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子守歌

「anokanori_2950さんですか?」

 後ろから誰かに声を掛けられて、結衣は歩みを止めた。振り向けば、40代くらいの男性が、走って来たのか少し息を切らして立っていた。結衣のユーザーネームを呼ぶその人は、スーツをすっきりと着こなし、この辺にはいない感じの、スキッとした出で立ちをしている。目力が強く、頭が良さそうで、いかにも人の上に立っていそうな顔なのだが、明らかに切羽詰まっているのが分かった。

「だ、誰?」

「ダイレクトメッセージをさせていただいていた、sippaisinainaokiです。室岡直輝と言います。本当に、よく来てくれました。ありがとうございます」

 と、深々と頭を下げた。

「えっ、だって、店にいるって……。黒いセーターじゃないし……」

 逃げ腰になりながら、結衣は反論する。

「すみません。彼はダミーです。昨日、アルバイトとして雇いました。どうしても、あなたにお会いしたくて、僕は道路を挟んだ、あの店で待ってました」

 と、約束のカフェの前にあるファミリーレストランを指差す。

 ぅわっ! これ、やばい系じゃない!? やっぱ、逃げよ。(わず)かに後ずさりを始めた結衣に向かって、室岡はもう一度頭を下げた。

「お願いです! 美音に合わせてください。頼みます……」

 最後のひと言は、もう消え入りそうで、さすがに結衣の足も止まった。

「美音ちゃん、会いたくないかもしれないし!」

 恐怖を打ち消すように、ちょっと怒鳴ってしまった。自分の声を聴いて、少し引いた結衣は、何とか落ち着こうと声のトーンを落とした。

「美音ちゃん、こっちで静かに暮らしてるのに……。やっと、落ち着いたのかもしれないのに……」

「……分かってます。でも……、僕は諦め切れない。美音は今、誰かと一緒に暮らしてるんでしょうか!」

 やはり、顔を歪めて言い募られて、結衣も少し客観的な気持ちになってきた。怖い人ではないらしいから、ここまできたら、話ぐらい聞いてやってもいい……。

「分かったから、まずは話を聞くから、あのカフェにいきませんか?」

「あぁ、ありがとう。本当に……」

 そう言って、カフェに移動した。ダミーと言われていた男性にはもう帰ってもらい、その席に入れ替わって座った。

「私、美音の元上司だったんです」

 室岡は名刺を差し出した。

「結衣です。美音ちゃんの、知り合いということで……」

「分かりました」

「で、室岡さんがホントに美音ちゃんの上司だって証拠、あります?」

「あぁ、そうですね。……これで、分かるかどうか」

 室岡はスマホの画像を見せる。そこには、室岡と美音の他、斉木や広瀬などが写っていた。

「美音の歓迎会の時の写真です」

 皆楽しそうに、乾杯をしている。美音は少し笑っているが、今とちょっと感じが違う……。

「美音ちゃん、綺麗にしてるけど、なんかちょっと感じが違う。あんまり、笑ってないっていうか……」

「……では、今の美音は、もっと笑ってるんですか?」

「うん。もう少し、普通に笑ってる」

「そうですか……」

 少し寂しそうに下を向いたが、すぐに顔を上げた。

「どうしたら、居所を教えていただけますか?」

「まぁまぁ、焦らずに。大体DMで経緯は分かったけど、最終的な決め手はなんだったの?」

「イヤリングです。あなたのお子さん……ですか? あの女の子は」

「えっ、あっ、まぁ……」

「あの写真の隅に、イヤリングが写ってるんです。それは、僕が送ったものなので」

「えっ、そんなの写ってた?」

 結衣はスマホで画像を確認した。あぁ、確かに小さく写ってるわ……。これ、いつか美音ちゃんに聞いたやつだよねぇ。

「これ、ブランドもんだから、どこのブランドか言えます?」

 室岡は答える代わりに、カバンから白い箱を取り出した。それはしっかりした作りのもので、きっと高級な宝石店のものだと思わせる風情をしている。その蓋を開けて、中身を見せた。

