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伊勢海老

 週の初め、オフィスは打ち合わせと会議のオンパレードだ。美音は室岡を探していた。

 室岡のデスクがあるのは、美音のフロアとは違う。仕事も、ほとんど関わることはない。そんな「赤の他人」の美音が、わざわざ室岡のデスクの前に行ってしまえば、どんな目があるか分かったものではない。何が噂の元になるか、何が罪のない人を苦しめる根源になるか分からない。だから、室岡と会おうと思ったら、廊下かエレベーターか食堂か、そんな公共の場所でしか無理なのだ。

 美音は随分前から、人の迷惑にならないように自分の存在を消す術を身に着けていた。その技を駆使するため今日の会議室の予定を確認し、10時過ぎに19階の廊下にいれば捕まえられるのではないかと判断した。はたして、10時を少し過ぎたところで彼はエレベーターから降りてきた。幸運にも、隣には誰もいない。

「課長」

「……杉浦さん」

 突然目の前に現れた美音に、室岡は驚く。その驚きが収まるまで待っている余裕はない。

「少しお時間作っていただけませんか」

「……」

「5分でかまいません。会議室で結構です」

「分かった」

「これ、LINEの認証番号です。できれば、人目がない方が……」

 美音はポストイットを、室岡が持っていた会議の資料の上にポンと貼った。

「分かった」

 室岡の乗ってきたエレベーターの「開」ボタンを押しながら話していた美音は、そのまま扉の中に納まりいなくなってしまう。

「……まるで、くノ一だな」

 ふっと1度だけ笑って、けれどすぐに真顔に戻った室岡は、何事もなかったかのように仕事に戻った。


 会議室は予約がいる。なんの打ち合わせの予定もない美音が予約するのはハードルが高い。室岡が予約するのが一番下手を打たない方法だろう。夕方LINEが来て、どこの会議室かと確認すれば、お店の名前が送られてきていた。ちゃんと地図も共有されていて、さすがに抜かりがない。

「……」

 美音は「了解致しました」と送信した。


「いらっしゃい」

 課長が指定したお店は、「出雲」という名前の割烹料理店だった。「中で待っているように」とのことだったので、長めの麻織物の暖簾をくぐり、白木の格子戸を開けた途端、店主の掛け声が掛かる。

「やあ」

 足元は緑掛かった大きなエクステリア用の石が敷き詰められていて、左手にはオープンな小上りがある。6人用の座敷テーブルが、3つ並んでいて、右手には4人用の椅子とテーブルが配されている。その真ん中を進んでいけば、正面に白木のカウンターがあった。店主は、白い帽子と割烹着姿で、どうぞとそのカウンターに誘っている。そこには、今までの2人の確執など、まるでなかったかの様に、室岡が小さく微笑んでいた。

「課長……。女性の部下と1対1で飲んではいけないんじゃ……」

「そうだな。バレたら、クビだな」

「……帰ります」

「待って、待って。君は、決断が速すぎる。冗談だよ。ハラスメントに繋がらなければいいだけだ。それぐらいの自制心は持ってる」

 慌てて席を立って美音を引き留める。我が社の社内ルールに、女性の部下と1対1で飲んではいけないというのがある。それを美音は指摘していた。これは外資系の企業やメガバンクでの規則を真似て採用されたルールで、実際にこれを守らなかったと懲罰を受けた人間を見たことがない。それに、これはあくまでも部長以上の役員や顧問などに適用されるものであり、課長ごときがやることに、会社がいちいち目くじらを立てていては、いくら人手があっても足らない。もはや形骸化しているルールである。まぁ、飲んだ相手に、セクハラやパワハラと訴えられたら話は別だが……。

