絶望スパゲッティの希望(4)
その夜、美玖はなかなか眠れないようだった。一階におりて、ホットミルクを飲んでくると言っていたが、心配になってきた。重美の事は想像以上に美玖も心労だったようだ。
友達関係ではあったが、料理の教えてくれる先輩と後輩のような関係でもあった。美玖は重美に尊敬し、憧れている面も強かった。美玖の立場に立てば、あんなに料理を嫌い、絶望の中にいる重美は見たくないだろう。
「美玖? ホットミルク飲んでいるのかい?」
「ええ。さくちゃんも飲む?」
寝室から一階におり、ダイニングテーブルにいる美玖を見てみた。小さな灯りをつけ、ホットミルクを飲みながら、何か見ていた。
「いや、ホットミルクはいいよ。何見てるんだい?」
美玖の隣に座って聞いてみた。
「これ? レシピブック。重美さんから料理教えてくれた時、もらったの。全部手書きですごいから」
少し美玖からレシピブックを見せてもらったが、全て手書きで、イラストもみっちり描いてあった。重美の生真面目な性格を具現化したようなレシピブックで、料理の細かいコツとかも書いてあった。古いもので紙も傷んでいたので、スキャンしてデータ化しても良いかもしれない。このまま古い紙束にしておくのは、勿体ないレシピブックだった。
「何かこのレシピブック見てるとね。重美さんも家族の為に一生懸命だったんだなぁって。このレシピブックは元々は重美さんが家で書いていたもので、新婚の私にくれたもの」
「そっか……」
レシピには「夫がハンバーグ喜んでくれて私も嬉しい」とか「息子が意外とピーマン好き!」という重美にコメントもあり、朔太郎は心が痛くなってきた。重美が料理を楽しんでいた事は事実なのだろう。だからこそ、裏切られた時の反動は酷いはずだ。重美が料理ができなくなった事は、少しも責められないが、このままで良いのだろうか。
確かに外食や惣菜も悪くはないが、健康面のことも心配になってしまう。レシピを見ながら、絶望のただ中でも簡単にできて、心が温かくなる料理はあるか考える。
「あ、美玖。この絶望スパゲッティって何だ?」
ふと、レシピにある妙な名前のパスタが気になった。ニンニクとオリーブオイルでつくるぺぺロンチーノそっくりのパスタだったが。
「これ? 本当にイタリアに絶望スパゲッティってパスタあるんだって。何でも絶望している時でも簡単にできて美味しいパスしだって。ペペロンチーノ風だけでなく、トマトソースっぽいのも色々あるみたいだけど」
「これ作ってみるのいいんじゃないか? ちょうど我々が送ったパスタセットもあるし」
「なるほど! 確かに絶望スパゲッティなら完璧じゃない!」
重美の家で作る料理は絶望スパゲッティに決まった。アレンジしてオイルサーディンやハーブも持っていく事も着々と決まっていく。
「でも、この絶望スパゲッティだけは、このレシピブックで浮いてる気が。材料も一人分何だよな」
他のレシピは材料はだいたい三人分か二人分で計算されていたので、気になった。
「そういえば重美さん。一人のお昼は絶望スパゲッテよく作っているって言ってたな。こんな手抜きも一人の時は許されるからって」
美玖は切ない表情を浮かべながら、ホットミルクを啜っていた。
「そうか。重美さん、元気になれると良いな」
「そうね……」
この場の空気は決して明るくはない。実際、小さ照明だけの薄暗い夜だ。静かすぎる夜。窓の外には細い月が見えるだけ。
それでも絶望はしていなかった。朔太郎も美玖も重美が回復する事を望んでいた。