「これと、同じ店のものです」

「うわっ、ここのって、すっごい高いのに……。どうするつもりなの?」

「会ったら渡そうと、ずっと前に用意したものです」

 それを見て、室岡の本気は分かった。が、そもそも、どうしてこの人の前から、美音ちゃんは消えたのかだよね。

「それって、室岡さんの一方的なやつじゃないの?」

「……、愛してもらっていたと、思っています」

 わっ、やっぱ東京人だわ。よくこんなセリフ、さらっと言える……。

「じゃあ、なんで美音ちゃんは、あなたの前から消えたのかなぁ。それが一番肝心だよ」

「結衣さんは、彼女からその話は、お聞きになっていないんでしょうか」

「うん、聞いてない。昔の話なんて、みんなしないよ。特に東京から来た人は」

「では、僕の口からはお伝え出来ませんが、……自由になりたかったんだと、思います」

「自由……」

 まぁ、そうか。私も、同じような理由で、こっちに来たからな……。でもなぁ……。

「それって、室岡さんといては、自由になれなかったってこと?」

 室岡は、一瞬眉根を寄せた。言葉を選ぶように、慎重に答える。

「決してそうではなかったんだが……、彼女はそう考えた。僕のために……、と言った方が、正しいかもしれない」

 そう、会社から自由になるだけなら、会社を辞めれば済む話だ。それを、僕からも離れたのは、僕が彼女と一緒になれば、今度は美音が足枷になり、僕が会社に縛られると考えたからだ。部長と恭介の話を聞いて、室岡もやっと美音の気持ちが分かった。

「なんかさぁ、小難しいねぇ。好きだから一緒にいたい、じゃダメなわけ?」

「本当に、そうしてくれればよかった」

 室岡は、諦めたようにそっと笑った。そんな室岡を見ながら、ふーっと大きく結衣が溜息をついた。

「もう、分かった。じゃね、1つだけ条件がある」

 そう言うと、結衣は室岡に対し約束を取り付ける。最初室岡は、その約束に躊躇したが、そこは譲れないからと突っぱねたら、覚悟を決めた顔になった。それを見て、結衣はスマホを取り出した。


「あっ、もしもし、美音ちゃん。ん、お疲れ。今日さ、急な用事で、愛香里迎えに行けなくなっちゃって……。うん。……うん。それでね、お迎えお願いできないかなぁと思って。うん。ごめんね」

 すぐ電話の向こうに美音がいることを聞いて取った室岡の顔が、すぐにでも声を聴きたそうな顔をする。それを片手で制しながら、結衣は話を続けた。

「それでさ、そのまま駅前の洋食屋に連れてきてくれないかな。うん、そう。大きなホテルの前の……。うん。……少し待ってくれれば、私も行けるから。あそこのお子様ランチ、愛香里大好物なの。お礼に、美音ちゃんも一緒に食べよ。……大丈夫〜。ちょっと臨時収入入ったから。うん。うん。じゃね〜」

 室岡は黙って、もう一度頭を下げた。結衣はそんな室岡に向かって、右手を突き出した。

「はい、臨時収入」

「あぁ、待って……」

 室岡は財布から1万円を取り出し、手に乗せる。

「これで、足りるだろうか」

「十分です。ご馳走様。後は、待つだけだね」


 それからの1時間、結衣はポツリポツリと、こちらでの美音の様子を話してくれた。その話を1つ1つ聞きながら、美音にとってこの1年が、美音の人生を取り戻す1歩になっていることを知った。

「離れていて、よかったかもしれない……」

 そんな独り言を結衣に聞かれてしまい、「じゃ、このまま帰る?」と言われて慌てた。そして約束の時間になり、洋食店の前で美音を待った。


「そっかー、今日はみんなで歌を歌ったのねぇ」

「うん、そうだよ。おーきなくりのーきのしたでー」

「あーなーたーと、わーたーしー、なーかーよーくーあそびましょー」

「おーきなくりの、きのしたでー」

「上手だねぇ、愛香里ちゃん」

「おーきなくりのー……」

 途中手振りも加えながら、一緒に何度も繰り返す。手を繋いで、優しい笑顔で……。髪を明るくしたんだね。そうしてると、まるでその子のママみたいだ。

「美音……」

 室岡は、走って抱きしめたい衝動を必死で抑えながら、2人がやって来るのをじっと待った。

「あっ、ママー」

 結衣を見つけた愛香里は、美音の手を離して走り出す。

「愛香里ちゃん、走ると危ないよ〜。ふふっ」

 視線で、結衣までの道のりを確認する。大丈夫、自動車は来てない……。あれ、結衣ちゃんと一緒にいるの、誰だろう?

