19
「三日も看病してくれてたんだね、ありがとうマルクス君」
「そんなの、あたりまえのことをしてただけだから……」
お礼を言うとほんのり頬を染め、はにかむように笑った。
こんな子が弟にいたら嬉しいなとほのぼのしていると、彼は弾かれたように扉を見て立ち上がった。
「シラー先生だ!」
「わかるの?」
「足音でわかるよ」
わたしの耳には聞こえなかった。子供でも狼の聴力は相当良いらしい。
マルクス君の言葉通り、入ってきたのはシラーさんだった。
「起き上がれるようになったのですね」
「はい。おかげさまで元気になりました。マルクス君から三日も看病してくださったと伺いました。ありがとうございました」
「そのことについては前に言った通りです。感謝の言葉は必要ありません。――これをお使いなさい」
ホカホカ温かいタオルをシラーさんから渡される。
受け取ったままぼうっとしているわたしに、「顔を拭う用です」と突っ込みが入った。赤くなりながら寝惚け眼をタオルに埋めると、じんわりと伝わる温もりが気持ちいい。ごしごし顔を擦ったらさっぱりと目が覚めるようだった。
起きたときに差し出された水とタオル。シラーさんて、一見冷たいように見えるけれど、気配りが細やかで優しい人だ。
「ありがとうございました、シラーさん」
シラーさんは僅かに目を伏せ、わたしの手からタオルを取り上げるとマルクス君に渡した。申し訳なくて口を開きかけたら、「ぼくの仕事だから、いいんだよ」と機先を制された。
彼は早くもわたしが世話をされるという事態に慣れていないことを見抜いたらしい。将来出世できるよ、マルクス君……。
「マルクス、その言葉遣いはなんですか? 改めなさい」
思いがけずシラーさんから飛んだ叱声に、少年は怯えたように肩を揺らした。
わたしは慌てて彼女の誤解をとこうと声を上げた。
「ちがうんですシラーさん! マルクス君にはわたしから普段通りに喋ってほしいってお願いしたんですっ。わたしは八花片って言われてますけど、実感もわきませんし、だから丁寧な扱いをされると緊張するんです。できればシラーさんも普通にしてもらえると嬉しいんですが……」
わたしの説明を黙って聞いていたシラーさんは溜息を吐いた。
「あなたが望むのならば、マルクスの件に関しては何も言わずにおきましょう。この子はあなたの部屋付きですから。ですが、他の者にそれを強制するのは誤りです」
「強制なんてっ、わたしはただ、距離をおかれているみたいに感じて」
「親しく接することと、けじめをつけることは違います。あなた自身がどのように思おうと勝手ですが、周りに示しがつかないでしょう」
「……そこまで、考えていませんでした。すみません……」
余計なことを言ってしまった。頭を下げながら、自分の浅はかさを噛みしめる。
日本の感覚を持ち込むべきじゃないのはわかっていたはずだったのに……。
部外者が勝手な口出しをすることで教会の生活が乱れる。シラーさんの叱責はもっともすぎて反論の余地はない。わたしが頼んだことでマルクス君が怒られた。理不尽なようでも、これが教会という枠組みの中において当然だとしたら、言葉や振る舞いに一層慎重になる必要がある。
……ロベルトさんに、会いたい。
ぽつりと浮かんだその思いは、水滴が波紋を作るように胸に広がった。
彼に会っていろいろ尋ねたいというのは理由の半分、もう半分は心細いからだ。依頼心の強さは自分の心の弱さだと戒めてみても、事情をすべて知っているロベルトさんに会って安心したいと思ってしまう。
「あの、ロベルトさんはどちらに? 彼に会いたいのですが……」
キンッと空気が凍った。シラーさんはおろか、マルクス君も怖い顔をしている。わたしは訳がわからなくて、ただ二人を交互に見ていた。
ロベルトさんに会いたいと言ったのはまずかったのだろうか?