「それに、せっかく君から誘ってくれたのを断るほど、僕は野暮じゃないよ」

 とニンマリ笑う。それには美音が、半眼の目で答えた。

「……やっぱり、帰ります」

「あぁ、もう、冗談だってば。とにかく、座って。お店の人が困ってるだろ」

 お茶を出しに来た女性店員さんが、2人の様子を伺いながら少し離れて立っていた。

「……すみません。すぐ済みますので」

 そう店員さんに挨拶し、美音は室岡の横に座った。

「何飲む?」

「お茶で」

「ビール、お願いします。生をグラスで2つね」

「……」

 まだ室岡も飲んではいなかったらしく、勝手にオーダーされて美音は無言になった。

「課長、お話というのは……」

「まぁ、そんなに急がないの。せっかく来たんだから、食事くらいしていけば? ここ、美味しいんだよ」

「課長、私は食事をしたいと申し上げたつもりは、あり……」

「はい、ビール来たよ。まずは、乾杯」

 そう言って無理やり乾杯をして、美味しそうにビールを半分くらい飲んでしまう。美音はどうしようか迷ったが、諦めたように小さく溜息をついて、冷えたビールを口に含んだ。

「杉浦さんはさぁ、嫌いなものはある?」

「……いいえ」

「だそうだ、大将。あとは、お任せで」

「かしこまりました」

 カウンターの中の店主が、先程からすでに手を動かしていたのだが、室岡の言葉に頷いたかと思った途端に、目の前に手の込んだ前菜が置かれてしまった。

「えっ……、いえ、私はすぐ帰りますから……」

「もう、注文しちゃいました。キャンセルできません。ねぇ、大将?」

「はい、できれば」

 次のお造りらしい柵を、切れ味のいい柳刃で捌いている。小さく口を開けたまま、美音があっけにとられていたら、また隣から声が掛かった。

「これ、この季節しか食べられないから、どうぞ」

 そう室岡が頬張っているのは「独活の八幡巻き」である。鯛の身で独活を巻いてある。美音は珍しく、あからさまに眉をひそめて室岡を睨みながら、それでも料理に箸を付けた。

 一口食べて、その柳眉は直ぐに開かれる。小さく目を見開いて、指先を口の前で揃えて咀嚼を続ける。そのままゆっくり飲み込んで思わずため息を吐く。

「美味しい……」

 小さく呟いたのを確認した室岡は、優しい笑顔になった。

「それは、よかった」

 早く用件を済ませて帰らなければと思いながらも、つい次の一品に手が出てしまう。こんな本格的な料理は、久しく口にしていなかった。最後に食べたのは、いつだったか……。それを思い出し、せっせと箸を動かしていた美音の右手が、ゆっくりと止まっていた。

「ん……、嫌いなものでもあった?」

 ビクッとして、声のした方に顔を向けた。そうだった……。室岡と一緒に食事をしていたんだった。彼はずっと無言でいたため、少し美音は存在を忘れていたのだ。

「いえ……」

「じゃ、いい。ゆっくり食べて。杉浦さん、お酒は大丈夫?」

「あっ、いえ。本当にもう……、私の用件は5分で済みますので。課長、先日……」

「大将、熱燗くれるかな。お猪口、2つちょうだい」

「はい」

 室岡は美音の言葉に耳を貸さない。運ばれてきた徳利を右手で持ち上げて、美音にお猪口を持てと催促する。

「あっ、はい」

 と慌てながら、美音は注がれる。すぐ注ぎ返そうと、お猪口をカウンターに置き、徳利を下さいと両手を差し出したのだが、室岡はそのまま顎を動かして「まずは君が飲め」と、注がせてくれない。しょうがないので、美音はお猪口に口を付けた。

「いい飲みっぷりじゃない」

 一口で飲み干した美音にそう声を掛けると、空いたお猪口に、また並々とお酒を満たした。美音は今度こそと、お猪口を置き、徳利を催促する。やっと室岡はそれをくれて、自分のお猪口を差し出した。

「課長、今日はお仕事、良かったんですか?」

 こんなことになるとは思ってなかったので、美音は室岡の予定も確認せず要求したのだ。そのことが気になっていた。

「これくらいの時間が作れなくては、仕事はできないよ」

「……そうですか。すみません……」

「どうした? 今日の天気なら、熱燗の方がいいと思ったんだけど、苦手だったか?」

「いえ……。美味しいです。料理とも、とても合いますし」

「だそうだ、大将。僕、次お造り、先に食べたいや」

「かしこまりました。お客様もお出しして、よろしいですか?」

 大将にそう確認された美音は、慌てて前菜の残りを平らげた。

「慌てなくていいのに。ゆっくり味わってくれると、嬉しいな」

 そういって、またお酌をされた。美音はここまできて、やっと気が付いた。室岡はディレクターだ。顧客の接待など、朝飯前である。自分のペースに巻き込み、相手を意のままにするくらい訳もない。とても美音が敵う相手ではない。また1つ、ため息が漏れた。

