5 外れてしまった世界の関節
*
習い事から家に帰ったら、家族が壊れていた。
日が暮れて、暗いリビング。
この時間だったら、母親が夕飯を作っているはずなのに。父親が風呂に入っているはずなのに。何故か、家の中は真っ暗だった。
変だな、と思いながら電気を点ける。
一面の赤い、異様な空間が広がっていた。
むせ返る濃い鉄臭さ。壁や天井にも飛び散った赤い模様。
思考は停止する。
膝はがくがくと震える。
「……父さん、母さん」
血だまりの中心で、折り重なって父親と母親が倒れていた。両親は目を見開いたまま、ぴくりとも動かない。押し潰されるように、守られるように、その下から小さな手が見えた。
その細い指が、動く。
「――鈴香!」
*
自分の声で、大牙は飛び起きた。
心臓が早鐘を打っている。びっしょりと汗をかいていた。
カーテンの隙間から、薄明かりが室内に差し込む。しん、と静まった大気。夜明け前。
「……くそ」
深呼吸を繰り返して、鼓動を落ち着かせる。繰り返す悪夢を振り払う。
朝から気分は最悪だ。
熱いシャワーを浴び、制服に着替えた大牙は、朝食を適当に済ませて自転車に乗った。朝の街を走り抜ける。住んでいるアパートから梁泉高校まで、自転車で十分。自転車通学の許可が下りるギリギリの距離。
〈回収屋〉のバイトをしていると、どうしても遅刻や早退や欠席が多くなる。今日は真面目に、余裕を持って登校する。授業もサボらず、ちゃんと聞いている。聞いているが、理解はしていない。一時間目は数学だった。早くも眠い。
授業はつまらないが、学校は嫌いではなかった。
友人もいるし、何より周囲が賑やかだ。休み時間、ぼーっとしながらクラスメイトたちのお喋りを聞くのが面白い。「宿題忘れたから見せて!」とか、「来週の大会、負けられねぇぜ」とか、「バスケ部の子に告ったんだってー」とか。みんな青春しているなぁ、と大牙は思う。
平穏な一日を終えて、帰り支度をしていると、水上洋平が声を掛けてきた。
「大牙は今日もバイト?」
「いや、今日は休み」
「お、ラッキー。バスケ部で遊び行こうって話になってんだけど、大牙も行こうぜ」
あれ、と大牙は首を捻る。
「洋平、部活は?」
「体育館の設備点検だかで、今日はない」
「ふーん。……でも、悪い。パスで」
大牙はカバンを持って教室を出る。その後を、慌てて洋平が追う。
「なんだよ、バスケ部の連中に気ぃ遣うことねーぞ? この前の練習試合で、みんな感謝してんだから」
先週の土曜日のこと。
怪我をした部員の代わりに、大牙が助っ人として試合に出た。結果はもちろん圧勝。勉強は苦手だが、運動全般は得意なので、たまに運動部から助っ人の依頼をされる。報酬は要相談。
「ちげーよ。今日は見舞い」
「あー……、そっか」
洋平が小さく呟いた。大牙の家族事情について、友人たちは知っている。
家に強盗が押し入り、両親は死亡。命に別条なかった妹は、入院している。いまだ未解決の強盗殺人事件。
「また誘うから、バイト休みの日を教えてくれよ。鈴香ちゃんによろしくな」
「おー」
手を振って、洋平と別れる。
廊下を歩けば、テニスラケットを持った女子生徒二人とすれ違った。
どこからか、甘い匂いがする。料理研究部が調理室で、お菓子でも作っているのかもしれない。放課後の解放感に溢れた校舎内。廊下の窓から見える空は、きれいな青。夕暮れには、まだ時間がある。
見晴らしの良い、丘の上に青葉総合病院はあった。
市営バスや、病院の無料送迎バスも運行しているが、大牙は制服のまま、自転車で丘の坂道を登りきる。トレーニングだと思えば苦にならない。
いくつもの診療科がある、広い病院内の通路を歩く。渡り廊下で繋がった別棟の入り口で面会受付を済ませ、五階へエレベーターで上がる。
一人部屋の五〇五号室。
スライド式ドアをノックする。いつも通り、返事はない。
「入るぞ」
病室は非常にシンプルな造りだった。ベッドがひとつ、その脇に小さなサイドテーブルと丸椅子。個室でも洗面台やトイレはなく、がらんとしている。強化ガラスの窓からは、遠く街が見えた。
「お、今日は起きてるな」
点滴スタンドに触れないよう注意しながら、大牙は丸椅子に座った。足元にカバンを置く。
「元気だったか? 鈴香」
リクライニングが起こされたベッドには、パジャマ姿の少女がいた。
焦点の合わない瞳で、宙を見つめている。陶器のような白い肌、小さな唇。
結っていない黒髪が肩の辺りで切り揃えられている。
「そういや、髪切るって言ってたな。うん。似合ってる」
声を掛けても、反応はない。
大牙は手を伸ばして、妹の頭を撫でた。指で髪を梳く。
反応はない。
鈴香はただ、宙を見つめ続けている。
両親を目の前で失ったショックで、幼い彼女の精神は深い殻に閉じこもってしまった。出来事の一部始終を目撃したであろう鈴香から証言が得られれば、事件解決の手がかりになると警察は考えている。が、状況はなかなか好転しない。
「あれ。お気に入りはどうした?」
サイドテーブルの上には何もない。
大牙は丸椅子から立ち上がり、衣類や生活用品が仕舞われている収納棚を開けた。柔らかいプラスチック製のカゴの中、髪ゴムやクシと一緒にスズランの髪飾りがあった。
髪飾りを手に取り、大牙は丸椅子に座り直す。
慣れた手つきで、鈴香のサイドの髪を三つ編みにする。耳の横の位置、髪飾りを使って留める。
「うん、上出来。どーだ、鈴香。兄ちゃん、結うの上手くなっただろ」
人形のように無表情な妹へ、大牙は笑い掛ける。
「今日はバイト休み。ゆっくり居られるよ。そうだ、先週の土曜にバスケ部の助っ人で練習試合に出たんだよ。んで、オレ三十点も入れたの。マジ大活躍。鈴香にも見せたかったなー、華麗なるスリーポイント・シュート!」
ベッドの鈴香からは、声も笑みもない。それでも、大牙は話し続ける。
たったひとりの、家族に向けて。