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花と狼  作者: riki
第二章 花護の騎士
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 シラーさんはあの時の状況を知らないから誤解しているんだ。

 スパイだと疑われて、尋問を待つしかなかったわたしを守るために、ロベルトさんは花狼を買って出てくれた。一刻を争う場面で少しばかり説明を省かれたからといって、騙されたというのは言い過ぎじゃないだろうか。


「……ロベルトさんはわたしを助けてくれたんです。彼は失うものこそあれ、素性もわからないわたしの花狼になって得るものはないと思います」

「得るものならばありますよ。花狼となった狼には、己の《ルーフェン》が増すという恩恵があります」

「ルーフェン?」

「《氣》というのは、狼特有の能力です。鍛錬次第で強くすることも可能と聞きますが、生まれ持った容量を増やすことはできません。ただし例外があり、誓約を交わした狼だけは氣の容量が増すのです。鍛錬の次元と違い能力の底上げですから、一説には主花を守れるよう神が恩恵を与えるのだといわれています」


 ロベルトさんにもメリットがあったの? だけど氣の力が上がるのは他の狼から主花を守るためなら、何がいけないのだろう。

 もっと詳しく聞きたいと思っていたら、マルクス君が戻ってきた。彼には記憶喪失で通しているから迂闊なことは尋ねられない。


「シラー先生、マルクスです」

「お入りなさい」


 扉が開く。マルクス君は湯気の立つ木椀が乗ったトレーを手にしていた。少年の背後で閉まる扉に、あれ、と思った。マルクス君は両手でトレーを持っている。必然的に扉を開閉したのは彼以外になる。


「外に誰かいらっしゃるんですか?」

「神聖騎士が警護に就いています。ロベルトも居たようですが。マルクス?」

「騎士団長さまによばれて、宿舎へ向かわれました」

「あ、あのっ! ロベルトさんが外にいたんですかっ?」

「あなたが目覚めるまで待つと言って、三日間部屋の外に居座り続けていました。外務の狼が厚かましい。八花片の花狼でなければ即刻叩き出すところです」


 ロベルトさんがいた! わたしが目覚めるまで、扉一枚隔てた場所に?

 知っていたら、会っていたのに。彼が部屋に入ってこられないのなら、入口まで這ってでも行っただろう。もう少し早く教えてくれていたら……ガックリと肩が落ち、深い溜息がこぼれた。


「――そんなにロベルトに会いたいですか?」


 シラーさんの声は思案するようだった。わたしは勢い込んで頷いた。頭を強く上下したからかクラクラ眩暈がしたけど、ロベルトさんに会わせてもらえるなら何だってよかった。

 水色の瞳を食い入るように見つめて訴えると、わたしの必死さがどう映ったのだろう、シラーさんは「考えておきましょう」と言ってくれた。


「よ、よろしくお願いします!」

「リンさま、冷めないうちに食べてね。おいしいよ」


 仏頂面で話を聞いていたマルクス君がにっこり笑ってトレーを差し出した。白い湯気を立ち上らせたスープの椀が乗っている。お礼を言って受け取りながら、気になっていることを尋ねた。


「マルクス君、なにか怒ってる?」

「どうして? リンさまにおこることなんて、なにもないよ」

「わたしじゃないなら……ロベルトさんに、とか?」


 ムッと寄った眉間に、やっぱり、と確信した。


「だって……なんでトリスタン狼がリンさまの花狼なの? 強い狼ならほかにも……」

「口を慎みなさい! ロベルトは神聖騎士ですよ。主教から叙勲された者に対して偏見を持つなど、教会の《仔狼》として恥ずかしいと思いなさい」


 唇を噛みしめた少年はシュンと項垂れた。

 神聖騎士に憧れを抱いている少年がロベルトさんを嫌う理由がわかった。

 ロベルトさんが、トリスタン人だから。

 マルクス君のように幼い子供までもが嫌悪を抱くなんて、二国の関係は仲が悪いというレベルではないような気がする。


「八花片、食事は入りますか?」

「いただきます」


 熱いスープを吹いて冷まし、一口啜ると野菜の甘さが舌に広がった。

 塩味は控えめながらふわりと香るハーブが食欲をそそる。軟らかくなるまで火を通した野菜は、ほうれん草やじゃが芋などむこうの世界と同じだった。何が入っているのかと内心おっかなびっくりだったのでホッとした。ハールベリスの食文化は地球とさほど変わらないようだ。


「……おいしいです!」

「口に合ったようですね。胃が慣れていないでしょうから、ゆっくり食べるようにして」


 シラーさんの言葉に従い、時間をかけて器を空にした。

 食後に出されたのは薬蕩だった。意識のある時に見るのははじめてだ。茶色い泥色の液体に怖気づいていると、「シラー先生の薬蕩はグラナートで一番ききめがあるんだから!」とマルクス君に叱られた。

