新しい部署
「今日から鈴沖さんの後任として、一緒に働くことになった杉浦さんだ」
「杉浦美音です。極力スムーズに引き継げるよう頑張ります。よろしくお願いします」
次の週から美音は室岡の下で働くことになった。
「杉浦さん、経費の請求お願いしてもいいですか」
「杉浦さん、資料室の整理の当番、来週からウチの課なんですが、ローテーションがまだ組めてなくて……」
「杉浦さん、会議のレジメとコピーお願いします。これ、資料です」
「杉浦さん、挨拶用の手土産、用意しておいてください。15時に出掛けます」
「杉浦さん、給湯室のバリスタの洗浄、水曜日がウチの当番です」
「杉浦さん……」
怒涛の様に仕事が押し寄せる。さすがに、1週間以上庶務がいないと、小さな仕事が山の様に溜まる。おおよそ覚悟はできていたが、同じ庶務とはいえ部が違えば細かなルールも違い、美音も手間取る。それでも何とか、1日の仕事が終わった頃、美音は違和感を覚えていた。
皆、美音に遠慮がなかった……。
今までは、どの上司も、同僚も、後輩も、美音に仕事を依頼する時は、とても丁寧に、いや、丁寧過ぎるほどの扱いで、そのことが逆に美音をがんじがらめにしてきた。何をするにも、相手の思惑や真意を探りながらで、実際、そこには思惑があり、真意は別のところにあるわけで、そこを踏み外さない様に細心の注意を払って仕事をしてきた。
ところが、この課はどうだ。まるで新人を扱うように、しかも「やり方は分かってるよね」と言わんばかりの任せっぷりで、遠慮どころか、普通にあるべきはずの「先輩」に対する配慮すらない。
「皆、若いのか……」
思い至った時、思わず言葉になった。この課のメンバーは、ほとんどが三隅の事件の後に入社した社員ばかりなのだ。だから、美音のことを知らない。他の人から話くらいは聞いているかもしれないが、誰も体感として感じていない。
「これが、10年という月日……」
別世界の様だった。だれも美音を気を遣わないし、実際そんな暇はなさそうだ。見ているだけでも、皆が手一杯なことは、手に取るように分かった。前任者は妊娠した体で、これだけの仕事をこなしていたのかと思うと、尊敬の念しか湧いてこない。
「お先に失礼します」
美音はいつも通り、18時に席を立った。
「へっ!?」
皆、打ち合わせやら外出やらで、自分の席にいるのは2名だ。その1人、斉木が変な声を出した。ショートヘアが似合う、スレンダーな女性である。身長も170cm近いと思われ、立つと美音は見上げる形になる。
「杉浦さん、お願いしていたインデックスの一覧、明日になるんでしょうか?」
「先程、斉木さんが会議中で不在の時に、机の上に置いておきました。メモも、置いたつもりでしたが、すみません。分かりづらかったですね」
「あっ、ホントだ。ありました。ありがとうございました。お疲れ様」
「失礼します」
そのまま廊下を進んでいけば、外から戻った福田と会う。こちらは、幾分ぽっちゃりした体形で、身長は160cm前後。美音と同じ視線の高さの男性だ。
「もう、帰っちゃう? 俺の頼んでおいたピボットグラフと関数の埋込、きっとできてないよね?」
「1ヶ所不確かな場所があったので、叩き台として作成してあります。サーバーに入れておきましたので、見ておいていただけますか? メモを机に置いておきました」
「へっ、そうなの。ありがとう。お疲れ様でした」
席に戻った福田が斉木に声を掛ける。
「杉浦さん、定時で帰ったよ。すごいね……」
「ねぇ、びっくりした。頼んだ仕事も、終わってたし」
早速サーバーのデータを確認していた福田も、マウスを動かしながら呻く。
「うっ、ホントだ。ここ、間違ってた。杉浦さんの指摘通りだ。ヤバッ」
「杉浦さんって、室岡課長が直接異動を掛け合ったって聞いたけど……」
「う〜ん、なんかぁ、前の部署、2人庶務さんがいたらしくて、即戦力を貸してくれって頼んだらしい」
「ふ〜ん。まぁ、これで、少しは早く帰れるかな。鈴沖さんいなくなってから、余分な仕事多かったから」