「すみません。大したお相手もできなくて……」

 少し右眉を上げた室岡が、自身の空いた猪口を差し出した。美音は慌てて徳利を手に取る。

「こうやって、注いでもらえるだけで十分楽しいよ。わいわい騒ぐことだけが、食事の楽しみとも限らない。ゆっくり手の込んだ一品を味わって、一緒に美味しいといえる相手がいる食事なんて、そう何回もあるもんじゃない。特に我々のような立場ではね」

 美音は少し室岡を見つめてしまった。この人は、人を引き付ける能力を天性の才として持って生まれたのかもしれない。との思いが、そのまま顔に出ていたらしい。

「何? 何だか尊敬された気がするけど。ははっ」

「いえ、感心していただけです」

「へぇ、どんな風に? 後学のために、ご教授下さい」 

「課長は、人たらしだなぁと……」

「……。それは、褒められてるの? けなされてるの?」

「さぁ」

 美音は答えずに食事を進める。もう、この人とは対等に心を配ることをやめようと、早々に決断した。とにかく、これ以上関わらないで欲しいと伝えられれば、それでいい。腹が決まれば、態度も決まる。シャキッと姿勢を正した美音は、本格的に食事を楽しむことにした。

 隣で見ていた室岡は、何だか吹っ切ったように食べだした美音を、面白いものでも見るかのように眺めている。そのうちじんわりと、美音との隔たりが少し縮まったことを自覚した。

「ところで杉浦さんは、今の部署に執着はある?」

「はい?」


 一昨日の午前の出来事である。

「課長、鈴沖さん、先程早退しました」

「どうした。つわりか?」

「はい。そのようです」

「大変だな、女性は。大丈夫なのか?」

「ひどいのは大抵2、3ヶ月なんですけどねぇ。私は割と軽めでしたので、彼女の苦しさは分からないんです。まぁ人にもよりますし、ちょっと、アシスタントを付けた方がいいかもしれませんね」

 先輩のママさん社員である鳴海が、顎に手を当て腕組をする。

「人事に掛け合ってみるか……」

 一応、人事部にはすぐ打診したのだが、派遣で対応できないか検討するとのことで、2、3日待って欲しいとの返答だった。ところが、17時を過ぎたところで、鈴沖から連絡が入った。

「切迫流産の可能性……」

 緊急入院になってしまったのだ。今後安定期に入るまで、ベッドから出られないらしいと分かる。鈴沖は庶務だ。室岡の課の庶務作業は、彼女1人で担っていた。新しい人を充てがうことはすぐにでもできるだろうが、仕事の引継ぎができないとなると、誰でもいいという訳にもいかなくなった。


「平川課長、そちらの杉浦さん、お借りることはできませんか? 確か、育児休暇から戻った庶務さんがいて、今2名いると人事から聞いたんですが。もちろん、休暇明けの方でも構いませんが」

「……」

「杉浦さん、優秀だと聞いたものですから、短い期間で構わないのでお借りできないかと……」

「部長に聞いてみるが、異動でもいいぞ」

「……何ですか? 優秀なら、そちらも困るでしょうに」

「……いや、よければどうぞ」

「どうぞって……」


 ――部署も転々と異動しました。上も皆、関わり合いたくなかったんでしょうね。


 木下の言葉が甦る。平川課長は「お前も物好きな」という顔をする。思った以上に確執が深い現実を見せられて、さすがの室岡もたじろいだ。しかし今更、欲しいといってしまった後に、もういらないとは言えないだろう……。

「助かります……」


 室岡はお酒を飲みながら、経緯を説明する。

「ウチの課の庶務さんがね、急に産休に入ってしまってね、困ってる」

「……はい」

「できれば、仕事の内容もよく分かっている君に、後任をお願いできないかと思ってね。今、君の課にはもう1人庶務さんがいるって聞いたんでね。どうだろう」

「……私に選択の余地は、あるんでしょうか」

「……ないな」

「っ……」

 美音は驚いた。今までなら、皆、私が断ればそのまま受け入れられてきた。とはいえ、断ることはなかったが……。それを、この課長は「普通の人」みたいに、そんな選択できるわけないだろうと言い切る。やはり、10年前のことを、知らないのだ。

