Drunk It [Poison] Blood 1
日本の川崎にあるマンションの1室。
テレビから漏れるニュースを伝えるアナウンサーの声を遠くに聞きながら、1人の女が鏡の中の自身を見つめていた。
本人の意思を強さを象徴するように混ざり毛の無い黒い前下がりに切られたボブカットの髪、そしてその同色の瞳を輝かせる少々吊り上がり気味の目は冷たい美しさを誇っていた。
――髪のセット良し、化粧も派手じゃない程度、スーツもシャツも皺はなし、と
そして女は確認するようにシャツの襟を少しだけ開いて、シャツの襟に隠すように着けている銀のメダイを覗かせる。
その銀製のマリアが刻まれているメダイは、160cmという平均に少し届かない小柄とも大柄とも言えない女には少し大きい物だった。
メダイを隠すように襟を整えた女は、壁に掛けた時計を見ながらテレビの電源を消して首に赤いマフラーを巻いていく。
銀色の針が指し示している時刻は7時35分、始業時間である9時にはまだ早い時間。
それでも女はスレンダーな身に纏うネイビーのパンツスーツの上に薄い灰色のトレンチコートを羽織り、玄関に置いていた鞄を手に取って外出の準備を済ませる。
携帯電話はジャケットのポケットに、財布は鞄に入れてあるのを確認した女は黒いパンプスを履いて誰も居ない部屋へと向き直る。
「いってきます」
そして女は扉を開けて外に出て、オートロック機能が扉を施錠する音を聞いて近くの階段を下りていく。
女はいくつかルールを自分に課していた。
"1人で階を下る際には必ず階段を使う"。上りこそ面倒でエレベーターを使ってしまうが、オフィスワークで運動不足の体を動かすために下りは階段を使う事にしていた。
"酒とタバコとはやらない"。酒はともかく害しか残らない煙に金を使うのはもったいない。
そして"仕事には全力を尽くし、会社には全力で尽くす"。
守れるルールと、守るべきルール。厳格な性質の女はルールを増やす事はあっても、減らす事はせずにそれを遵守し続けていた。
女はポケットに手を入れたい衝動に抗いながら、マンションの自動ドアをくぐって外を出る。
――今度の週末に手袋でも買いに行こうかしら
海が近いせいか風がとても冷たく、女はそんな事を考えながらまだ駅へと歩いていく。
まだ8時前という時間からか、駅付近だというのに人ごみはまばらだ。
――川崎駅から徒歩5分、わたしが歩くと徒歩10分
データを取っている人間は特別歩くのが早いのだろうか、それとも足が自身の倍の長さなのだろうか、それともそういった極端な人間達を集めた上での平均値だったのだろうか。
間取り、セキュリティ、家賃、備え付けの設備。それら全てをクリアしている自身の住まいに不満はないが、数値化されているデータの不備が女には気になってしょうがないのだ。
――決して引っ越した頃に5分の誤差のせいでバスを逃した事を根に持っているわけじゃあないのよ
女がそう自身に言い聞かせながら駅前のバス停に到着した頃、示し合わせるようにバスが白いラインに沿って停車する。
気体を噴出すような音と共に開かれた扉をくぐり乗車した女は、ポケットから取り出した携帯電話をスキャナーにかざして近くのシートに腰を下ろす。
空調が効いた車内はとても暖かく、女がかじかんだ手を揉むようにして暖めていると、運転手と女だけを乗せたバスが走り出していく。
時代が変わり、世の中の仕組みが変わっても変わらない、窓の外の雑多な街並みを女はぼんやりと眺める。
凍えるほど冷たい路地に寝転がる浮浪者、砕かれ散乱するアルコールのビンの破片、夜通し飲み明かしたのであろうフラフラと歩く若者達。
この荒れた街に住んでいても、女にはニュースでアナウンサーが読み上げていたニュースが遠くの世界の事に感じられていた。
ロシアのサラトフで起きた天然資源施設を吹き飛ばしたテロ。
対抗勢力に命を狙われた女性政治家。
モスクワ近郊で起きたD.R.E.S.S.による戦闘。
その末に明らかになった政界に横行していた汚職の数々。
ロシアのモスクワと日本の川崎は数値通りの遠い場所に位置しているが、そういうことではない、自身の住む世界とその命をやり取りが実際に行われれているその世界との間に確実に存在する見えない壁を女は感じていた。
日本でもD.R.E.S.S.を使用したテロが行われた事があったが、元々他国と比べて犯罪の少ない日本ではニュースを度々騒がせるほどではなかった。
――まあ、関係ないわね
考え込んでしまうのは悪い癖だ。高校時代の友人に言われていた未だ消える様子の無いその傾向に女は嘆息し、窓から差し込んでくる眩しい朝日を右手で遮る。
やがてバスは街を抜けて埋立地へ入り、そして正面に工場を併設した大きな社屋が見えてくる。
行き過ぎた資本主義はその埋立地に建てられていた公共施設を潰し、急成長した製薬会社へとその場所を譲った。
そこを利用していた人々、そこで働いていた人々。その決して少ないとは言えない人々を無視したその結末に、女は時代を逆行したような理不尽を感じるがそれ以上を感じたり考えたりする事はない。
自身もその資本主義で居場所を得た1人なのだから。
そしてバスは申し訳程度に屋根をつけられたバス停に停車し、女は目的地に着いたバスから降りて社屋へと歩き出す。
周りを海で囲まれた社屋周辺は自宅周辺とは比べ物にならないほどに寒く、女は手袋の購入を改めて深く心に決めた。