「そうそう。こういう地味で細かい仕事、俺、向いてないから、助かる」
「なになに?」
隣で定時後の、15分休憩を取っていた鳴海が会話に加わった。2人より2つ年上の、ママさん社員である。
「杉浦さんが、定時で帰ったって話」
斉木が説明し、鳴海も自分が頼んだ仕事の話をする。
「鈴沖さんなら、私が頼んだ仕事、3日は掛かるわね」
「まさか、今日できたの?」
「さすがにそれは無理だったんだけどね。帰る前に、途中までできたのを『こんな感じでいいですか?』って見せられたんだけど、実はほとんどできててさ」
「へぇ……」「へぇ……」
斉木と福田は声が揃った。
「あとは、細かい書式の変更だけなんだよねぇ。明日の午前中には、必ず終わるな。多分修正なしで、そのまま会議で使える気がする」
「杉浦さんって、なんか取り付く島もない感じで、かなりお姉さんだし、俺、仲良くできるか不安……」
「確かにねぇ。才女って感じよねぇ」
3人で立ち話をする後ろから、誰かが声を掛けながら近づいてくる。
「ん〜、誰が才女だって? そんな人、ウチの課にいたか?」
「あっ、課長、今お戻りですか。お帰りなさい。杉浦さんの話ですよ」
腕組をしながら、斉木が答える。
「あれ、彼女もう帰ったの? みんな遠慮して、仕事頼まなかったの?」
「いえいえ」
「がっつり」
「そうそう」
3人の顔を見て、室岡は目を瞬く。
「何者ですか、あの才女は?」
代表して聞く鳴海に、室岡は笑いながら答えた。
「僕の隠し玉」
「えぇ!? 課長、そんなものまで持ってたんですかぁ?」
「できる男は、違う訳よ」
ふふんと、ドヤ顔で顎を上げる。
「……、何だか違う気がしてきた。単に当たりくじ引いただけでしょ」
斉木が醒めた目で室岡にツッコんだ。
「斉木さんは、いつも僕につれないねぇ」
「間違いないな……」
「うん」「うん」
小さく呟いた斉木に、残りの2人が同意する。「ん?」と惚ける室岡を横目に、皆席に戻って残業を始めた。
「ん? ん?」
周りに置いてけぼりを喰らった室岡は、それでも笑いながら自席に着いた。やはり彼女に頼んで間違いなかったらしい。あとは、コミュニケーションをどうとるかだな……。そんな算段をしながら、膨大なメールのチェックに取り掛かった。
毎日が矢のように過ぎていく。これまで過ごした凡庸な日々の分まで、全てのツケが回ってきたかのような忙しさに、美音は翻弄されていた。30名程いる課のメンバーの面倒や、頼まれる仕事の範囲は、美音が優秀であると分かると同時に、どんどん広がっていった。当然のように、業務時間内では処理しきれなくなる。しかし、美音は残業ができない。実はしたくても、できなかったのだ。
美音が残業をすると、必ず上から圧力が掛かる。結局のところ、常務の指示なのだが、だからこそ誰も逆らえなかった。会社としては、美音には一切不満を言わせないようにしているのだと思う。ほんの少しの不満が、どう発展していくか分からず、恐れているのだろう。その結果、美音は「遅れず休まず仕事せず」の、まるで昔の公務員の様なサラリーマン生活を送ってきたのだ。
余程それが性に合っていれば別だが、それがどれほど苦痛なことなのかは、なったものでなければ分からない。そして、その苦しさに耐えかねて、何かを捨てることで自分を保ってきた。それは、自尊心であったり、承認欲求であったり、自己肯定であったり……。
「さて、どうする……」
美音は捌き切れなくなった仕事を、就業前に前倒し出勤することで解決できると考え、7時には出社し仕事を消化していたが、それでも捌ききれず、6時出勤に切り替えた。美音の会社は、非接触カードで出退勤を管理している。それで残業もかなり正確に記録されていくのだが、夜と違い早朝出勤は時間外扱いにならないため、一番問題が起きにくいと考えた。
しかし、人の目はごまかせない。特に美音の近くにいる斉木や福田達が騒ぎ出した。