「いつからでしょう」

「今、部長に打診中だから、その返事待ちでね」

「……すぐ、了承されると思います」

「……」

 この子は、ちゃんと自分の置かれている立場を分かっている訳か……。それほど、当たり前のように「特別扱い」されてきたということだな。……だから、あの雛人形か。

「……そう。じゃ、され次第という事で」

「分かりました」

 また、1からだ……。1から居場所を作り直さないといけない。椀物に手を伸ばし掛けていたが、さすがにその手が止まっていた。1点を見つめたままの美音に向かい、室岡が徳利を掲げた。美音は、箸をおいて、お猪口を差し出す。

「お互い、サラリーマンは辛いねぇ。まぁ、新しい命を守るためだからね」

「新しい命?」

「個人情報だから、あんまり声高には言えないけどね。前任者が切迫流産の可能性があって、急遽ってことだ。一度様子を見て、引継ぎのために入院先に行ってもらえると助かるけど」

「分かりました……。いいですね、新しい命」

「うん。まだ僕たちが成し得ていない仕事だな」

「……」

「あ、セクハラだね。訴えないでよ。口が滑った」

「いいえ。私と違って、課長ならその気になれば、いつでも叶えられそうなミッションですけど」

「ははっ。なかなか、そうもいかない」

 室岡のお猪口にも注ぎ、徳利は空になった。追加を室岡が頼んだ。

「僕は今、母と2人暮らしでね」

 椀物の「しんじょ」を頬張りながら、室岡が続ける。途中、「これ、美味しいよ」と言いながら、美音にも食べて見ろと顔で催促されたので、美音も食事を再開させた。

「ほんと、美味しいですね」

 美音が答えれば、室岡は顔だけで「だろ」と返事をする。

「父は僕がまだ30になったばっかりの時に、脳梗塞で亡くなってね。姉がいるんだけど、もう嫁に行ってたから、それからはずっと2人。流行らないでしょ、姑付きの長男」

「ふふっ、確かに」

「……今日、はじめて笑ったとこが、そこ?」

 指摘されて、少し顔に血が上ったが、お酒も入っているので、きっと分からなかっただろう。

「お母様は、お元気なんですか?」

「この間、家の中で転んでね。骨折寸前。慌てて、手すりを付ける工事をしたよ」

「良かったですね、骨折しなくて。骨折すると、体全体の成長が止まるって」

「そうなの?」

「ええ、テレビの情報ですけど。大腿骨を骨折すると、骨が出している成長物質の放出が途絶えてしまうらしいんです。もう、新しい骨は作らなくていいという指令が出る。つまり、体は確実に『死』に向かっていくのだとか。しかも、急速に……」