 美音の足が、止まった。

「どうして……」


「動いちゃ、ダメだよ。美音ちゃんが、室岡さんのところに来るまで、動いちゃダメ。約束だったよね」

 結衣は、万が一美音が逃げ出すようなら、それを追わないと室岡に約束させていた。室岡は奥歯をグッと噛んで、足に力を入れる。愛香里が結衣の所に到着して、動かない結衣を不思議そうに見上げた。

「愛香里、ちょっと待ってね〜。美音ちゃん呼んであげて」

「うん。美音ちゃーん。早くー」

 美音は前にも後ろにも進めない。視界が滲んできて、そのまま両手で顔を覆って、俯いてしまった。

「あっ、だめだっ……て……」

 結衣の小さな制止は、もう何の効力もなかった。室岡は走り出して美音に向かう。

「……ま、しょうがないか。よし、愛香里、お子様ランチ食べに行こー」

「わーい」

 2人はそのまま洋食屋に入っていった。


「美音!」

 室岡は泣いて動かない美音を、力いっぱい抱きしめた。

「会いたかった……」

「課……長……」

 あの懐かしい香りがした。室岡の、人工的ではない、室岡自身の香り。この胸も、この腕も、変わらない。あの日、優しく美音を抱いてくれたそのままに、室岡の温もりが包み込んでくれる。あぁ……、夢ではない。

「もう、どこにも行くな」

「課長……」

「僕の傍に、いてくれ」

「私……」

「諦めないよ」

 美音が何か言う前に、被せるように室岡らしい言葉が飛び出して、思わず泣き笑いになる。

「はい」

 その返事に、室岡はもう一度腕に力を込めた。顔を覆っていた両手もそのままに抱き締められた美音は、その手を伸ばし室岡の首に腕を回した。頬と頬が触れ合って、室岡は確かめるように何度も頬ずりをして、もう一度囁いた。

「会いたかった……」

 美音は、東京では決して口にしなかった言葉を、素直に口にする。

「私も……です」

「美音」

 応えるように呼ばれて、更に強くあの大きな掌で頭を抱え込まれた。

「もう、二度と1人にはしない」


 どうやってここまでたどり着いたのか……。どうやって、あのインスタを見つけ出したのか……。きっと、大変だったに違いない。そこまでして会いに来てくれて、これ以上の幸せがあるだろうか……。

 美音は室岡の気が済むまでそうしていようと思ったのだが、いつまで経っても離してくれないので、しょうがなく小さく文句を言った。

「課長、苦しいです」

「ははっ。逃げないか?」

「もう、しっかり捕獲されたので」

 やっと力を抜いて体を離してくれた。けれど、左手は美音の手を握って離さない。もう一方の右手を美音の頬にそっと当てた。

「本当に、美音だ。ちゃんと、美音だ」

「ふふっ」

「そんな風に、笑うようになったんだな……。離れていたのも、悪くなかったみたいだ」

「はい」

「今日も、着けてくれてる」

 そう言って、耳元のイヤリングに触れた。

「お気に入り……ですので」

 少し目線を外しながら、どんどん顔が赤くなる。予想外の反応に、室岡は思わず言葉が出てしまう。

「こんな可愛いの、どうなってるの……!」

 たまらず、もう一度抱き締める。あぁ、もう! どうしてくれる!

「課長、だから、苦し……いですってば」

 美音は背中に回した手で、室岡をパタパタと叩いた。

「もう、それ以上可愛い事しないでくれる?」

「もぅ!」

 諦めたように動かなくなった美音をやっと解放しながら、もう一度顔をつくづくと眺めた。少しムスッとした顔も可愛い。そんな顔も、東京じゃ見れなかった。

「これからもっと、色々プレゼントする。会えなかった時の分まで、するから。……あっ、そういえば」

 すっかり忘れていた白い箱を、ポケットから取り出した。

「はい、新しい試供品。嫌なら、捨ててくれていい」

 イヤリングと同じ黒いビロードのその蓋を、驚いた顔のまま美音は開けた。そこには、指輪が入っていた。2連の地金の部分には、パヴェダイヤが散りばめられていて、その上に1粒の大きなダイヤが乗っている。美音は室岡の顔を改めて見た。