「……シラーさん?」
「ロベルトにはあなたが目覚めたことを告げてあります。ですが、会うのは身体が本調子に戻ってからの方がいいでしょう」
「そんな! もう充分休ませてもらいましたから、大丈夫です」
ほら、こんなに全快です!と腕を動かして見せた。ピシピシと肩に走る筋肉痛に似た痛みは気力でカバーだ。懐疑的な視線を微笑みで受け止める。
シラーさんは納得してくれたのか、扉を示して言った。
「神聖騎士といえ、成人した狼を花の部屋に入れるわけにはいきません。ロベルトに会いたければついて来なさい」
「リンさま大丈夫? ずっと眠ってたんだよ。目がさめたばかりなのに……」
心配顔のマルクス君に「大丈夫、大丈夫!」と請け合って、立ち上がる。
うん、多少身体はだるいけど問題ないと思う。
ところが歩きだすと床が異常にふわふわしていて踏みしめた感覚がない。わあ、雲の上を歩くってこんな感じかな……と暢気に考えたとき、カクンと膝が折れて、わたしは床に尻もちをついていた。
「あれ……?」
「リンさまっ!」
差し出された紅葉みたいに小さな手がブレて見えた。目が霞んでいるのかと瞬きしながら顔を上げたら、部屋中がぐらぐら揺れている――。
「しっかりなさいっ」
強く肩をつかまれた。前のめりに倒れる寸前だった上体をシラーさんが支えてくれていた。
険しい視線を向けられ、わたしは冷や汗をかきながら身を縮めた。
膝に力が入らなくて、マルクス君と二人がかりで助け起こされてようやくベッドまで戻ることができた。無言の圧力にすごすごと上掛けにもぐりこむ。
「呆れたものですね。自分の状態もわからないのですか?」
「ご、ごめんなさい……あの、自分ではもう元気になったつもり、だったんです……」
もごもごと言い訳を口の中で転がした。
三日寝ていたらこうも足が立たなくなるなんて想像していなかった。
落ち込んでいると、ぐぅ、とお腹が鳴った。もちろんわたしのお腹が、である。かあっと顔が熱くなった。両手でぎゅうぎゅう押さえても一向に静かにならない。
せめてもうちょっと雰囲気を読んでくれたらいいのに。恥ずかしくて二人の方を見られない。
「マルクス、食堂には消化の良いものを用意するように話を通してあります。八花片の食事を取りに行きなさい」
「はい、シラー先生」
扉を開閉する音が一度。マルクス君は部屋を出ていったようだ。
そろりと目を上げると、シラーさんは椅子をベッドの脇に移動させ、腰かけたところだった。わたしとの距離は一メートルも離れていない。
花の匂いって、どれぐらい近づいたらするんだろう。支えてもらった時はそれどころじゃなくて、シラーさんからどんな匂いがしたかなんて覚えていない。
わたしは無意識のうちに、くん、と鼻を鳴らしていた。
「何のつもりですか、八花片」
「え……?」
見咎められて我に返り、自分の行動に青くなった。
何のつもりかと訊かれれば、シラーさんはどんな匂いがするのかなと思って嗅いでいました、としか答えようがなく。
……これでは変態だっ!
「いえ、そのあのっ、たっ他意はなくてですねっ! わたしがこの国にきてから初めて会った女性がシラーさんでっ、それで花ってどんな匂いがするのかなと気になって、……失礼な真似をしてしまいました! ごめんなさいっ!」
わたしはベッドの上に正座して、シラーさんに頭を下げた。
クリストフェル殿下やロベルトさんに匂いを嗅がれたとき良い気持ちがしなかったのに、他人に対して同じことをするなんて最低だ。シラーさんが怒るのももっともだった。
「――ロベルトの言葉を信じる気はありませんでしたが、あなたが異なる世界から来たというのもあながち嘘とは言い切れないようですね。わたくしは怒っていませんから、さあ顔を上げて」
事実声音は穏やかで、促されるままわたしは恐る恐るシラーさんを窺った。表情は変わらないものの、水色の瞳には思案する色が浮かんでいた。
今、シラーさんはなんて言ったの? 聞き間違いじゃなかったら、わたしが異世界から来たと言ってたような……。
「シラーさんは、ええと、知ってるんですか? わたしが……」
どう言って説明したらいいだろう? 頭がおかしいと思われるのも、嘘をついていると疑われるのも、悲しい。もし受け入れてもらえなかったら……そんな不安で言葉が続かない。
口ごもるわたしに、シラーさんが告げた。
「目覚めたあなたの様子を見て違和感を覚えました。ハールスの言葉を話しておきながらこの国についてあまりにも無知ですから。本当に記憶がないのであればもっと取り乱すでしょうに、しっかりと自我を保っている。ですからロベルトに詳しい経緯を尋ねたのです。耳にしたときは彼の理性を疑いましたが」
きっとロベルトさんはわたしの話をありのまま伝えるしかなかったんだ。
自分の身に起こった事にもかかわらず、わたしだってどこか夢のような気持ちがぬぐえないのだから、シラーさんが信じられないのも無理はない。白い眼を向けられただろうロベルトさんに申し訳なく思った。
「それに、あなたの振る舞いには《花》としての本能が感じられません。これはわたくしの私見にすぎませんが」
「花としての、本能?」
「先ほど匂いを嗅ごうとしたと言いましたね? ロベルトは所詮《狼》、花のことに思い至りはしないのでしょう。――花は花の香りを嗅ぎとることはできない、この世界に生きる花と狼ならば言うまでもないことですから、彼は説明しそびれているようですね」
花同士は、匂いを感じることはできない……?
シラーさんはおもむろに上着の襟元に手をかけ、引き下げた。覗いた真っ白の肌にわたしはどぎまぎと視線をそらした。
ど、どうしてシラーさんは、いきなり服を肌蹴たりするんだろう?
「正式に名乗ってはいませんでしたね。わたくしは花の位《無花片》、《寧花》のシラー・ハールスラント。説明するよりも見る方が早いでしょう。わたくしは花紋も、そして香りも持ちません」
促されてシラーさんの胸元に目を戻した。
鎖骨の下、豊かに盛り上がる胸の間には、シミひとつなかった。




