。体を結ぶことなんてね、案外誰とでもできるものなのよ。でもね……、心を結ぶことは、本当に難しい。だから、綾ちゃんには見逃して欲しくない」
しっかり目を見て言われる。美音は、無言で瞬きすることしかできなかった。
「じゃ、これで私の話はおしまい。私のお店の女の子には、みーんな幸せになってもらいたいからね。今日も、よろしくね」
「……はい」
去っていくママの背中を見ながら、美音は覚悟を決めた。
ここまでだ……。