 思いきって飲んだ薬湯は甘苦く、後口がさっぱりしていた。憶えのある味に、改めてシラーさんにお世話になっていたんだなあと申し訳なくなった。

 シラーさんは食器をまとめてマルクス君に渡した。


「マルクス、八花片にはわたくしがついています。おまえは学校へ行きなさい」

「はい、シラー先生。じゃあね、リンさま。学校がおわったらすぐにくるから!」

「え……あ、いってらっしゃい!」


 マルクス君は慌ただしく立ち去っていった。

 学校と聞いたときに瞳が輝いたから、彼にとって学校は楽しい場所なんだろう。明るくて元気な彼なら友達も大勢いるに違いない。


「この国には学校があるんですね」


 貧しい国ではなかなか教育が行きとどかないと聞く。子供も貴重な働き手として労働に従事することを優先させられるからだ。マルクス君もこの教会で部屋付きという何かの仕事を持っているようだけれど、ちゃんと学校にも通えているんだ。


「ええ。花にとって教会が学ぶ場であるのと同様に、《仔狼クライン》が通う学校は教育と将来進む道を見極めるための重要な機関です」

「あの、クラインって何ですか?」

「《仔狼》とは成人するまでの狼をさします。幼稚、子供であると比喩して使うこともありますが。さあ、話は後にしてあなたもお休みなさい。わたくしがついていますから」


 ベッドに横になると、途端に瞼が落ちてくる。温かいスープでお腹が膨れて眠気がやってきたようだ。椅子に腰かけたシラーさんも霞んで見える。


「……シラーさんもお忙しいでしょうし、わたしなら一人で大丈夫です」

「あなたの世話がわたくしの役目なのです。手を煩わせたくないというのなら、早く良くなることですね」


 シラーさんの言う通りだ。わたしが良くなれば、彼女に迷惑をかけずにすむ。


「……ごめんなさい。もう少し、お世話になります……」


 回らない舌で何とかそれだけ言うと、急速に襲ってきた眠気に引き込まれた。




 ++++++++++




「…………様……リン様」


 繰り返し打ち寄せる波のように名前を呼ぶ声が聞こえる。

 飽くことのない囁きは穏やかに低く、まどろむ意識がやさしく揺り起こされる。

 瞬いた視界に入ったのはベッドの脇に佇む影だった。陽の落ちた部屋の闇に溶け込む黒。一瞬息を呑み、声を上げそうになった。


「しぃ……静かにお願いします」


 ぽつりと灯る青い光は一つ。

 注意を促した影は静かにわたしの枕元に近づいて、その長身を屈めた。


「長くお傍を離れて申し訳ありません、《主花アウリーシェ》」


 呑みこんだ悲鳴が、嗚咽にとってかわりそうだ。

 おぼろげに捉えた輪郭は一気にあふれる涙に歪み、急いで上掛けを引っ張り顔を隠した。


 ロベルトさんだ。

 ロベルトさんが来てくれた!

 喜びが湧きあがり胸がいっぱいになった。胸の鼓動が煩いぐらいだ。何か言わなくちゃと思ったけれど、唇から洩れるのはこらえきれなかった嗚咽だった。

 静かにしないといけないのに。泣いたらきっと彼を困らせてしまうのに。

 でも、嬉しくて。

 上掛けを握る拳に力をこめた。手の平に突き立つ爪の痛みを戒めにしていたら、温かな手がわたしの拳を解いた。びっくりして顔を出すと、ロベルトさんはわたしの左手を捕まえて、彼の手の中に収めてしまった。


「傷がつきます。爪を立てるのなら、どうぞ私の手に」


 少しずつ慣れた視界。ロベルトさんは優しい表情でわたしを見つめていた。途端に握られた手が気になって、先程とは違う意味で心臓がドキドキし始めた。

 は、はやく泣きやまないと……。

 泣いている間は絶対開放してくれなさそうな雰囲気に、わたしは深呼吸を繰り返して息を整える。空いた手でぐいぐいと涙を拭った。


「……も、もう大丈夫です」


 泣きやみました、と報告のつもりだったのに、ロベルトさんは掴まえた左手を離してくれない。何かを確かめるように指を矯めつ眇めつし、小さく微笑んだ。


「――綺麗に治りましたね」


 反射的に手を引っ込めた。かぁっと頬が熱くなる。

 ロベルトさんって、ロベルトさんって……!!


 思い出してしまった。

 彼の治ったという言葉が何を指すのかは明白だった。誓約のとき針で指した指先。滲む血を舐めとられた感触が生々しく蘇って、恥ずかしさに目を合わせることができない。

 わたしはもう一度上掛けをかぶって引きこもりたくなった……。

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