「そうなんだ……。人間の体って、よくできてるねぇ」

「骨に衝撃を与えることが、大切らしいですよ。若さを保つ秘訣だそうです」

「そういわれてもなぁ。ジムに行く時間もないし、気力もない」

「意外ですね。てっきりトレーラングでもされているかと思ってました」

「そう? どの辺が?」

 と、またニンマリするので、美音は「しまった」と内心舌打ちした。

「さぁ」

 クラブならここでしっかり相手を褒めて、いい気持ちにさせるのだが、室岡相手にそれは必要ない。

「つれないなぁ。褒めてよ。それでしか、男は生きていけないんだから」

「……嫌です」

「ははっ。大将聞いた? 面白い子でしょ」

「ええ」

 大将は苦笑いしながら、手を休めることはない。次に出される「焼き物」のために、奥の焼き場に移動したりしている。美音はしょうがないので、もう一度室岡にお酌をした。

「君は? 実家暮らし?」

「いえ、1人暮らしです。実家は福島なので……」

「えっ、じゃあ、震災の時は……」

「無事でした。家は内陸ですから……」

「そう、良かった」

「……ありがとうございます」

 明らかに美音の顔色が変わった。普段ほとんど表情が変わらないだけに、室岡は戸惑う。これ以上この話は続けるべきではないのか……。

「ご両親は、健在?」

「はい……」

「それは、何よりだね」

「はい……」

 やはり、この会話は健全ではないらしい。ちょうどいいタイミングで、「伊勢海老のうに焼き」が出される。

「おっ、今日は伊勢海老なんだ。杉浦さん、持ってるねぇ」

「美味しそうです」

 「持ってる」と言われるほど、美音は運は強くない。ただ、どうやらラッキーな献立らしいので、素直に喜んだ。2人して頬張って、さすがに声に出る。

「んっ、旨い」

「ふー、美味しい」

「旨いものは、世界を平和にするなぁ」

「……」

 少しあきれ顔になっていたのだろう。室岡が聞いてくる。

「何?」

「伊勢海老の一口で、世界って……」

「そうかなぁ。グローバルな視点じゃない?」

「じゃないですね……」

 笑い出した室岡に釣られて、美音も笑っていた。確かに「伊勢海老」は美味しかった。


 ご飯に味噌汁が出された頃には、室岡との会話は世間話の様になっていた。会話は室岡からだけではなく、美音からもするようになっていて、このまま食事が終わってしまうかと思われたほどだ。

 しかし2人とも、肝心な用件を忘れていた訳ではない。

 

「で、杉浦さんの話は何だった?」

 そろそろ切り出そうと思っていた頃に問われ、美音はやはり室岡の高い能力を認めざるを得ない。

「……課長、先日煌愛欄(あきら)にいらっしゃいましたよね」

「……バレてたか」

「……はい」

「それで?」

「もう、来ないで頂けますか?」

「どうして?」

「ピアノが、弾けなくなります」

「……」

 室岡はずっと美音を横から見つめている。美音はその目を見ることができない。

「僕も、君に謝りたかった」

 弾かれた様に室岡を見た。やっと視線が合って、室岡は真摯な顔になる。

「……何を……」

「君を疑ったことだ。すまなかった」

 室岡はスッと立って、そのまま頭を下げた。

「や、やめて下さい、課長」

 他の客もいる。どうして、こんな目立つことを躊躇なくこの人はできるのだろう。

「お願いです。座って下さい」

 やっと座ってくれて、周りの好奇の目も、徐々に無くなった。

「あの後、自責の念に駆られた。……なんとなく、裏切られた様な気になって、勝手に想像を膨らました。完全に、僕の暴走だった。本当にすまなかった」

 そう言うと、もう一度室岡は頭を下げた。急に胸に何かの塊が込み上げてきて、美音の視界がぼやけた。

「杉浦さん……」

「すみません……なんで……も」

 どうしてだろう。こんなにまっすぐ謝られて、美音の中の何かが崩れた。我慢していた小さな塊が、いきなり取り除かれて、分からないうちに、涙がこぼれる……。大将がそっと温かいおしぼりを渡してくれて、ただ頷いて、それを手に取った。しばらく元に戻れなかった。


「もう、大丈夫です。すみませんでした……」

 涙が収まって、胸がすっきりしている。それに反して、室岡はどうしていいか分からないままだ。

「僕は、……どうすればいい」

 室岡がさすがに狼狽えているのを見て、少し可笑しくなった。ほんとに、今日の私はどうかしている。

「ははっ。本当は……」

「うん」

「本当は、もう関わらないで下さいと言うつもりでした」

「うん」

「でも、異動になればそうもいかないですよね」

「あぁ……」

「だから……、もう、いいです」

「……」

「でも、やっぱりお店には来ないでください。ビックリします」

「……それで、音が止まりそうになったのか?」

「よく、ご存じですね。ひどい音でしたもんね。こちらも、バレてましたか……」

 美音はやんわりと笑った。

「いや……」

 この笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも、美音らしいのではないかと室岡は思う。

「私も、(あお)りました。ちゃんと、迎えの黒服のことをお話すれば、よかったかもしれない」

「いや……、でも、それは確かに……」

「ははっ。じゃ、お相子(あいこ)ですね」

「それで、君の気が済むなら……」

「大丈夫です。伊勢海老おいしかったです。もう、十分です」

「だそうだ、大将。助かった……」

「大将。おしぼり、ありがとうございました」

「どういたしまして」

 大将は満足げに微笑んでいた。

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