「課長……」

「もう、君の上司じゃないよ……。美音……、もう離れるのは無理だ。受け取って」

 箱から指輪を外した室岡は、美音の左手を手に取り、薬指にはめた。美音はもちろん、抵抗しない。

「あれ、回っちゃう。サイズ、大きかったか……」

「……大丈夫です。すぐ直してもらいます。課……、室岡さん……、ありがとうございます。大切にします」

 大事そうに左手を眺めたあと、その手を右手で包んで、祈るように胸に当てる。そのまま、上気した顔でふわっと笑う美音に、室岡の気持ちが限界を超える。

「キスしたい」

そのまま顔を近づける室岡に、美音は知らずといつもの半眼に戻った。

「ダメです。こんな街の真ん中で。都会と違って、すぐ噂になります」

「いいじゃないか。噂にしてもらおう」

「ダメです!」

 スタスタと歩き出してしまった美音を追い掛けるように、室岡も歩き出す。横に並んで美音の手を取り、指を絡ませ握りしめる。

「これぐらいなら、大丈夫だろう?」

「……もぅ」

 また赤くなった美音に、室岡は少し可笑しさを感じた。こんなに素直に感情を出せるようになったのか……。あっ、そういえば、あの時のことを、聞きたい! 赤い顔の美音を見て、急に1年以上前の事を思い出す。

「美音に会ったら聞きたかったんだ。前、美音のお母さんが骨折した時、打ち合わせブースで、君の言った言葉が聞き取れなくて。あの時、何て言ったの? 教えて」

 突然そんなことを言われて、思い出すような顔になった美音が、またどんどん赤くなった。

「……そんな昔の事、覚えてません」

 室岡の視線から逃げるように、プイッと向こうを向いてしまった美音の手をグッと引いて、もう一度体を引き寄せた。

「じゃ、キスする」

 室岡は悪い笑顔を隠しもせずに、美音をじっと見る。

「ちょっ、離してください」

「嫌だ」

「……、もぉ、本当にしつこいって言われたこと、ありません?」

「ない! で?」

 腰をしっかり抱きかかえられているその力強さに、諦めたかの様に美音は話し出す。

「……あの日は、私も疲れてて、口が滑っただけで……」

「うん」

「……む、無理……」

「離さないよ。ダンベルの効果、見せようか?」

 またムゥッと顔を歪め、渋々といった体で口をギュッとつむった。この顔見てるだけで、可愛い……。これが自由な美音……。

「課長が、前日ちゃんと病院に行って、もう大丈夫だっておっしゃったので……」

「うん」

「それはよかったです。課長がいないと寂しかったので、と……」

「……」

 室岡の手の力が、パッとなくなった。美音はまた血が上りそうになる顔を横に向け、知らぬ存ぜぬを通そうとする。

「もう一回、言って……」

「あぁ、もう忘れました! さ、行きますよ」

 歩き出そうとする美音の顔を、室岡は無理やり両手で挟んで、キスをした。もう、こっちも我慢は無理! 

