Drunk It [Poison] Blood 2
「おはようございます」
「おはようございます。社長はまだいらしてませんよ」
社屋の入り口を背にするように立っている警備員の男に女が挨拶をすると、50は過ぎているであろう警備員は女の求めている答えを笑顔で返した。
「ありがとうございます。なんだか、いつもすいません」
「構いやしませんよ。どこかでお待ちになるのでしたら、自分がお伝えしておきますが?」
「いえ、挨拶だけしておきたいだけですので。社長もお忙しいでしょうし」
「分かりました。ですが、せめて建物の中でお待ち下さい。風邪を引いてしまいますよ」
「立花さんは大丈夫なんですか?」
「電池式のカイロを3つ。社長が支給してくれた物があるので、自分は大丈夫です」
警備員はそう言いながら、ポケットから長方形の物を取り出す。
それを満足そうな笑みを浮かべて見せてくる警備員に、女は会釈をして言われた通りに自動ドアをくぐって社屋のロビーで待つ事にした。
色使いを白で統一し、巨大な鳥の彫像が飾っているロビーはまだ空調が入れて間もないのかまだ寒く、女はマフラーへ伸ばしていた手を下げる。
ガラス張りにされた壁面のおかげで日の光を取り込めてはいるが、それは真っ白な床に反射するばかりで熱をロビーに広めようとはしない。
――サラトフでのテロで経済がどれだけ動くのかしら
暇を持て余し始めた女の脳裏に、先ほど振り払ったはずの思考が甦る。
ここ十余年で電気は無限の可能性を持ったエネルギーへと変わった。
化石燃料よりも早く装置を動かし、より効率的にエネルギーを分配する事が出来る。
しかし停止されていたとはいえ、あれだけ大きな施設を吹き飛ばされた事は国土の大きいロシアの経済にどれだけの影響を与えるのか。エネルギーの主体が電気に移ったとはいえ、その電気は石油などがの化石燃料で作られており、それ以外にも使われなくなった訳ではないのだ。
8時15分。社屋内の空気が温まり始め、そろそろ工場勤務の人間達が出社を始めるだろう時刻となったその時、社屋前に黒塗りの車が停められた。
ガソリンで動くこの時代では成金趣味を感じさせるその車から、金ボタンがついた黒いスーツを纏う40代後半の男が鮮やかな茶髪をなびかせる女をを連れ立って降りる。
益体のない思考に没頭していた女は、待ちわびていた男が社屋に入った事に気付いて頭を下げて出迎えた。
「……始業時間にはまだ早いね。おはよう、晶」
「おはよう、父さん」
出迎えられた父さんと呼ばれた男、昌明・鴻上は左手首に着けた豪奢な金の腕時計で時間を確認して、連れ立っていた茶髪の女に手で先に行くように指示する。
男の秘書である茶髪の女は晶と呼ばれた黒髪の女に恭しく頭を下げて、エレベーターへと向かっていった。
「毎朝出迎えてくれるのは嬉しいけど、大変なんじゃないか?」
「そんな事はないけど、いやだった?」
ハイスクールを卒業し自立した1人の人間として会社に尽くすと決めた晶と、1流企業の社長となって忙しい毎日を送る昌明。
その2人が顔を合わせられる唯一の時間は、始業前の十数分程度だった。
「それこそ、そんな事はないよ。晶に報告したい事もあったからね」
自身の問い掛けに否を返す昌明に連れられ、晶はロビーの端にある椅子へと父と対面するように座る。
カフェテラスでも何でもない、飾り程度に置かれているそのソファセットは2人の特等席だった。
「今週中に詳細な報告をしてもらう事になるけど、仕事の方はどうだい? ちょっと言い方は悪いけど、大変な人達を任せてしまったというか……」
「……2人は真面目にやってくれてるけど、問題児が3人に増えたって感じかしら」
「3人に増えたって言うと、1人は新しく入った人だとして、2人は巽君と劉君かい?」
言い辛そうに答える娘の回答に昌明は眉間に皺を寄せながら、以前より問題児扱いされていた役員の娘の姓を挙げる。
ようやく仕事に取り組むかと思われたその2人が前の状態に逆戻りしたのでは、娘の努力が余りにも報われない。
そう考えた昌明は思わず右手で顔を覆いながら深いため息をつくが、晶はそんな父の様子とは裏腹に何でもないような態度を崩そうとはしない。
「まあ、それも仕事の内だから気にしないで。さっきも言ったけど、花里さんと此花君、時期外れの新入社員3人の内の2人はよくやってくれてるから業務が滞ってる訳でもないの。無断欠勤を続けてる劉さんに関しては、覚悟してもらわないといけないけれど――そんなことより報告したい事って?」
「ああ、聞いて驚かないで欲しい――父さん、再婚する事にしたんだ」
もったいぶったその言葉に晶は一気に熱が引いていく感覚と、世界が一気に遠くなるような感覚に苛まれる。
不快感というには無機質すぎるソレを持て余す晶の様子に気付く様子もなく、昌明はにやけた表情を隠さないままに言葉を続ける。
「相手は秘書の飯塚君だ。年の差なんて父と娘くらいあるのに、それでも構わないって言ってくれたんだ」
最後にのろけまで付け足した言葉を嚥下しながら、晶は平静を取り戻すように胸元のメダイを指先で撫でる。
そして晶の胸中に残ったのは、唯一の肉親を取られてしまったような寂寥感だけだった。
しかし晶にとっては年上の後輩であり、父の秘書でもある加奈子・飯塚と出会ってからの父の雑多に伸びていた白髪混じりの黒髪はすっきりと整えられ、皺と汚れだらけの白衣は清潔感のあるスーツに代わり、隈が浮かびやつれていた顔は血色と肉付きを取り戻した。
時計や車が成金趣味じみてしまったとはいえ、小さな製薬会社の冴えない薬剤師を1流企業の社長に変えて見せるという、自身では出来なかった事をこなしてみせた父の婚約者を晶は認めないわけにはいかなかった。
「……そっか。おめでとう、父さん」
表情筋を総動員して笑顔を浮かべながら、晶はどうにか祝いの言葉を父に紡いだ。
父がようやく得る事が出来た他の何物にも変えられない幸せ、それを幼稚な独占欲で台無しにするなど晶に出来るはずが無かった。
「ありがとう、晶。そうだ、良かったら近い内に皆で食事にでも行かないか?」
「誘いは嬉しいけど、それは今じゃなくても行けるでしょう? それよりも飯塚さんと一緒に居るべきよ」
「そういうものなのかな?」
「そういうものよ。1人の女として、わたしも同じ状況に居たらきっとそう思うわ」
思い付いたように告げられた昌明の提案を、晶は咎めるように建てた人差し指を突き出すようにして突っぱねる。
46歳という遺産目当てでは近付かないであろう年齢の父に嫁いでくれる、望む限り最上級の家内となるであろう飯塚を父に逃してもらって困るのだ。
「おっと、そろそろ時間だな。近い内じゃなくても食事には必ず行こう、また連絡するから」
「ええ、じゃあまたその内に」
そう言いながら晶は笑顔で立ち去っていく父の背中を眺めながら、胸中に広がる寂寥感と満足感を噛み締めていた。
男手1つでここまで育ててくれた父、ハイスクール卒業後は庶務として働き続けていた父の鴻上製薬。
自身の人生とも言えるその2つが確かにその手を離れていった感覚に、小さな笑みをこぼして晶もロビーを後にして自身の職場へと歩き出した。