「早出した時でも、杉浦さんっているよね」
「うん。この間、出張する前にどうしても資料が必要で会社に寄ったんだけどさ。7時にはもういたよ」
「このフロアでいつも一番早いのは、中山の爺さんだよね……」
ということで、爺さんこと定年後、嘱託として働いている中山の元に斉木は向かった。
「中山さん、庶務の杉浦さんって出勤早くないですか?」
「あぁ、感心なお嬢さんだよねぇ。6時30に出社したら、もういてびっくりしたよ」
同じ社員を「お嬢さん」呼ばわりするのもどうかと思うし、そんな早い出勤というのも、美音同様、この中山自身も問題だ、と思わないところが、問題である。まぁ、今は中山の爺さんのことは置いておいて、斉木は室岡に相談することにした。もちろん、美音はそんなことは全く知らない。
「室岡課長、杉浦さんって、残業できない理由でもあるんでしょうか。今どうやら6時30分前には出社しているらしいんです。それって、残業は付かないですよね」
「6時30分!?」
「はい。中山さんがその時間に出社してるらしいんですが、もう杉浦さんがいるらしくて。フレックス申請でもしてるんですか?」
「フレックスは聞いてない。今、仕事量はどんな感じなの? 鈴沖さんより、多いの?」
「それはもう……。彼女、大変だと思いますよ。皆……、まぁ、私もですが、杉浦さんにことごとく頼んでますから。しかもちゃんと完了させてるし」
「う〜ん……。一度確認してみるよ」
「杉浦さん、ちょっといいかな」
室岡は美音を自分のデスクに呼びつけた。
「はい」
「杉浦さん、今、朝何時に出勤してる?」
「……6時です」
「相談してほしかったけど」
「すみません」
「朝だと残業扱いにならないから、夜には回せない?」
「それは……」
言い淀む美音を見て、室岡は席を立った。
「コーヒーでも飲もうか」
「……すみません」
各階にある休憩スペースに腰を落ち着かせた。
「ピアノのバイト、他でもやってるのかな? それで、夜は定時で帰らないといけないとか?」
「いいえ。ピアノは金曜日と土曜日だけですし、代わりも頼めますので……」
「僕が知らない、何かがあるのかな?」
「……」
「あるって、ことだな」
「……」
「分かった。じゃあ、明日から朝は定時で出勤してくれる。で、残業は夜に回して」
「いえ、それは……。では、皆さんからの依頼を、少しお断りするようにしますので……」
「それじゃ、皆が困る。君が来てから、実際にみんなの残業が減ってるの。ちゃんと、結果が出てる。その実績を、無下にはできないよ。もちろん、君がどうしても夜の残業はイヤだって言うなら、話は別だが」
「……」
やはり、無言になってしまう美音を、室岡は厳しい目で見つめながら決断を下した。
「ここからは、管理職の仕事だ。君は口を出さなくていい」
「課長、でも……」
「もう、席に戻って」
「課長……」
それから1週間程経ってのことである。残業を夜にするようになっていた美音のもとに、部長が血相を変えてやってきた。そこにいた室岡を問い詰める。
「杉浦君に、何をやらせてるんだ!?」
「残業ですが……」
「誰の許可を取ってる」
「誰のって、通常残業だと思われましたから、一般申請はしてありますが……」
「すぐに、帰らせろ」
「何ですか、それ? 逆に、それだってパワハラでしょうに」
「……何でもいい。杉原さんは、残業させるな。いいな、分かったな!」
「……」
「課長、残りの仕事は明日行います。申し訳ありません」
2人のやり取りを見ていた美音は、パタパタと机のものを片付け始めた。そして部長の見ている前で「お先に失礼します」と言い残し、周りの皆の興味の視線を尻目に、あっという間に帰ってしまった。
納得したように部長も出て行く。斉木が室岡の元に来て、皆の代表の様に質問をした。
「どうなってるんですか、課長」
「……」
答えることができない室岡は、大きく息を1つ吐いた。
「皆は仕事を続けてくれ。このことは、僕に任せて欲しい」