「課長!」

「条件反射だ。しょうがない」

「もぅ、2度と言いませんからね」

 美音は、室岡の手を改めて繋いで、引っ張って歩く。そんな美音の足が、ふと緩んだ。

「そういえば、私も聞きたいことがあったんだ……」

「何?」

「私のこと、どうやってアシスタントに引き上げられたんですか? 普通なら横槍が入ったはずなのに……」

「ああ、それなら簡単さ」

「何ですか?」

「『杉浦さんがやりたいと言っています』って、上に交渉した。次の日には、了承されたよ」

 美音の要求ならば、会社が断れないのではと判断した上での、交渉だった。

「……やっぱり課長って、嘘つきですね」

「もう課長じゃないってば……。それに、本当に君を適任だと思ったからね……」

「……ありがとう……ございました」

「ん……。あっ、そうだ! あれは、どういう意味? 『鍵盤』の写真。やっぱり、僕がその前に、ひどいこと言ったから?」

「あれは……、室岡さんあの時、夏菜子ちゃんの肩抱いて、手まで握ったから……」

「えっ……」

 今度は完全に室岡の足が止まった。

「じゃあ、『彩雲』は? あの後すぐに美音は会社を辞めて、幸運の印でもなんでもなかった。僕が言った言葉は間違ってた」

「……だってあの時、室岡さん、綾にセクハラ……」


 ――綾ちゃんになってくれないかな……

 ――ん〜、セクハラ


「……美音」

「この前の彩雲だって、見た翌日、課長からフォローしてもらったんです。いつでも幸運を運んでくれてますよ」

 溶けそうな顔でぼぅっとしている室岡を、また引っ張るように歩き出し、ふと美音が確認する。

「ところで、私達、どこに行こうとしてるんですか?」

 今度は、足の緩んだ美音を、室岡が入れ替わるように引っ張って歩く。

「母さんがね……」

「はい?」

「いつ孫を見せてくれるんだって、うるさい」

「はぁ」

「だから、今から僕の部屋」

「僕のって……。ちょっ……、課長ー。私、お腹が減りました。夕飯食べたいですー!」

「ダメ。1年以上待たされた僕の方が、食べるのは先! それに、課長じゃない」

「もぅ、直輝さーん!」

「そんな風に呼ばれたら、絶対無理。もう、猶予無し!」

 すぐ近くにあった室岡の宿泊するシティホテルに、美音はそのまま引っ張って行かれることになった。



「おーい、(はな)ちゃん、出るぞー」

「はーい」

 美音は小さな下着を準備しながら、返事をする。

「いいわ、美音さん。私が受け取って来るから」

「ああ、お義母さん、お願いします」

「あらら〜、華ちゃん、気持ちよかったでちゅか〜」

 お風呂から出た赤ん坊を義母から受け取って、下着を着せる。そのまま胸に抱えて、オッパイを咥えさせれば、勢いよく飲み始めた。


 美音は結婚の際、室岡の実家で、室岡の母との同居を快諾した。義母が倒れてから同居したのでは、介護は逆に難しくなる。元気な時に、きちんと人間関係を結んでおかないと、介護は無理なのだ。それに、初めての子育てに、やはり義母の経験は、美音を安心させてくれた。室岡を育てた人なのだ、信頼している。まぁ、義母はあの性格なので、面倒見たい時だけ見て、あとはサッパリ干渉して来ないので、嫁姑としても上手くいっている方だと思っている。


「おーい、華。反対側は、パパに残しといてくれよ〜」

 頭をガシガシ拭きながら、室岡も華の所にやってくる。そんな夫に、美音は相変わらず半眼で答えた。

「使い古された言葉を……」

「なーに言ってるの。それだけ男は昔から変わってないってこと。分かってないでちゅね〜、ママは」

 と華のホッペを人差し指でツンとする。そのままビールを飲んで、うちわで華に風を送る。優しい顔で子の顔を眺めている室岡を見ながら、美音は声を掛けた。

「直輝さん、本当に大阪はもう大丈夫なの……?」

「いいさ。いつまでも僕に頼ってるようじゃ、あいつらも進歩がない。観世さんも、やっと大阪のやり方が分かってきたみたいだから、大丈夫だ」

「そうですか……」

「それに、僕は美音を嫁さんにしたから、2階級特進だ。本社に戻るくらいのわがままは聞いてくれるよ」

 室岡は次長に昇進している。それは、大阪での仕事で、室岡のチームが広告の賞を取ったことが大きく評価されてのことだ。決して、美音がらみの忖度があったわけではない。

「そんな……、それは直輝さんの実力で、私のせいじゃないから……」

「いいの、いいの。僕、全然気にしてない。どっちも思い通りなんだから、WinWinなの。それに、そんな陰口言わせない仕事、僕、してるから」

 言い切る室岡に、美音は小さく溜息を吐く。陰口を言わせないために、これからも無理を重ねないか、やはり美音は不安である。そんな美音に、室岡は「大丈夫」と言いながら、そっとキスをした。美音が不安な時は、何も言わずにいつもそうしてくれる。子供が生まれても、変わらずに。

「島崎部長ね……、四国に異動になった」

「えっ……」

「左遷だ。パワハラが見つかってね……」

「……そうですか」

「常務が病気で入院してから、さすがに上からの圧力も効かない。やっと、成るように成ったってことだ」

「……」

「もうこれで、本当に君も自由だ。僕が会社変わればよかったのに、よく我慢してくれたよ」

「とんでもない。直樹さんは、あの会社には必要な人なんだから。私のことなんか、比較にならない」

「会社にとっては、僕の代わりなんていくらでもいる。でもね、僕にとって美音の代わりはいない」

 そう言いながら、お乳を飲み終えた華を、室岡は抱き上げてゲップをさせる。

「おぉ、上手にできましたね〜。じゃ、あとはゆっくりお休み〜」

 そのまま寝かしつけるために、ゆっくりと家の中を歩く。華は、パパに抱かれて歩いてもらうと、あっという間に寝てくれる。早く室岡が帰宅できた日は、華の入浴と寝かしつけは、室岡の仕事となっている。

 ベビーベッドに華を寝かせて、室岡はまだ片付けをしている美音の後ろから抱き付いた。ゆっくり手が動き出す。

「もう、まだ9時だよ。やること、一杯残ってるの!」

「だって、また美音は3時間後には起きなきゃいけないんだから、その前に、僕が独占するの」

「こらっ、もぅ」

 相変わらずダンベルを続けている室岡の力には敵うはずもなく、美音も吐息が甘くなっていった。こんな幸せな日が来ることを、美音は想像すらしていなかった。何もかも、室岡に出会ったことから始まった幸せである。室岡の頭を抱きつつ、美音も幾度となく繰り返されて来た室岡の愛撫に、身を任せていた。

「美音さーん、メロン食べる―?」

「……はーい」

「もう、母さん……」

 1階の台所から義母が声を掛けてくる。いきなりぐったりした室岡をどかして、美音は起き上がる。

「待ってて。メロン持って、すぐ戻って来るから」

 ふてくされた室岡のほっぺをツンとして、美音は部屋を出る。やっぱり室岡は、大きな子供だ。ふふっと笑いながら下に降りていけば、メロンが切って置いてあった。義母の部屋にお礼の言葉を掛けて、それをお盆に載せて2階に戻る。

「早く! それは、後で」

 もう1度始まる2人の時間に、美音はもう気兼ねなく浸る。いつまでも、こんな風に過ごしていけたら、美音は自分が生まれたことが、間違いではなかったと心から思うことができるだろう。室岡の耳元で、美音も囁いた。

「私にとっても、あなたの代わりはいないから」

 室岡は微笑んで、もう一度唇を求めあう。

「美音、愛してる」

「ん……、知ってる」

「ずるいぞ……、ちゃんと言って」

「ふふっ、愛してる」

 全ては、あなたに会うために選択してきた道なのだと思えば、あの10年も必要だった道になる。辛い時間の中にも、幸せの種は落ちているのだと、あなたは教えてくれた。そして、それを育て続けてくれたのもあなただ。いつまでも諦めずに、水を与え続けてくれたことを、私は一生忘れない。


「ふぇぇ、ふぇぇ、ふぇぇ」

「えぇ! こんどは華ちゃんなの〜!?」

 泣き出した華の声に、またパッタリと力が抜けた室岡のおでこに、美音は笑いながらキスをする。

「パパ。もう少し、待っててね」

「も〜、ママはパパのものー」

 華ちゃん、パパのためにも、早く寝てあげてね。美音は華がお乳を欲しがっているのではないことを確認して、胸に抱えてベッドの横に腰かける。抱えた指先でトントンとしながら、子守唄を歌い始めた。そう、あの「母の教えたまいし歌」だ。室岡も腹ばいになりながら、華の顔を覗き込む。

「早くママを、返してくださーい」

 と、ホッペを突っついた。

「あっ、笑った」

 室岡が、声を上げる。「スマホ!」と騒いでいる。華ちゃん、パパに最高のプレゼント、ありがとう。どうか、いつまでも幸せを運んでね。あなたの幸せは、きっとパパとママにとっても、幸せだから。でもね、独占しちゃだめよ。パパもママのものなんだから。

「美音、3人で写真撮ろ―」

 室岡の待ち受け画面は、奇跡的に撮れた、3人の笑顔の写真になった。

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